読了:専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

  • 作者:トム・ニコルズ/高里ひろ
  • 出版社:みすず書房
  • 発売日: 2019年07月11日

もはや健全な懐疑心ではない、ゆがんだ反知性主義である。民主主義には正しい情報に基づく熟議が欠かせない。その礎を支えるのは各分野の専門家が蓄積してきた専門知だ。ところが今、専門知が蔑ろにされてフェイクがまかり通り、好みの情報だけを取り入れてその正誤を顧みない、という風潮が高まっている。何が起きているのか、これを放置するとどうなるのか。大反響を呼んだブログ発、専門家からの愛ある反撃。

序論/第1章 専門家と市民/第2章 なぜ会話は、こんなに疲れるようになったのか/第3章 高等教育ーお客さまは神さま/第4章 ちょっとググってみますねー無制限の情報が我々を愚かにする/第5章 「新しい」ニュージャーナリズム、はびこる/第6章 専門家が間違うとき/結論ー専門家と民主主義

アメリカにおいて専門知が重要視されなくなったのはいつからか、それはまたなぜなのか?専門知の役割とは?それらを専門知を担う専門家の立場から解説する。非常にわかりやすく読みやすい。注目すべき興味深い例や調査が取り上げられ、また端的でわかりやすく核心に迫る表現も多く、久々に気になった箇所に引いている下線だらけの読後状態になってしまっていた。ただし専門知を担う側からの論なので、著者の書きっぷりは読み手によっては不遜傲慢に感じる部分もあるかもしれない。

平均的アメリカ人の基本的な知識のレベルはあまりにも低下し、「知識が足りない」の床を突きやぶり、「誤った知識をもつ」を通り越して、さらに下の「積極的に間違っている」まで落ちている。

この手の話となるとお約束なのだが、やはりダニング=クルーガー効果の話から入っていく(wikipediaの「ダニング=クルーガー効果」の項)。ヒトは自分が何でも知っていると簡単に思い込んでしまう。ましてや今日インターネットでググれば知りたい情報はすぐ答え(らしきもの)が得られる。しかしそれは本当に正しく適した情報なのか?実際には、ヒトは情報と思われるもののなかから、自分の考えに合わないものは無視して(意図的であったり無意識であったり)、自分の考えや主張に適合するものだけを情報として取り込んでしまう。そして、その偏った知識でもって「そのことに関して私は知っている」と主張する。

またメディアはうそをついている、メディアは信用ならないという。自分がインターネットで調べて得た情報(もちろん自分の考えに合わないものは情報ではないとされている)が正しい、それ以外を主張しているメディアは信用できないと。つまり実際は「人々は本当にメディアを嫌っているわけではない。自分の気に入らないニュースを報じたり、自分とは異なる意見を発したりするメディアを嫌っているだけだ」。

忘れないでほしい。ニュースを視聴して理解するのは、練習することによって上達するスキルのひとつだということを。ニュースの賢い消費者になるためのいちばんの方法は、定期的にニュースを消費することだ。

それでは専門家と呼ばれる人々は何者なのか?

専門家は政策立案者ではないということを知っておくべきだ。専門家は国家の指導者に助言し、その言葉は一般の人々の言葉より大きな影響力をもつが、専門家が最終決定をすることはない。

専門家に約束できるのは、そうした間違いを減らすルールや手順を設けて、一般の人々がする場合よりも大幅に間違いを減らすということだけだ。

専門家の目的は説明することで、予測することではない。ところが専門家自身が簡単に予測(予想)することに飛びついてしまう。そして専門家の予測が外れるたびに、「専門知は役に立たない」と判断されてしまう一因になってしまっている。著者の専門はUSSR(旧ソ連)だが、ソ連が崩壊するとはだれも予測できなかった。専門家としては痛い失敗ではあるが、だからといって専門知が役に立たないというわけではない。

最後の「結論-専門家と民主主義」が著者の考える専門知の役割を端的にとらえている。
まず専門家が民主主義において果たさなければならない役割と責任について。

専門家がしなければならないのは、自分の助言の責任を認め、同業者どうしでも責任を課し合うことだ。いくつかの理由――学位の過剰供給、世間の関心の欠如、情報化時代の知識の生産についていく能力不足など――から、専門家たちはこれまで、社会がその特権的な立場に求める誠実さでその義務を果たしてこなかった。もっとがんばるべきだ。たとえその努力が、たいていは気づかれずに終わるとしても。

専門家にできるのは選択肢を提示することだ。価値判断を行うことはできない。専門家は問題を説明することはできるが、人々にその問題をどのように解決するべきかを指示することはできない。たとえその問題の性質上、幅広く合意が存在していたとしてもだめだ。

では、それを踏まえての有権者の役割は?

専門家は、どうなるかという可能性を提示することはできるが、その問題に関わり、自分たちが優先させるものを明確にして何をなすべきかを決めるのは、有権者の仕事だ。(引用者補足:地球温暖化によって)ボストンが海に沈むのはわたしの希望する結果ではないが、人々が専門家の助言を無視してその結果を招くのなら、それは専門知の失敗ではない。むしろ市民の関与の失敗だ。

両者(専門家と有権者)の信頼の上に民主主義が築かれる。

トランプの専門家に対する嘲笑は、昔からアメリカ人が抱いている、専門家や知識人は一般の人々の生活に口を出し、しかもそれがひどく下手くそだという確信に上手く働きかけた。(中略)しかし最終的にトランプが当選したことは、もっとも最近の――もっとも高らかに響く――トランペットの音であることは間違いなく、それは迫り来る専門知の死の先触れだ。

専門家と市民の関係は、民主主義国家のほとんどすべての関係と同様に、信頼という土台の上に築かれている。信頼が崩壊すれば、専門家と一般の人々の対立が生じる。そして民主主義自体が死のスパイラルに突入し、たちまち衆愚政治か、エリート支配によるテクノクラシーに陥りかねない。いずれも権威主義的な結末であり、現在のアメリカにはその両方の影が忍びよっている。

一般の人々は忘れがちだが、共和政体は、(中略)本来、知識をもつ選挙民――ここでのキーワードは「知識をもつ」だ――が、自分たちの代表者を選び、その人間が選んだ人々に代わって意思決定をする手段だった。

専門家は常に、おのれは民主主義社会と共和政府の主人ではなく僕であるということを肝に銘じておかなければならない。一方、主人となるべき市民は、みずから学ぶのはもちろんのこと、自分の国の運営に関わりつづける公徳心のようなものを身につける必要がある。一般の人々は専門家なしでやっていくことはできない。この現実をわだかまりなく受け入れるべきだ。同時に専門家たちも、自分たちにとっては自明の理に思えるような助言でも、彼らと同じものに価値を認めない民主主義においては、かならずしも受け入れられるわけではないことを納得しておく必要がある。さもなければ、民主主義とは、根拠のない意見に対して労せずして得る敬意を際限なく要求する制度として理解されるようになり、民主主義および共和政府それ自体の終焉を含めて、何が起きてもおかしくない。

引用ばかりになってしまった。全体を通して内容的には「あぁ確かにそうだよな」ってことばかりでセンセーショナルなことはないのだが、その書きっぷりが刺激的で痛快な本ではあった。

最後に、主要ではないが納得してしまった箇所をおまけで引用しておく。

リベラルアーツをけなす人々は、実際には、大学を職業訓練校にしろと主張していることが多い。

検索ウインドウに言葉を打ち込むことはリサーチではない。

たとえば、一人の科学者が遺伝子組み換え生物(GMO)は安全だと言い、一人の活動家が危険だというトークショーは、一見「バランスがとれている」ように見える。しかし現実には、それは馬鹿馬鹿しいほど偏っている。なぜなら科学者の一〇人に九人はGMOを食べても安全だと考えているからだ。

専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]
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