晩に、かれこれ20年くらい懇意にさせていただいているKさんの店に顔を出してきた。


こんにゃくのサブジうまい。オクラのカレーもうまい。ごちそうさまでした。
晩に、かれこれ20年くらい懇意にさせていただいているKさんの店に顔を出してきた。
こんにゃくのサブジうまい。オクラのカレーもうまい。ごちそうさまでした。
人間の脳はうまく聞き取れなかった表現があると、自身の知っている語彙や言い回しで補おうとする傾向があることは多くの人が経験しているのではなかろうか。これは日本語だけでなく不慣れな言語に対しても起こりうるわけで。ラフの場合は英語のリスニングがまったくできない。
さて、ミュージカル「オペラ座の怪人」の主要曲に「Think of me」というナンバーがある。この歌い出しがしばらく前まで「リコピ~ン」と聞こえて仕方がなかったのである。まぁ聞いてみてくれたまえ。
いや、もちろん曲のタイトルにもなっている「Think of me」と言っているわけであるが(歌い出しの言葉をそのままタイトルにする例は多いからね)、つい先ごろまでラフには「リコピ~ン」だったのである。最近ようやく「チンコーミー」くらいには聞こえるようになった。
■ lycopeneを含む例文として心惹かれたもの
To provide an effective method for utilizing tomato juice produced as a byproduct in obtaining lycopene from the tomato. – 特許庁
小田原のサバ、ファッションフード、福島のスローフード、ジャンクフードの叙情、一汁一菜、蒸したカリフラワーのピュレ、アサリ二キロのスパゲッティ、マルフーガの揚げもの、どんぶりの味、怪食、快食、絶倫食、庄内のワラサ、エル・ブリと新スペイン料理、水のごとき酒…。美味い料理、美味い酒には目がない気鋭の映画批評家が、料理本や料理エッセイを批評的に読む。食の素材、味、調理法、さらには食文化のあり方をめぐる、驚きと発見に満ちた考察。
料理本・食文化本(レシピ本を含む)の批評エッセイなんだけれども、これがべらぼうにおもしろかった。生きるためには食べなければならないがゆえに「生きるとは何か」というテーマに直結するのが食であり料理である。ゆえに料理本というものは著者の生きざまが反映されずにはいられないものなのだ。それをくみ取り愛でて楽しむのが本書。
凡人には足元にも及ばないような変態的なこだわりを持つ料理人もいれば、非科学的な理論さえ根拠にしてしまう食の研究人もいる。しかしそこには彼らの食へのこだわり(時には愛ゆえの滑稽ささえ感じる)が垣間見える。そしてそういうところに人間が人間たる所以を見出し、愛情豊かな視点で三浦は批評していく。
三浦哲哉氏とラフはほぼ同年代なので、食文化に関する思い出話などは共感できる部分も多かった。
いろんな本が登場するが、もっともインパクトのあった料理本タイトルは「小林カツ代と栗原はるみ」。この二人の名前を並べてそのまんまタイトルにしてしまう発想がすばらしい。
カレーパンってドーナツだったんだね。
正月に実家に帰ったので、久々に雑煮を食べたよ。さて、実家は関西圏、おかんは関西人(ほぼ大阪人)、しかし実家の雑煮は関西風ではない。すまし汁に鶏肉の関東風である。これは、料理(をはじめとする家事の作法)というものが女系に引き継がれてくることが多かったということの表れの一つと判断できる。うちの実家の雑煮が関西風ではなく関東風なのは、母方の祖母が新潟の出によるものと考えられる。人のうちで雑煮をいただくという経験もしたことがないので、ラフは関西風の味噌の雑煮というものをこれまで口にしたことがない関西人なのである(一度食べてみたい)。
■ 実家のお雑煮は隣の地域となぜ違う?ダシ、餅の形、具材…違いがわかる日本全国お雑煮文化論 (1/2)
さて、上記記事の序段(イントロ)にある「1年に数日しか食べない料理にもかかわらず、地域ごとの違いが色濃く残っているお雑煮」っていう表現がラフには激しく引っかかった。自分としては「1年に数日しか食べない料理ゆえに、地域ごとの違いが色濃く残っているお雑煮」の間違いじゃないの?って思ったからである(実際記事中でもそういう風に言っているようにラフは読んだのだが)。「地域ごとの違いが色濃く残っている」のは「1年に数日しか食べない」からでは?と。日常的に食べるものであれば、変化も早いだろうと思われるのだから。この論の展開はなんだ?筆者はなぜ「かかわらず」という語を選択したのか?
つまりこのイントロを書いた人は、「1年に数日しか食べない料理」というのは「雑煮」を形容する語として使っているだけで、続く「地域ごとの違いが色濃く残っている」というもう一つの雑煮の特徴とは関係がないのである。単に、雑煮を形容するための2つの独立した言い回しでしかないのである。だったら「かかわらず」という語は不適切で、「であり、また」というように並列に結ぶ方が適切ではないのか?
正月早々、たかが雑煮紹介の記事の些細な言い回しに突っかかるのは無粋だと言われればそうなのかもしれないが……。
仕事帰りに初詣によってこようと思ったのに、すっかり忘れていた。
悪魔のおにぎりを作る際に、とんでもない量の青のりをぶち込んでしまい、翡翠のごとき緑色のおにぎりを誕生させてしまった。青のりの香りというか、もはや強烈な磯臭さを放つ苦みのあるおにぎりは、当然のごとくあまりおいしくなかった。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
うちにはテレビという文明の利器がないので、たまに動画サイトなんか眺めているときがあるんだけれども、カテゴリーとして「大食い」というのがあるじゃない。その「大食い」にも2種類あるようで、いわゆる飲食店の大食いチャレンジメニューと、自分で大盛り料理を作って食べる系と。まぁ、前者はいいとして、後者ですごく気になるのは、大盛り料理を作って食べるまでに収録とかしていたら食べるときにはすっかり冷めているってことはないのだろうかっていうこと。暖かくして作った料理なのにあまり湯気が上がっているように見えない。大盛りだからすぐに冷めるってことはないのかもしれないけれども、それでもぬるい程度には冷めているのではないのかなぁとか思うのだ。てんぷらとか全部揚げてからって大丈夫?パスタとか伸びきってパンツのゴムみたいにならない?とか。でも、たいてい「おいしい」といって食べているなぁ。きっと大丈夫なんだろう。ラフの杞憂なんだろう。
皆さんすでにご存じでしょうが、今「悪魔のおにぎり」というのが話題だそうで。えぇ、レシピも見ましたよ。天かすと青のりとめんつゆを混ぜ込んだ混ぜご飯でつくるおにぎり。そりゃうまいだろう。さぞかしうまいだろう。食べてみたいよ。ぜひとも食べてみたいよ。でも自分で作るかといえば絶対無理。混ぜご飯を作った時点で茶碗に盛って食ってしまうにきまっている。そこから握るという最終工程を自分は省略する可能性無限大だよ。いや、わかってるさ。おにぎりにするからこそうまいんだと。でも、混ぜご飯状態でもきっとうまい。おにぎりには及ばないかもしれないけれども、きっとうまい。ラフはそう思うので、握る前に食ってしまう。絶対食ってしまう。その最後の握るというひと手間がこの「悪魔のおにぎり」の「悪魔」たるゆえんだということは分かっているにもかかわらず。
金沢出張のお土産として「YUKIZURI」という名の菓子をいただいた。
買ってきた当人は菓子の名前まで気にしなかったと言っているが、それにしてもすごい名だ、「ゆきずり」……。で、ふと思ったんだけれども、金沢土産ということは、兼六園の「雪吊り」のことではないかと。調べてみました。
なるほど、やはりそうであったか。
「インドのクローバル化」というニュースヘッダが「インドマグロのバル」に見えて、なんだかおいしそうなニュースだなぁと思ってしまった。