幸せな家族幻想

 自分はリア充をうらやむようなことはしたくないなぁ、しないようにしようと思っていたんだけれども、リア充にイライラするって言うのはこういう感じなのかなと思ったり思わなかったりしたことがあったので記述してみる。よござんすか?

いわゆる職場関係の世間話での話題としてよく「家族」というものが取り上げられる。それも大抵、話題が肯定形にしろ否定形にしろ愚痴にしろ、そして話者の意図に関わらず、結局は自分の家族自慢(「うちはなんだかんだいって幸せだ」)なのである。職場が関わってくると話題が断然「嫁自慢」「子供自慢」「家族自慢」なのだ(もっとも現実には介護やら看護やらでそれどころじゃない苦労をされている方もいるにはいるが、そういう人はあまり家族のことを話題にしない)。いや、自慢してくれていいのだ。幸せ光線を発してくれていいのだ。幸せならそのポジティブな気持ちを共有しようじゃないか。そう思っていた。そう思っているつもりだった。

でも、そういう家族の幸せ話を聞きつつ、自分の中にザラっとしたものが残ることがあるのだ。自分が家族を持つことがない惨めさとかつらさを実は感じているのではないか?幸せな家庭に対する羨望と僻みみたいな。潜在意識下のレベルだったとしても。SNSでよくある他人のリア充がうっとうしいと言うのはこういうことなのか?でも、自分は家族を持たないということを受け入れているつもりではあるんだよ。なんなんだろうこれは。ほんのちょっとしたささくれ程度の違和感なんで、別に気にしなければなんともないことなんだけれども、どこか居心地が悪いことにたまに気付いてしまうのだ。

さて、おもしろいことにそういう「家族」話題になるのは社会人つながりでも断然「職場」関係で多いのだ。自分が知る限りS吹奏楽団(一般社会人吹奏楽団、つまり職場関係ではない所属集団)ではあまり家族の話題というのは耳にした事がない。別に幸せな家族が少ないわけではない(と思う)。もっともS吹奏楽団だって家族ぐるみで団に関わっている(団員としてもそうでなくても)団員もいるにはいるが、家族の話題はあっても、しごく自然で、つまるところの家族自慢はそんなに聞いたことがない。ひょっとしたらこれは家族をもたないハゲデブ40代中年おっさんゲイ独身なラフ(S吹奏楽団ではカミングアウト済み)に対して配慮してくれていて、そういう話題が耳に入らないように気づかってくれているからなのだろうか。う~~む、そうだったのか。道理でラフにとってS吹奏楽団の居心地がいいはずだ。

ん?ここまで書いてみて、つまりはこういうことかと思い至ったぞ。おそらくS吹奏楽団の仲間とはかなり親しいが、職場の人とはあまり親しくないというただそれだけの差なのかも。そうなると、ラフがゲイである事をカミングアウトしているかしていないかの違いなのか?カミングアウトしないのはなにかと社会生活を営むには生きづらいというようなありふれた結論になるのか?クローゼットなゲイはリア充にはなれないというただそれだけのことなのか?う~~む、ここから問題提起をしてもう一話書けそうだがそれはまた今度にしよう。鳥頭なのできれいさっぱり忘れるかもしれないけど。

カミングアウト済みとは言っても

はじめに
ラフはゲイです。カミングアウトすることがえらいとか立派だとか言うつもりはさらさらありません。人にはそれぞれの事情というものがあるわけだから、それぞれの事情に合わせて対応すればいいことだと思います。カミングアウトしないという選択も大事だと思っています。

ラフは基本的にはカミングアウト済みなのであるが、実は職場と親族関係と過去の人間関係にはカミングアウトしていない。職場は生活がかかっているので面倒なことを避けたいという自分の意思による決定。親族関係は両親にはカミングアウト済みではあるが、家族が親族関係でゴタゴタに巻き込まれるのは大変だということで余計なことは言わないようにということになっている。あと、30代以前の過去の付き合いではほぼカミングアウトしていない。というのも、まだ自分が何者であるのか分からず苦しんだ20代までは最悪の時期で、忘れ去りたい(まだ向き合う心積もりができていない)過去のオンパレードであるため、過去の縁を切ってしまっている場合が多いからだ。

今の自分は基本的にはカミングアウト済みではあるが、カミングアウト済みだから楽かというとそういうわけでは決してない。自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども、周囲(ノンケに対してもゲイに対しても)への気遣いもかなり求められるものなのだ。ただ単に自分の生きたいように生きていけばいいわけではないのだ。ノンケに対する気遣いは、まぁ相手が不愉快にならない程度に話題や言動をある程度控えてるってことはもちろん、ゲイと言うものにネガティブな感情を抱かないように配慮している。ゲイに対しても原則は同じだけれども、とりわけクローゼットのゲイ友達に対する気遣いは重要。大切に思うから気遣うわけで。たとえばカミングアウト済みのノンケ友達にゲイの友達を会わせる場合、ゲイの友達がクローゼットだったら紹介しづらい。ラフがカミングアウト済みの人たちにとっては彼らにとって素性の分からないラフの友達は「まぁゲイだろう」とデフォルト思うわけだからだ。意図せぬアウティングとならないようにしなければならないことを考えるといろいろ面倒くさいのだ。これが結局ゲイの交友関係とノンケの交友関係をラフが積極的に交えることのできない一つの理由でもある。

たとえば、S吹奏楽団の忘年演奏会という年末最後の練習は、団員以外にも知り合いを呼んでいい練習なんだけれども、ラフは吹奏楽をやっている友達(それがノンケであれゲイであれ)がいても、うかつには呼べないのだ。自分が友達を呼んだとしたら、その彼彼女はS吹奏楽団の団員からは「ラフの知り合いだからゲイだろう」と思われるだろうから。ノンケだったら勝手にそう思われるのは迷惑だろうし、クローゼットのゲイだと消極的なアウティング行為になってしまう。こういうのって結構気を遣う。気を遣っているつもりではあるんだけれども、それでも結果としてラフが予期せぬアウティングをしてしまったゲイ友達もいる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

カミングアウトするのも一つの選択。カミングアウトしないというのも一つの選択。自分の覚悟ができているとしても、カミングアウトすればもろもろの問題が解消されると思うのは大きな勘違いだ。カミングアウトしても、またあらたな面倒くさいことが出てくるものなのだ。

さて、ラフはFacebookはやっていない。Facebookって実名主義でしょ。実名主義は別にかまわないんだけれども、カミングアウト済みの人間関係とカミングアウトしていない人間関係の人脈を使い分けたい自分にはあまり向いていないんだよね。過去の自分と今の自分に一貫性が取れている人はいいんだろうけれども(そして多くの人はそうなのであろう)、ラフは先に述べたように過去の自分と今の自分のアイデンティティーがまったく別である。そして、自分とつながっている人が予期せずラフのカミングアウト済み世界と未カミングアウト済み世界で不用意につながってしまうのを避けるためにもFacebookをやるつもりはないのだ。実名主義で自分自身の、そしてつながっている人の、あるいは対しての、予期せぬアウティングに巻き込んでしまうことになるのは避けたいのである。

追記
「自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども」なんて書いたけれども、そんな強い覚悟ができているかといえばそんなことはないな。確かにカミングアウトは自分の意思でしたわけだから、それによって引き起こされることは責を負おうとは思う。でも、やっぱり自分はそんなに強いわけではないよ。打たれればへこむし、寂しければ泣くよ。でも、それでもいいじゃん。

確定申告

確定申告を済ませた。もちろんe-taxです。とはいえ一般サラリーマンなので年末調整はしているので、医療費控除の申請のみ。一人で10万越えってなかなかないよなぁと数年前まで思っていたのだけれども、今や病気のデパートへと向かいつつあるラフ、軽く10万は一人で超えてしまうようになってしまった。

カリオストロ

MX4Dのカリオストロの城を見てきたよ。MX4Dは初体験でまぁ面白いとは思ったけれども、作品に集中できなくてちょっとなんだかなぁって感じだった。いい作品だからなおさら。

ツェルニー練習曲集

ベートーヴェンの弟子にツェルにーという人がいました。ピアノ弾きにはおなじみですよね?しかもどちらかというと嫌な方面で。膨大な数の単調な練習曲を量産した作曲家で、ピアノ弾きは「30の練習曲」「40の練習曲」「50の練習曲」「60の練習曲」と進めていく練習曲。彼の練習曲は前述のみだけでなく、とにかく大量の練習曲が残っています。練習曲以外の作品も少ないながらあるんですが、いかんせんあまり楽しいものではない。ツェルニーの練習曲って楽譜を見ただけでもううんざりするような曲が多く、だいたいつまらないということになってます。ところが後期の練習曲になってくるとロマン派に入ってくるので妙に情緒的な和声進行だったり華麗だったりする練習曲も出てきて、弾けるとめちゃくちゃ楽しいものがある(内容はあいかわらずたいしたことないですが)。興味のある方は「60の練習曲」あたりを聞いてみる、あるいは弾いてみてください。演奏会に出しても十分通じるような魅力的な曲があることにびっくりするかもしれません。あたかもリストのような、というか、そもそもリストはツェルニーの弟子だったな。

ツェルニー練習曲をやっていて絶対これは無理だと思うのがメトロノームのテンポ指定。とにかくめちゃくちゃ速い。指定どおりに弾くのはもはや練習曲の域も超えてしまっている至難の技。もし弾けたとしても曲芸レベルである。ツェルニーのテンポ指定が今のメトロノームとは違うもので記述されたのかと思うくらいだ。しかし、今日使われているメトロノーム(いわゆる1分間あたりの刻み数を基準とするメルツェルのメトロノーム)はベートーヴェンの時代に登場し、彼によって音楽のテンポ指定として使われるようになったものである。弟子であるツェルニーも当然メルツェルのメトロノームのはずだ。自分のピアノの師匠はそういうわけで、レッスンにおいてツェルニー練習曲に関しては指定されたテンポの2/3で弾ければテンポに関してはとりあえずOKという具合だった。

とりあえず、今日覚えてみてもいい知識は、古典派からロマン派にかけて

ベートーェン – ツェルニー – リスト

という系譜があるということかな。

ロマン派の音楽はいつから始まったのか?
古典派とロマン派の境界はどこかということだけれども、そもそもが音楽を歴史的作風で分類するのにはっきりとした境目があるわけではなく恣意的なものですよね。もし、古典派とロマン派の境にかかわる話をする場合は、どう定義したかを話者同士が了解しなければなりません。というわけで、上記記事にリンクをはっておきますが、ラフは特に断らない限り、この記事中の(B)を基準とする、つまりベートーヴェン後期からロマン派へ移行が大きな流れとなったと考えています。

わたくし、体重に関して若干ウソをついておりました

先日、半年で10キロ体重が増えたと申しておりましたが、実はちょっと違う。ここ最近の体重の記録をお見せしよう。

去年の11月ごろからの3か月で10キロ増えてます。すみません、半年で10キロなんですが、実際に増え始めたのはここ3か月です。この急激なというか病的な太り方はまずいなぁ。しかも、もう100キロが見えてきているのもシャレになってない。ちょっと動くだけで息が上がってしまうこの頃、さすがにつらい。

ここ最近のものだけを見せたからこんなもんかなぁということですが、1年単位で見てみると、体重の増加は15キロ近いこともこっそりとお伝えはしておこう。誰だよ、体重の記録をつけることでダイエットができるなんていったのは。

ついでに、下着はコットントランクス派なんですか、最近かがむたびに、びりっと破くこと数多。サイズがすでにして小さいと言うことだな。ワンサイズ大きいのを買わなきゃ。

ささみがカニカマ

鳥のささみ肉ってさ、火を通しすぎるとぱっさぱさのかっちかちになっちゃうじゃない?というわけで、今回は柔らかジューシーを目指して処理してみました。
・冷凍のささみを重曹液に浸しながら冷蔵庫で解凍2日。
・それを取り出してフリージングバッグに空気を抜くようにパッケージ
・沸騰した鍋の湯に投入。
・3分沸かしたら火を止めてそのまま一晩かけて冷ます。
・フリージングバッグの外側から手でもんでほぐす。
そうやってできた柔らかささみのほぐし肉を使って、ブロッコリーサラダを作ってみたらこれがうまかったのだ。成功だね。

と、まぁ最初はそう思っていたんだけれども、なんかこのサラダのささみ肉、どこかでこの食感を確かに今までに知ってる。そう、これはカニカマだよ。やわらかくしようと処理したものの、カニカマになってしまったとは。だったら、最初からカニカマとブロッコリーでサラダ作るよ……。重曹液2日が長すぎたのか。

ささみ肉を使ってもカニカマを使ってもいいんだけれども、まぁ味付けはマヨネーズだよね。これにすりごまを加えると味わいが濃厚で奥深くなります。また水気もすりごまに吸収されるのでお弁当用サラダとしても使えるよ。

ワンポットパスタ~ミートソース

去年ちょい流行っていたワンポットパスタを作ってみた。初めてだしオーソドックスにミートソースに挑戦。作っている途中は「ほんまにできるんかい?」っていうくらい汁びちょびちょ状態だったんだけれども、出来上がるときにはパスタがほどよく汁を吸っていてなかなかいい出来に仕上がった。水分の適切な量が出来を左右するんだな。レシピどおりに作るのが吉とみた。ただいかんせん、見たレシピが2人用なので、一人で食べるには大量にできてしまった。写真にのっていない分は、タッパーにつめてお弁当にしたとさ。もっともロングパスタを弁当にすると伸びきったパンツのゴムみたいなものになっちゃうんだけどさ。

stringendo を無視するな

S吹奏楽団の初見大会とかでも思うのだが、多くの人がなぜか無視する音楽用語の一つが、 stringendo だと思う。 stringendo と書いてあったらテンポが上がっていくもんだろうがと俺は常々思っているのであるが、テンポが上がる楽語だと知らない人が多いようだ。というか、はっきりと書いてあっても知らないからか気にもしていないようなのだ。 ritardando とか allargando がテンポゆっくりになっていくのと反対に、 accelerand がテンポ早めていく語であるが、 stringendo もテンポ上がっていくんだよと強く主張しておきたい。無視してはダメだよ。

吹奏楽の世界では、もはや定番であり多くの人に支持されている酒井格の人気デビュー曲「The seventh night of July」(通称「たなばた」)、この曲の最後にもはっきりと stringendo が指示されている。にも関わらずテンポが変わらずに終わってしまう演奏をあまた聴いてきた。自分はこの曲の最後に指示された stringendo に、いきいそぐ青春の生き様、青春のほとばしり、駆け抜ける青春の思い出を感じたいのであるが(そうあればこそ酒井格が高校生のときに書いた作品ゆえのみずみずしさだと思う)、それを最後までインテンポ(変わらないテンポ)で演奏された日にゃ、「お前ら(演奏団体様)の青春は、そんなにのほほんとした緩みきったパンツのゴムのような世界で終わってよかったのかよ」と突っ込まずにいられない。テンポを上げて終わる、こういうところにこそ、たなばたの魅力があると俺は信じているのだ。そういうことに思いをはせてこその音楽じゃないのか?と。