ざんねんないきものとざんねんな進化認識

 「生物は生き延びるために進化する」という表現は生物学的にはおかしい。「生き延びる」というのが意思ではなく「生存」という事実のことを言っているとしてもだ。生物は「生存するために進化する」わけではないのである。「新たに生じた表現型が淘汰圧にさらされ結果として滅びなかったものが生き残った」(その時の環境でマイナス要因を抱えていたものがいなくなっただけで、有利なものだけが生き残るのではなく、有利でも不利でもないものも淘汰圧の影響を逃れているので生き残る)というのが結果としての「進化」である。

 最近「ざんねんないきもの事典」というタイトルの児童書が流行った。でも「ざんねん」とはあくまでも人間から見たら「なんでそうなってるの?」っていう興味を引くためのきっかけとしてその語がタイトルに使われているだけで、「ざんねん」といっても生物学的にその種が「失敗」だということを意味しているわけではない。少なくとも生き残っているわけだから(あるいはティラノサウルスだったら当時存在していたわけだから)、当時の環境による淘汰圧の大きなマイナス影響を受けずに生存できたってことは種としては生物的にはむしろ「成功」なんじゃないの?(形態学的に人間から見たら「ざんねん」だとしても)

wikipediaの「ざんねんないきもの事典」の項

 進化論の話で出てくる有名なたとえ、「眼鏡の鼻パッドを乗せやすいように、人類の鼻の形は進化した」っていうのは明らかにおかしいってわかるでしょ?語が抽象的になったとたんに、この手の誤解や珍論が進化論にはついて回る。

 だからといって、例えば文学作品(たとえばSF)で「生き延びるために進化する」という考えを据えて話を作るということには反対はしない。あえてそういう設定にすることでその作品に価値が生まれるのであればね。

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