3度の勘違い2題

 メロディーに対して、メロディーと同じ動きのハーモニーをつけようとした場合、3度下を演奏させることがある。ここで重要なのは、これは必ず適切というわけではないというところだ。ところが3度下をいっておけば必ずハモると思い込んでいる人が、音楽をやっている人(音大出身を語る人)たちの中にもいるから困る。

あるアンサンブル集団でのこと。2本の楽器がユニゾン(まったく同じ旋律)でメロディーを演奏するようにアレンジされている箇所があったんだけれども、そのうちの一人がユニゾンはつまらないからといって、ハモらせようとメロディーの3度下を機械的に演奏したのだ。もちろん演奏は珍妙な汚いものになったのは言うまでもない。どのような和声が付いているのかも考慮せず、しかも機械的な3度下。何考えてんだ?とあきれた。しかもこの人が音大出身で音楽のことは他の人より分かっているつもりになっている点が、痛くて痛くて仕方がなかった。

是枝監督の映画「そして父になる」。ある程度裕福でそれなりの教育を息子に施している家庭が出てくるのだが、この息子がピアノの発表会で演奏するのが「メリーさんの羊」なのだ。これが見事に機械的3度演奏(「ミーレドレミ、ミ、ミ」という右手に対して「ドーシラシド、ド、ド」の左手)アレンジ。もっともこの家庭は教育にお金はかけているが、その教育の本質的よしあしには関心がない。そして息子も積極的にピアノに興味がなくあまり上手くもないという設定なので、これはこれで機械的3度演奏が結果としてそれなりの効果を生んでいる点は認めよう。ただ、映画の出来とは別なんだけれども許せないのは、こういう気持ちの悪いアレンジを平気で教材として幼少期のレッスン生に与えてしまうピアノ教師というものが現実にも存在することなのだ。そしてそれが和声的に気持ちの悪い不具合を生んでいることに気付いてないことの罪深さ。音楽教育に携わる者としてこんなものを違和感なく平気で聞けるということは音楽家として致命的だ。ラフだったら頭使わないでも2声でハモらせるなら左手は「ドーソミソ、ド、ド、ド」ぐらいだろうと思うし、あるいはもっと簡単にオクターブユニゾン(左手も右手と同じくメロディーを弾く)でも音楽としては十分かっこいいと思う。技術的に難しいというなら「ドードドドド、ド、ド」でもよかろう。よっぽど特殊なことを教えようというのでもない限り、伝統的和声学にとって間違ったものを幼少期のレッスン生に与えるのは害悪でしかない。

ダイアモンドの鑑定士を育てるには、本物とガラス玉を見せて「こっちは本物、こっちは偽もの」といったことはしないそうだ。とにかく本物を見せ続けて鑑定眼を育てるという。音楽だって同じようなもので、おかしなものを与えてはいけない。特に、センスを育てるべき世代におかしなものを与えて、おかしなものをおかしいと感じなくなってしまっては元も子もない。

料理冷めないか疑問

 うちにはテレビという文明の利器がないので、たまに動画サイトなんか眺めているときがあるんだけれども、カテゴリーとして「大食い」というのがあるじゃない。その「大食い」にも2種類あるようで、いわゆる飲食店の大食いチャレンジメニューと、自分で大盛り料理を作って食べる系と。まぁ、前者はいいとして、後者ですごく気になるのは、大盛り料理を作って食べるまでに収録とかしていたら食べるときにはすっかり冷めているってことはないのだろうかっていうこと。暖かくして作った料理なのにあまり湯気が上がっているように見えない。大盛りだからすぐに冷めるってことはないのかもしれないけれども、それでもぬるい程度には冷めているのではないのかなぁとか思うのだ。てんぷらとか全部揚げてからって大丈夫?パスタとか伸びきってパンツのゴムみたいにならない?とか。でも、たいてい「おいしい」といって食べているなぁ。きっと大丈夫なんだろう。ラフの杞憂なんだろう。

思考の途切れ

 「犬」のくだけた表現として「わんこ」という言い方がある。いや書き言葉でも使うことがあるのだが。これを「ワンコ」と書かれると、一瞬「ウンコ」に見えてしまう。「ん?」と思ってしまう。読みながら流れている思考が一瞬ひっかかるというか、なんというか。できれば「わんこ」とひらがなで書いてもらえるほうが個人的にはしっくりくる。

音楽と言葉と

 秋の地域の音楽イベントに出演およびお手伝いをしてきました。およそ20近い団体が出演したのだけれども、ほとんどは小学校の団体。去年もこのイベントの感想を書いた。小学生の多くが技術的に上手くないのは仕方ないけれども、それでもいいと思ってしまう、気にならなくなってしまうという状態になるんだとしたら、それは音楽ではないと思うのだ。みんなで何かをなしとげる喜びと音楽の楽しさってのは別ものだ。科目としての「音楽」(いわゆる指導要領に基づく学校の音楽教育)でよしとされる演奏と、音楽で求められる演奏は違う。教育イベントで良しとされるレベルにとどまるか、教育レベルで良しとされるかもしれないがもっとよいものを届けたいという心意気まで持てるか。小学生にそこまで求めるのは酷か?でも単なる情操教育レベルでとどまってしまっては音楽の楽しさすばらしさに気付けないんじゃないかなぁ。もったいないって思ってしまう。

ある合唱の団体が「Believe」を歌っていたけれども、Sくんはこの曲がすごく好きらしい。その思いを熱烈に語ってくれた。この曲、好きな人にしばしば出会うのだが、ラフはこの曲が好きではない。なんだか気持ちの落ち着きどころがないふわふわした気持ち悪さを感じるのだ。メロディー(歌詞を除いた部分)もそんなに魅力を感じない(ありふれた陳腐な駄曲にしか思えない)し、歌詞だって素人が書いたような上っ面を撫でただけの軽さ。よく考えたら何を言っているのかわからない抽象的、雰囲気重視な言葉を並べただけな、詩にたいする責任をまったく感じられないもの。それに対して「Believe」とかタイトルを付けちゃうセンスってすごいなぁ。「Believe」って単語をラフは「(無条件に、有無を言わさず)信じる」というか「信じさせられる」とかいう非常にきつい言葉と感じているのだ。「宗教」とか「神」とかに対する。そこには盲目的に信じてしまうような覚悟、一神教に立脚する「疑うことは許されない」ような印象を受ける言葉なんだよね。「I believe you.」だったら「(何があっても、君が間違っていようとも)僕は君の味方だよ」ってくらいの覚悟の表明だと思うんだよ。こんな雰囲気だけ並べ立てた言葉の羅列を、弛緩したのほほんとしたメロディーにのせた曲のタイトルにこんな言葉を付けてしまう。この曲にはこそばゆいすわりの悪さ、あまりにもものを考えていないこっぱずかしさを感じてしまうのだ。これはラフだけなのか?ラフの感じ方がおかしいのか?好きな人には申し訳ないけれども、気持ち悪い曲だ。

かつて所属していた団の演奏会

 Q団の演奏会を聴きに行ってきた。演出たっぷりの楽しい演奏会だった。しつこいくらいにハロウィンにこだわっていたのがちょっとやりすぎ?とは思ったけれども。

 ラフがこの団をやめてもう2年位かな。辞めた理由は団が目指している方向と自分がやりたいものが違うからなんだけれども。かっこよく言うなら「音楽性の方向の違い」ってやつ。もっとも音楽性の方向だけではなかったんだけれどもね。Q団はゲイフレンドリーな団体だから、団員としゃべったり、練習後の飲み会とか本当に楽しくて、そういう時間をすごすためにQ団にいるのは自分にとって精神面でのメリットはすごくあったんだけれどもね。

 かつての仲間が、楽しい演奏会を開催している様を見て、あぁよかった、これからもがんばってね、って思いながら帰路に着いた。

ベニスのムーア人オセロの悲劇

 一面が白、もう一面が黒の円盤状の駒を使うボードゲームを「オセロ」というが、この「オセロ」という名称も登録商標(一般名称としては「リバーシ」)である。ちなみに自分はオセロがものすごく弱い。びっくりするほど弱い。勝った記憶というものがない。負けてばかりという思いしかないのだ。一応端っことか角を取れば有利ということは知っているが、どうするのが端っことか角が取れる戦略なのかがわからない。なのでオセロゲームに対して「やろう」という気持ちにならないのだ。勝てることもあるならまだしも、負けるということが分かっているので「何が面白いのだ?時間の無駄」と思ってしまうのである。

ヴィブラスラップは登録商標

 通称「与作」と呼ばれる楽器がある。北島三郎の「与作」で印象的に使われた楽器で「カーーーッ」と鳴る楽器だ。楽器の正式名称は「キハーダ」という。動物のあごの骨を使ったラテンパーカッションの1つだ。さてこれには代替楽器があって「ヴィブラスラップ」という。ハンバーグ師匠が携帯しているあの鳴り物である。実際の演奏場面で「キハーダ」と指定されていても、たいていの場合は「ヴィブラスラップ」を使う。作曲者による楽器指定も「ヴィブラスラップ」と書かれていることが多い。ただしこの「ヴィブラスラップ」という楽器名、実はPL社の登録商標で一般名称ではないのである。ヤマハの「エレクトーン」と同じようなものだ。

チンする

 電子レンジで温めることを「チンする」と言うが、これはかつて電子レンジのタイマー終了音が「チン」というベル音だったことに由来する。もっとも最近の電子レンジはベル音ではなく、電子音(メロディーだったりもする)なので、若い世代にはなぜ電子レンジで温めることを「チンする」というのか分からないこともあるそうだ。さもありなん。