PCの買い替え時か

 家で使っているPCが、最近ブーーーンと低いうなり声をあげるようになった。多少振動しているような気もする。PCは24時間起動させっぱなしなんだけれども、昨日は帰ってきてからディスプレイのスイッチを入れたらフリーズしていた。8年以上使ってきたので、そろそろ買い替え時なのかなぁ。ちなみにパソコンの法定耐用年数は4年。下の記事にあるように、平均買い替え年数は7年とか。ちょっとまとまった出費はためらうなぁ。どうしよう。(つまりラフは今が買い替え時だよと断言してくれる人を求めているだけなんだ。優柔不断だし)

パソコンは何年で買い替えられているのだろうか(不破雷蔵) – 個人 – Yahoo!ニュース

誰でもわかる

 ラフは「常識」という言葉をあまり使いたくない。使っている人の話を聞くに、その人の育ってきた環境にとっての「当たり前」を「常識」と言っていることがほとんど。多様性がどうのこうのとか言われている昨今ではなおさら「当たり前」は人によって違う。全人類の「共通認識」ではないのだ。ネットの書き込み(論とは判断できない程度のもの)によく「それくらい常識」とか「常識以前の問題」などと書いてあるのを見ると、「あぁ、この人は自分の思い込みで書き込んでいるだけなんだなぁ」と判断してだいたい外れない。そもそも「常識」と、ことさらに書かなければならない状況ということ自体が「常識」が「共通認識」ではないということで、自分の発した「常識」と思っているものを疑ってかからなければならないことに気付きたい。

同じような書き方として「小学生でもわかる」「中学生でもわかる」という表現がある。これも大体が「誰でもわかる」の相手を見下した表現として使われることが多い。義務教育を受けていれば分かるだろう、つまり普通の最低限の義務教育(普通って何だ?というのはとりあえずおいておく)さえ受けていれば分かるだろうというものだ。その証拠に「高校生でも分かる」「大学生でも分かる」という表現はこの手のネットの書き込みではほぼ見かけることがない。本当に「小学生ならわかるのか?」「中学生ならわかるのか?」ということを冷静に考えてみると、「わからない人もいるよなぁ」と思うことも多々あり、上であげた「常識」と同じ感覚で使われていることが多いのだ。

同一人物かと思っていた

 ファンの人が聞いたら怒るだろうなぁ。音楽でも有名だし社会評論もやるんだと思っていた人が、勝手にラフが同一人物だと思っていただけで、全然別の二人だった。改めて見てみると、違うなぁと思うのだが、知らないで同一人物だと思っていたときは、「ふ~~ん、こういう感じのときもあるんだ」と印象の問題くらいにとらえていたのだ。思い込みっておそろしい。あぁ、ファンの人本当にごめんなさい。ご当人様にも、ごめんなさい。

川谷絵音 – Google 画像検索

古市憲寿 – Google 画像検索

ザオラルメール

 今日もまた、新しい言葉を知ったよ。世の中には「ザオラルメール」なんて言葉があるんだね。まったく知らなんだよ。「ずっと連絡していなかった人に連絡を取ってみるメール(というかLINEメッセージ)」とのこと。目的は、そのメッセージをきっかけにかつての交流または交際を復活させることだそうな。ドラクエに出てくる復活の呪文が語源らしい。この呪文が必ず復活するものではないことから、交流又は交際が必ず復活するとは限らないのも言いえて妙。

ザオラルメール – Google 検索

分子進化の中立説

 ラフが専攻していた分野は「分子遺伝学」なのである。そういう影響もあって、自分の進化論の考え方の核としているものは、木村資生先生の提唱した「分子進化の中立説」である。中立説はダーウィンの進化論(いわゆる自然選択説)を否定する理論かのように書かれているサイトなんかもあるけれども、自分の理解では対立する考え方ではない。

wikipediaの「中立進化説」の項

怠惰な心意気

ライフハック系の記事タイトルによくある文言

・~を習慣化するたった5つのコツ
・~ための7つの習慣

とかいうのがあるじゃない。ものによっては興味はあるけれども「5つも?」「7つも?」とか思ってしまうのだ。そんなに多くのことに気をつけられるほど俺は物覚えがよくないよ、しんどいなぁ、と思ってしまうのだ。それが単なるコツであったとしても。要するに俺は面倒くさがりなものぐさなのだ。

もっとも「唯一の方法」とかいわれてしまうと、かえって胡散臭く思えてしまうものだけれども。

アヴァンギャルド

シュレッダー“自壊”で価値上がる? バンクシーとアート資本主義のジレンマ

ゴミと間違えられた現代アート→「救出」後の館長コメントが超ブラボー!【作者は激怒】

最高の芸術とゴミの違いはファンの多さだけな気がしてきた

「現代アート ゴミ」で検索した人としてない人へ。

 まぁ、こんなあたりの記事からはじめて、前衛芸術に関してラフが思っていることを、美術、音楽、文学あたりについて書いてみようかなと考えていたんだけれども、時間がないのでまた今度。ネタの覚書みたいなものということで。このまま忘れてしまうかもしれないけれども。

AI幻想

 Amazonのドラマ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」で、日本のIT企業が主催するクラシックコンサートでAIロボットが登場する。このAIロボットはモーツァルトの全ての曲をインプットされており、モーツァルトのごとく発想できるという設定。コンサートでは、2つの演目が用意されており、1つ目はこのロボットが「フィガロの結婚」序曲の指揮を振り(オーケストラメンバーは人間)、2つ目はモーツァルトが途中で死んでしまったために未完となった「レクイエム」の続きをこのAIロボットが作曲したのでそれを初演する(指揮は主人公であるプロの指揮者)。で、モーツァルトを敬愛する主人公の指揮者はこのAIロボットに反発するわけだが……。

 主人公は「そんなにAI化したいのなら聴衆もAIにすればいい」なんてことも言っており、これにはとても共感した。芸術においては提供(サービス)する側=作者(奏者)という関係を想定するから、AIは作家の代わりということを真っ先に思い浮かべがちだけれども、受け手がAIだっていいわけだよ。AIが人間のように考えるのであれば、人間のように感じることもAIの目指す目標ととらえることも可能であり、そうであるなら聴衆のAI化を考えたっていいわけだよ。AI聴衆?アマチュア作曲家、アマチュア指揮者、アマチュア演奏家の中には、人間のように感じてくれて評価してくれるならそういう存在を欲する人もいるんじゃないかとか思ったり思わなかったり。案外需要があったりしてね(ラフはそういうのいやだけれども)。

3度の勘違い2題

 メロディーに対して、メロディーと同じ動きのハーモニーをつけようとした場合、3度下を演奏させることがある。ここで重要なのは、これは必ず適切というわけではないというところだ。ところが3度下をいっておけば必ずハモると思い込んでいる人が、音楽をやっている人(音大出身を語る人)たちの中にもいるから困る。

あるアンサンブル集団でのこと。2本の楽器がユニゾン(まったく同じ旋律)でメロディーを演奏するようにアレンジされている箇所があったんだけれども、そのうちの一人がユニゾンはつまらないからといって、ハモらせようとメロディーの3度下を機械的に演奏したのだ。もちろん演奏は珍妙な汚いものになったのは言うまでもない。どのような和声が付いているのかも考慮せず、しかも機械的な3度下。何考えてんだ?とあきれた。しかもこの人が音大出身で音楽のことは他の人より分かっているつもりになっている点が、痛くて痛くて仕方がなかった。

是枝監督の映画「そして父になる」。ある程度裕福でそれなりの教育を息子に施している家庭が出てくるのだが、この息子がピアノの発表会で演奏するのが「メリーさんの羊」なのだ。これが見事に機械的3度演奏(「ミーレドレミ、ミ、ミ」という右手に対して「ドーシラシド、ド、ド」の左手)アレンジ。もっともこの家庭は教育にお金はかけているが、その教育の本質的よしあしには関心がない。そして息子も積極的にピアノに興味がなくあまり上手くもないという設定なので、これはこれで機械的3度演奏が結果としてそれなりの効果を生んでいる点は認めよう。ただ、映画の出来とは別なんだけれども許せないのは、こういう気持ちの悪いアレンジを平気で教材として幼少期のレッスン生に与えてしまうピアノ教師というものが現実にも存在することなのだ。そしてそれが和声的に気持ちの悪い不具合を生んでいることに気付いてないことの罪深さ。音楽教育に携わる者としてこんなものを違和感なく平気で聞けるということは音楽家として致命的だ。ラフだったら頭使わないでも2声でハモらせるなら左手は「ドーソミソ、ド、ド、ド」ぐらいだろうと思うし、あるいはもっと簡単にオクターブユニゾン(左手も右手と同じくメロディーを弾く)でも音楽としては十分かっこいいと思う。技術的に難しいというなら「ドードドドド、ド、ド」でもよかろう。よっぽど特殊なことを教えようというのでもない限り、伝統的和声学にとって間違ったものを幼少期のレッスン生に与えるのは害悪でしかない。

ダイアモンドの鑑定士を育てるには、本物とガラス玉を見せて「こっちは本物、こっちは偽もの」といったことはしないそうだ。とにかく本物を見せ続けて鑑定眼を育てるという。音楽だって同じようなもので、おかしなものを与えてはいけない。特に、センスを育てるべき世代におかしなものを与えて、おかしなものをおかしいと感じなくなってしまっては元も子もない。

料理冷めないか疑問

 うちにはテレビという文明の利器がないので、たまに動画サイトなんか眺めているときがあるんだけれども、カテゴリーとして「大食い」というのがあるじゃない。その「大食い」にも2種類あるようで、いわゆる飲食店の大食いチャレンジメニューと、自分で大盛り料理を作って食べる系と。まぁ、前者はいいとして、後者ですごく気になるのは、大盛り料理を作って食べるまでに収録とかしていたら食べるときにはすっかり冷めているってことはないのだろうかっていうこと。暖かくして作った料理なのにあまり湯気が上がっているように見えない。大盛りだからすぐに冷めるってことはないのかもしれないけれども、それでもぬるい程度には冷めているのではないのかなぁとか思うのだ。てんぷらとか全部揚げてからって大丈夫?パスタとか伸びきってパンツのゴムみたいにならない?とか。でも、たいてい「おいしい」といって食べているなぁ。きっと大丈夫なんだろう。ラフの杞憂なんだろう。