2021年最後の晩餐はポトフ。適当に煮込んで皿によそっただけなので映えていませんが。
ポトフのスープでリゾットを作る。
最後は年越しそばまで用意したりなんかしたりして。
それでは皆様、良いお年をお迎えください。
2021年最後の晩餐はポトフ。適当に煮込んで皿によそっただけなので映えていませんが。
ポトフのスープでリゾットを作る。
最後は年越しそばまで用意したりなんかしたりして。
それでは皆様、良いお年をお迎えください。
グッド・ダイナソー/第1部 自然界のドッペルゲンガー(進化のデジャヴ/繰り返される適応放散/進化の特異点)/第2部 野生下での実験(進化は意外と速く起こる/色とりどりのトリニダード/島に取り残されたトカゲ/堆肥から先端科学へ/プールと砂場で進化を追う)/第3部 顕微鏡下の進化(生命テープをリプレイする/フラスコの中のブレイクスルー/ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ/ヒトという環境、ヒトがつくる環境)/運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?
あぁ、そういえば一昔前に生物進化の「適応」の仕組みについて、遺伝学者のリチャード・ドーキンスと、進化古生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールド(2002年没)が大西洋を挟んでやりあっていたなぁと思いだした。本著は、グールドの代表作「ワンダフル・ライフ」(このタイトルが、クラシック映画「素晴らしき哉、人生!」(1946)と同じなのは偶然ではない)の中にある、進化のテープを巻き戻してもう一度再生しても今の進化は再現されないだろうという考えに対する考察から始まる。(「ワンダフル・ライフ」はグールドが先輩科学者コンウェイ=モリスの研究成果を称えてカンブリア紀の生物多様性大爆発を論じた本なんだけれども、それに対して温厚で知られるコンウェイ=モリスが「俺はそんなことは言っていない」と反論し物議を醸した本でもある)
「進化は繰り返すのか?」つまり、条件さえ同じであれば生物の進化は同じ(少なくとも似る)になるのか?っていうことを本書では論じている。確かに適応放散(オーストラリアの有袋類の進化が有名)の例などが知られてはいる。「進化」について論じる上で確認しておかなければならないのは、ダーウィン以来「進化」という現象は、世代を経ることによる変異(DNA情報の変異)の蓄積による表現型の変化のことである。ある集団において環境に依存しているような特定の形態や性質が見られるようになっていたとしても、それが遺伝的な(つまりDNAを原因とする)変異によるものでない場合は「進化」とは別現象なのだ。
かつては「進化」は実験では確認できない(再現性が担保されない)分野とされていたが、今やDNAの塩基配列決定が手軽に行えるようになったことも一助となって、様々な工夫により実験可能な分野になってきていることを具体的な研究例を通して紹介している。本書のもっともおもしろいのがこの部分。この部分だけでも、この本の存在意義は十分にある。
最終的に、私たちヒトは進化の過程のしかるべき産物として存在しているのか?生命の進化テープをもう一度リプレイしてもやはりヒトは誕生するのか?(「生命の歴史は繰り返すのか?」)。あるいは恐竜がもし絶滅していなかった場合は、彼らもヒトのような形態に進化していたのか?いわゆるディノサウロイド(wikipediaの「ディノサウロイド」の項)。ドーキンスとグールドの論争と同様に、結局は進化をマクロにとらえるか、ミクロにとらえるかで見えるものが違うってところなんだと思うけれども、科学者としては至極真っ当な「まぁそうだろうな」という結論に着地。著者の知的好奇心を大事にしながらも科学者としては極めて真摯でおだやかな態度に個人的にはとても好感が持てた。
■ 生命の歴史は繰り返すのか?[Jonathan B. Losos/的場 知之]
■ 生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む(生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む)[Jonathan B. Losos]【電子書籍】
クラシック音楽、特にキリスト教音楽で有名なモチーフとして「スターバト・マーテル」というものがある。日本語では「悲しみの聖母」と訳されることが多い。元ネタは、十字架にかかって亡くなったキリストを嘆き悲しむ母マリアを描いた中世の詩の冒頭。多くの作曲家が曲を作っているのだけれども、特にドヴォルザークの作品が代表的。その性格上非常に痛ましい音楽であるのだけれども、この「スターバト・マーテル」を日本のクラシック音楽界では「スタバで待ってる」ともじる。
自分を慕ってくれていた隣家の6歳の男の子を、感情の爆発から意図せず殺害してしまった12歳のアントワーヌ。思わず死体を森の中に隠してしまったが、家に帰ると腕時計をなくしていることに気付く。男の子の行方不明事件として村は大騒ぎになる。自白していっそ楽になったほうがいいのか、それともこのまま隠ぺいしたままでいいのか、苦しむアントワーヌ。そこに村を記録的な大嵐が襲う。
村を覆う不景気観、村の狭くて濃密な人間関係、そして大嵐がアントワーヌの境遇をさもありなんと思わせる。子供殺しという現実、自身と子どもなりにも考えた世間体のはざまで葛藤するアントワーヌの追い詰められた感を絶妙に描く作者の力量はすばらしい。この子供時代の出来事が全体の半分を占める。アントワーヌの一人称語りなので、事件がどのように起こったのか、死体をどこにどう隠したのかもすべてわかっており、またアントワーヌはそれを一生隠し通そうと強い意志をもって行動しているわけでもない。今後少年の死体は見つかることがあるのだろうか?アントワーヌの殺人は明るみに出るのか?というだけだ。
さて、12年後、医学生となったアントワーヌは忌まわしい思い出のある村を避けて恋人とともに海外へ出発しようとしていたが、帰省した折に殺害した男の子の家とは反対側の隣家の幼馴染(別の男と婚約済み)とチョメチョメしてしまい、その娘が妊娠してしまう。その両親から責任を取るようにアントワーヌは脅される。一方かつて男の子の死体を隠した森が開発され、男の子の白骨死体が発見され、犯人につながる生体試料が見つかるものの、犯罪者データベースには該当者なしで殺害犯はわからずじまい。自身のDNAを提供しなければならなくなる事態を避けるために、彼は恋人と別れ、妊娠させてしまった幼馴染と結婚することを選ぶ。さらに数年後、彼は村の医者となっていた。結局村から逃れることはできなかったのだ……。
あの森で犯した殺人は遂に明るみに出ることはなかったが、そのことで振り回された僕の人生、あの森で死んだのは「僕」だったのかもしれない。でもこの話にはちゃんと救いが用意されているのだ。確かにあの森の事件で「僕」の人生は狂わされたかもしれない。でも村で「僕」はささやかながらも新しい人生を見つけている。そして最後に明かされるのは、あの殺人は決して自分一人が抱えていたわけではなかったのだ。そうか腕時計はそこにあったのか。
犯罪文学というより人間ドラマとしてよくできていて抜群におもしろかった。