降り早まる

 今朝の通勤時に電車を降り早まってしまった。なんかボーっとしていて、職場の最寄り駅の1駅手前で思わず降りてしまったのだ。ホームに降りてしまってから「おや?」とか思う始末。そもそも、この駅と目的の駅とでは車両のドアが開くのは反対なのになぜ気が付かなかったのだろう。俺ってばうっかりさん。

明け方にベッドの上でぼくは凍死したくないと思いたかった

 6月になったことだし、睡眠時の掛布団を夏用の薄いものに変えたんだけれども、いかんせん最近ちょっと肌寒い日々。明け方あまりにも寒くてこのまま凍死するんじゃないかと思いながら、でも更なる上掛けか布団は天袋にあるから出すのは面倒くさいなぁとそのまま強引に寝続ける。いや、凍死するんじゃないかと命の危機を覚えて、しかも何をすべきかわかっているのであれば、行動しろよ。ラフは、あぁこのまま死んでいくのかなぁと思ったら、死にゆくのにまかせてしまうタイプかもしれない。「死んじゃう」なんていうと、また彼氏に怒られるけど。

夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった[谷川俊太郎]

ざんねんないきものとざんねんな進化認識

 「生物は生き延びるために進化する」という表現は生物学的にはおかしい。「生き延びる」というのが意思ではなく「生存」という事実のことを言っているとしてもだ。生物は「生存するために進化する」わけではないのである。「新たに生じた表現型が淘汰圧にさらされ結果として滅びなかったものが生き残った」(その時の環境でマイナス要因を抱えていたものがいなくなっただけで、有利なものだけが生き残るのではなく、有利でも不利でもないものも淘汰圧の影響を逃れているので生き残る)というのが結果としての「進化」である。

 最近「ざんねんないきもの事典」というタイトルの児童書が流行った。でも「ざんねん」とはあくまでも人間から見たら「なんでそうなってるの?」っていう興味を引くためのきっかけとしてその語がタイトルに使われているだけで、「ざんねん」といっても生物学的にその種が「失敗」だということを意味しているわけではない。少なくとも生き残っているわけだから(あるいはティラノサウルスだったら当時存在していたわけだから)、当時の環境による淘汰圧の大きなマイナス影響を受けずに生存できたってことは種としては生物的にはむしろ「成功」なんじゃないの?(形態学的に人間から見たら「ざんねん」だとしても)

wikipediaの「ざんねんないきもの事典」の項

 進化論の話で出てくる有名なたとえ、「眼鏡の鼻パッドを乗せやすいように、人類の鼻の形は進化した」っていうのは明らかにおかしいってわかるでしょ?語が抽象的になったとたんに、この手の誤解や珍論が進化論にはついて回る。

 だからといって、例えば文学作品(たとえばSF)で「生き延びるために進化する」という考えを据えて話を作るということには反対はしない。あえてそういう設定にすることでその作品に価値が生まれるのであればね。

曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い

前回は「過剰(あるいは極端)な物言い」を挙げたが、今回は仕事の件で耳にした「曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い」をご賞味ください。


なんとなく洗い出した

「洗い出す」というきつめの縛りがある行為に対して、全くそぐわない「なんとなく」という語がかぶさっている気持ち悪さ。


(要件あるいは仕様を伝える際に)~と、ひそかに考えている

ということは、まだ決まりではないのか?しかもこの方は結構このフレーズを好んで使う(口癖だろう)。あなたの「ひそか」な心の内をそんなしょっちゅう明らかにしてよいのか?もはやそれは「ひそか」ではないのでは?あなたの「ひそか」にラフは興味はないのだが。


話は変わるが、タイトルにある「失笑」の意味を「笑いも出ないくらいあきれる」という意味で使う人が増えているらしい。「失笑」というのはおかしくて笑ってしまっているのだ。あきれているのではない。

国語に関する世論調査 | 文化庁

平成23年度の結果に「失笑する」に関する調査結果が載っている。

失笑する 例文:彼の行為を見て失笑した。
(ア)こらえ切れず吹き出して笑う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27.7%
(イ)笑いも出ないくらいあきれる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60.4%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2.7%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.1%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.2%

同じ「失」の使い方としては、「うっかり言ってしまう(口を滑らす)」の「失言」なんかがある。

過剰(あるいは極端)な物言い

ベスト

「これよりもこっちのほうがいいよね」っていうだけなのに「ベストなのは」とか「~な方がベストだよね」とか言う。ベストではなくベターだよ。


最悪の場合

「こういう場合はこういうことで困る(問題になる)」と言えばいいところを全部ひっくるめて「最悪の場合」と言ってしまう。仕事であればせめてもうちょっと分析してから具体的に言及しよう。


謳う

意味は「はっきりと示す、明文化してある」である。「謳う」は理想や願いなどに対して使うことが多いため、「敢えて書くことでポジティブに強調する」という感じがラフにはある。何でもかんでも「文章で書いておくこと」を「謳う」といわれると、大げさすぎておかしい。ここぞという時に使ってこそ効果のある言葉だろう。注意書き程度のことにまで「謳う」と言われたら、聞いているこっちが恥ずかしい。


警鐘を鳴らす

何らかの問題を提起する場合に、「警鐘を鳴らす」と表現する。これ自体は問題ではないが、何か問題を指摘するたびにしょっちゅう使っているのを見ると「警鐘鳴らしすぎ」である。ここまで鳴らされると、鐘を鳴らすのは「あなた」だけでよいと突っ込みたくなってしまう(小坂明子のほうではない)。

wikipediaの「あの鐘を鳴らすのはあなた」の項
wikipediaの「あなた (小坂明子の曲)」の項

ソナタといひて夜も眠れず

■ソナタ形式(1つの曲における楽曲構成形式)

 ソナタ形式は三部形式の一形態で、形式を重んじる古典派の時代において確立した。基本は「主題提示部」「展開部」「主題再現部」の三部から構成される。さらに細かく見ると「主題提示部」には第1主題と第2主題が含まれ、2つの主題は主題再現部で再度登場する。調性については第1主題は主調(その曲のメインとなる調)で、第2主題は属調(主調の完全5度上の調、主調がハ長調であれば属調はト長調)が原則。「主題再現部」では第1主題は提示部と同じく主調で、第2主題も主調。

・主題提示部(第1主題(主調)、第2主題(属調))
・展開部
・主題再現部(第1主題(主調)、第2主題(主調))

 ただし、これは原則であって、必ずしもこれに従うもののみがソナタ形式というわけではない。主題提示部の第2主題が下属調(完全5度下の調。ハ長調に対してはヘ長調)などの属調以外の近親調(場合によっては遠隔調もあり)が選ばれる場合もある、主題再現部も主調とは異なった調ではじる場合もある。さらに始まる前に序奏がついたり、最後にコーダ(エンディング)が追加されたりもする。

■ソナタ(ソナタ形式の楽章を含む複数楽章からなる器楽曲に与えられる代表的な命名)

 さて、器楽曲の形式の一つに「ソナタ」というものがある(漢字だと「奏鳴曲」。かつて流行った韓流ドラマ「冬のソナタ」は「冬の奏鳴曲」である。やかましそうな印象に早変わり)。これは通常3ないし4楽章形式で(器楽曲としてのソナタは前者が多い)でその中にソナタ形式の楽章を含むもの(たいがいは第1楽章)に名づける。ただしモーツァルトの有名なピアノソナタ第11番 イ長調 K. 331 (300i)、いわゆる「トルコ行進曲付き」は、ソナタ形式の楽章を含まないのにソナタと名付けられている。(形式ではなく規模的にソナタ程度の複数楽章からなる器楽曲という意図であろうか)

wikipediaの「ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)」の項

 また、複数楽章というのも時代が下って来ると縛りがゆるくなってきて、ベートヴェンのピアノソナタ第32番(最後のピアノソナタ)ではもはや2楽章しかない。

wikipediaの「ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)」の項

 スクリャービンはピアノソナタ第4番で間をあけずに連続して演奏される2楽章形式に、第5番以降は単一楽章でソナタを書いている。プロコフィエフなどはピアノソナタ第1番(しかも作品番号も1)からして単一楽章である。

wikipediaの「ピアノソナタ第1番 (プロコフィエフ)」の項

 ちなみに「ソナチネ」は「小さいソナタ」という意味。「ソナチネ」アルバムとか小学生などがよく習わされる古典派の「ソナチネ」を集めた曲集が有名。ただし「小さい」かどうかという基準は、その作品の規模感や技術的難易度、意図したことなど作曲者がその都度の基準で自由に決めてよい。ラヴェルのソナチネなんかは求められる音楽的表現力も技術的難易度も小学生なんかが弾くには相当むつかしい。

wikipediaの「ソナチネ (ラヴェル)」の項

会社が斡旋している生命保険における同性パートナーの扱い

 ラフの職場では明確な同性パートナーに関する定め(あるいは提言や今後の方針とかも含めて)はない。とはいえ流行りの○○ハラの防止に関してはCSRを明確に宣言している。

 さて、会社が斡旋している生命保険がある。今年から、その案内に同性パートナーに関する事項が追記されていた。保険に本人に加えて配偶者も加入ができるんだけれども、この配偶者には「生計を一に」していれば同性パートナーが認められるとのこと。さらに保険金の受取人にも同性のパートナーを指定することもできる。もちろん別途関係を証明する書類が必要となるようだが(何の書類を指しているのだろう?)。

 時代は変わっていくね。うちは割とホワイト企業だよ(制度的にはね)。

読了:科学 vs. キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]

「天地創造」は6000年前、アダムはすべての人類の祖…「常識」は、いかに覆されたか?知の大転換のプロセスをスリリングに描く!

聖書(主に旧約聖書の創世記)に縛られた普遍史(聖書的時間)から科学的歴史へと歴史観が変わっていく様子を、ニュートンの時代(科学革命の時代)から概説する。ヨーロッパが囚われていた聖書の呪縛がいかに強力であったかがわかる。

まずはデカルト、ニュートンの時代(科学革命の時代とされるが)。それまでは世界(宇宙)は神によって作られ、神自らによってあまねく制御されていると考えられてきた。しかしここにおいて世界は神によって作られたが、その後万物は神によって作られた自然法則によってなる世界にリリースされたのだという考え方が登場した。自然法則を明らかにするということは神の作った法則を明らかにするという発想。ニュートンがまとめた運動の法則や万有引力(重力)も神の法則を明らかにしたもので、ニュートン自身は天地創造を疑っていなかった。なにしろ世界は天地創造から約6000年と考えられていたのだ。

次に分類学の祖リンネ。神が作りたもうた完全なる世界(創世記にあるようにすでに生物はすべて完成している)の生物を分類しようという試み。新世界の知見が広く知られるようになり、それをいかに分類するか。とりわけ人類の分類。ヒトに近いサルと、サルに近いヒト、世界各地に伝わる伝説の生き物、これらをどう分類していくのか。

続いて啓蒙主義の時代。ここにおいて聖書時間に支配された普遍史(聖書の記述に基づいた歴史)から人文科学としての世界史の成立。年代表記も創世紀元からキリスト紀元へ。天地創造の時期と人類の誕生の時期の分離。信憑性のありそうなエジプトや中国の古代史が聖書の記述では説明できないことが分かってきたのだ。聖書に対する追随的合理化から批判的合理化の始まり。

そして、19世紀に登場したダーウィンの進化論や地質年代の研究により、実は地球の歴史はもっと古かったのでは?どうしても絶対的な長い時間が必要になるのだ(少なくとも数億年)。しかし当時の権威とされるケルビン卿(熱力学第2法則をまとめたり、絶対温度の単位に名を遺す)により最大1億年(数千万年程度が妥当と)という枠に縛られる。

第2次大戦後になってようやく放射性同位体を使った正確な地質年代が求められたのである。地球の年齢は46億年と。

科学vs.キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]
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読了:知ってるつもり 無知の科学[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]

インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。

上の紹介には「ノンフィクション」とあるけれども、どちらかというと認知科学者による「集団認知」に関する科学啓蒙書(ただしとても分かりやすく読みやすい)。認知科学に基づいた調査(バカみたいなメディアによる世論調査とは一線を画す)実験・研究を踏まえた内容。人はいかにものを知っているつもりになっているかを明らかにした調査報告や、なぜ人は物事を知っているつもりになってしまうかを人類の進化を交えて考察する前半。その結果現代人が直面している科学・政治・生き方においてどういう有様になっているかを紹介し、「集団認知」(コミュニティとして持つ知恵)をどういかしていけばいいのかを示唆する後半。

人類は自分だけの知識でなく、他人の知識をも共有し、それをシームレスに活用して集団生活(コミュニティ)できるように進化してきたとも言える。生きていくうえで必要な世界にある情報はあまりにも多すぎて個人レベルではどうにもならない。だから様々な分野の専門家をうまく頼り(ただし騙されないように)、またそのためには集団内に多様な人材をそろえておいたほうがいいよねって感じ。同質な人間ばかりが集まると集団浅慮ということも起こることがわかっているしね。とかいう話が具体的な調査や例で報告されるので読んでいて面白い(いわゆるイタい話がてんこ盛り)。

「個人の無知を知ったうえで集団としてうまく生きていく」と、そういうまとめで終わるんだけれども、実はあとがきでちょっとブレる。著者のうちの一人が、自分の2人の娘の話をするのだが、そこで一人の娘はそういうことを知っているような沈着冷静でキチンと物事を見据える傾向にあるが、もう一人の娘はそうではなく自由奔放活発で思ったままに行動すると。でどっちがいいのか?当然どっちもいいんだ。前者は本著で述べたようにもちろん好ましいのだが、後者は後者でこれこそが人らしい点でもあり、このことが人類を進歩させてきた原動力ともいえるのだとか言い出す。なんだ、じゃ結局どっちでもいいんじゃん(自分の無知に自覚的であろうと無自覚であろうと)とか思ってしまった(ここはラフの読みが甘いだけかもしれないが)。まぁそうはいっても内容はなかなか面白かったんだけれどもね。

知ってるつもり[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]
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「ゲーム・オブ・スローンズ」を観て、「神」と「神々」をおもう

 最近、流行りのドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を観はじめた。まぁまぁおもしろい。世界観的には中世ヨーロッパをモデルにしているようなのだが、中世ヨーロッパといえば「キリスト教(一神教)」の世界である。しかしこの劇中では基本的には多神教世界なのだ。劇中に「光の神」のみを崇める一神教が登場するのだが、こっちの方がかえって異教的に見える効果を生んでいる。

ゲーム・オブ・スローンズ|ワーナー・ブラザース
wikipediaの「ゲーム・オブ・スローンズ」の項

 ラフは基本的には無宗教者なのだが、それでも思想信条的には多神教というかアニミズム的なすべての自然に神々が宿るみたいなものを自分自身のバックグラウンドとして持っていることを認めるにやぶさかではない。もっとも誤解がないように言っておくと、だからといって自然のあらゆるものに実際になんらかの魂なるものが宿っているということを事実とすることには否定的である。

 さて単数形・複数形を厳密に区別しない日本語環境、多神教的なるバックグラウンドにいると、「神」と「神々」は単に単数形・複数形の違いだと思いがちである。一神教というものを誤解してしまいやすいのだ。「神」とは多くの「神々」を統合していっていろんな能力・機能が1つになったものでは?と思ってしまうのだ。神々が統合されたものが神なんでしょ?と。「神」とは根本的な唯一絶対の真理そのものである至高の「存在」なのである。日本語で「八百万の神」なんて言うように「神」といっても「神々」だという認識も平気でできてしまうが、単数形・複数形を持つ言語の人々にとって「神」と「神々」とをいい加減に使い分けることはありえない。ましてや一神教を信奉する人にとって「神々」となるとそれは異教(邪教)のことなのである。