カミングアウト済みとは言っても

はじめに
ラフはゲイです。カミングアウトすることがえらいとか立派だとか言うつもりはさらさらありません。人にはそれぞれの事情というものがあるわけだから、それぞれの事情に合わせて対応すればいいことだと思います。カミングアウトしないという選択も大事だと思っています。

ラフは基本的にはカミングアウト済みなのであるが、実は職場と親族関係と過去の人間関係にはカミングアウトしていない。職場は生活がかかっているので面倒なことを避けたいという自分の意思による決定。親族関係は両親にはカミングアウト済みではあるが、家族が親族関係でゴタゴタに巻き込まれるのは大変だということで余計なことは言わないようにということになっている。あと、30代以前の過去の付き合いではほぼカミングアウトしていない。というのも、まだ自分が何者であるのか分からず苦しんだ20代までは最悪の時期で、忘れ去りたい(まだ向き合う心積もりができていない)過去のオンパレードであるため、過去の縁を切ってしまっている場合が多いからだ。

今の自分は基本的にはカミングアウト済みではあるが、カミングアウト済みだから楽かというとそういうわけでは決してない。自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども、周囲(ノンケに対してもゲイに対しても)への気遣いもかなり求められるものなのだ。ただ単に自分の生きたいように生きていけばいいわけではないのだ。ノンケに対する気遣いは、まぁ相手が不愉快にならない程度に話題や言動をある程度控えてるってことはもちろん、ゲイと言うものにネガティブな感情を抱かないように配慮している。ゲイに対しても原則は同じだけれども、とりわけクローゼットのゲイ友達に対する気遣いは重要。大切に思うから気遣うわけで。たとえばカミングアウト済みのノンケ友達にゲイの友達を会わせる場合、ゲイの友達がクローゼットだったら紹介しづらい。ラフがカミングアウト済みの人たちにとっては彼らにとって素性の分からないラフの友達は「まぁゲイだろう」とデフォルト思うわけだからだ。意図せぬアウティングとならないようにしなければならないことを考えるといろいろ面倒くさいのだ。これが結局ゲイの交友関係とノンケの交友関係をラフが積極的に交えることのできない一つの理由でもある。

たとえば、S吹奏楽団の忘年演奏会という年末最後の練習は、団員以外にも知り合いを呼んでいい練習なんだけれども、ラフは吹奏楽をやっている友達(それがノンケであれゲイであれ)がいても、うかつには呼べないのだ。自分が友達を呼んだとしたら、その彼彼女はS吹奏楽団の団員からは「ラフの知り合いだからゲイだろう」と思われるだろうから。ノンケだったら勝手にそう思われるのは迷惑だろうし、クローゼットのゲイだと消極的なアウティング行為になってしまう。こういうのって結構気を遣う。気を遣っているつもりではあるんだけれども、それでも結果としてラフが予期せぬアウティングをしてしまったゲイ友達もいる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

カミングアウトするのも一つの選択。カミングアウトしないというのも一つの選択。自分の覚悟ができているとしても、カミングアウトすればもろもろの問題が解消されると思うのは大きな勘違いだ。カミングアウトしても、またあらたな面倒くさいことが出てくるものなのだ。

さて、ラフはFacebookはやっていない。Facebookって実名主義でしょ。実名主義は別にかまわないんだけれども、カミングアウト済みの人間関係とカミングアウトしていない人間関係の人脈を使い分けたい自分にはあまり向いていないんだよね。過去の自分と今の自分に一貫性が取れている人はいいんだろうけれども(そして多くの人はそうなのであろう)、ラフは先に述べたように過去の自分と今の自分のアイデンティティーがまったく別である。そして、自分とつながっている人が予期せずラフのカミングアウト済み世界と未カミングアウト済み世界で不用意につながってしまうのを避けるためにもFacebookをやるつもりはないのだ。実名主義で自分自身の、そしてつながっている人の、あるいは対しての、予期せぬアウティングに巻き込んでしまうことになるのは避けたいのである。

追記
「自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども」なんて書いたけれども、そんな強い覚悟ができているかといえばそんなことはないな。確かにカミングアウトは自分の意思でしたわけだから、それによって引き起こされることは責を負おうとは思う。でも、やっぱり自分はそんなに強いわけではないよ。打たれればへこむし、寂しければ泣くよ。でも、それでもいいじゃん。

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