思考の途切れ

 「犬」のくだけた表現として「わんこ」という言い方がある。いや書き言葉でも使うことがあるのだが。これを「ワンコ」と書かれると、一瞬「ウンコ」に見えてしまう。「ん?」と思ってしまう。読みながら流れている思考が一瞬ひっかかるというか、なんというか。できれば「わんこ」とひらがなで書いてもらえるほうが個人的にはしっくりくる。

音楽と言葉と

 秋の地域の音楽イベントに出演およびお手伝いをしてきました。およそ20近い団体が出演したのだけれども、ほとんどは小学校の団体。去年もこのイベントの感想を書いた。小学生の多くが技術的に上手くないのは仕方ないけれども、それでもいいと思ってしまう、気にならなくなってしまうという状態になるんだとしたら、それは音楽ではないと思うのだ。みんなで何かをなしとげる喜びと音楽の楽しさってのは別ものだ。科目としての「音楽」(いわゆる指導要領に基づく学校の音楽教育)でよしとされる演奏と、音楽で求められる演奏は違う。教育イベントで良しとされるレベルにとどまるか、教育レベルで良しとされるかもしれないがもっとよいものを届けたいという心意気まで持てるか。小学生にそこまで求めるのは酷か?でも単なる情操教育レベルでとどまってしまっては音楽の楽しさすばらしさに気付けないんじゃないかなぁ。もったいないって思ってしまう。

ある合唱の団体が「Believe」を歌っていたけれども、Sくんはこの曲がすごく好きらしい。その思いを熱烈に語ってくれた。この曲、好きな人にしばしば出会うのだが、ラフはこの曲が好きではない。なんだか気持ちの落ち着きどころがないふわふわした気持ち悪さを感じるのだ。メロディー(歌詞を除いた部分)もそんなに魅力を感じない(ありふれた陳腐な駄曲にしか思えない)し、歌詞だって素人が書いたような上っ面を撫でただけの軽さ。よく考えたら何を言っているのかわからない抽象的、雰囲気重視な言葉を並べただけな、詩にたいする責任をまったく感じられないもの。それに対して「Believe」とかタイトルを付けちゃうセンスってすごいなぁ。「Believe」って単語をラフは「(無条件に、有無を言わさず)信じる」というか「信じさせられる」とかいう非常にきつい言葉と感じているのだ。「宗教」とか「神」とかに対する。そこには盲目的に信じてしまうような覚悟、一神教に立脚する「疑うことは許されない」ような印象を受ける言葉なんだよね。「I believe you.」だったら「(何があっても、君が間違っていようとも)僕は君の味方だよ」ってくらいの覚悟の表明だと思うんだよ。こんな雰囲気だけ並べ立てた言葉の羅列を、弛緩したのほほんとしたメロディーにのせた曲のタイトルにこんな言葉を付けてしまう。この曲にはこそばゆいすわりの悪さ、あまりにもものを考えていないこっぱずかしさを感じてしまうのだ。これはラフだけなのか?ラフの感じ方がおかしいのか?好きな人には申し訳ないけれども、気持ち悪い曲だ。

かつて所属していた団の演奏会

 Q団の演奏会を聴きに行ってきた。演出たっぷりの楽しい演奏会だった。しつこいくらいにハロウィンにこだわっていたのがちょっとやりすぎ?とは思ったけれども。

 ラフがこの団をやめてもう2年位かな。辞めた理由は団が目指している方向と自分がやりたいものが違うからなんだけれども。かっこよく言うなら「音楽性の方向の違い」ってやつ。もっとも音楽性の方向だけではなかったんだけれどもね。Q団はゲイフレンドリーな団体だから、団員としゃべったり、練習後の飲み会とか本当に楽しくて、そういう時間をすごすためにQ団にいるのは自分にとって精神面でのメリットはすごくあったんだけれどもね。

 かつての仲間が、楽しい演奏会を開催している様を見て、あぁよかった、これからもがんばってね、って思いながら帰路に着いた。

ベニスのムーア人オセロの悲劇

 一面が白、もう一面が黒の円盤状の駒を使うボードゲームを「オセロ」というが、この「オセロ」という名称も登録商標(一般名称としては「リバーシ」)である。ちなみに自分はオセロがものすごく弱い。びっくりするほど弱い。勝った記憶というものがない。負けてばかりという思いしかないのだ。一応端っことか角を取れば有利ということは知っているが、どうするのが端っことか角が取れる戦略なのかがわからない。なのでオセロゲームに対して「やろう」という気持ちにならないのだ。勝てることもあるならまだしも、負けるということが分かっているので「何が面白いのだ?時間の無駄」と思ってしまうのである。

ヴィブラスラップは登録商標

 通称「与作」と呼ばれる楽器がある。北島三郎の「与作」で印象的に使われた楽器で「カーーーッ」と鳴る楽器だ。楽器の正式名称は「キハーダ」という。動物のあごの骨を使ったラテンパーカッションの1つだ。さてこれには代替楽器があって「ヴィブラスラップ」という。ハンバーグ師匠が携帯しているあの鳴り物である。実際の演奏場面で「キハーダ」と指定されていても、たいていの場合は「ヴィブラスラップ」を使う。作曲者による楽器指定も「ヴィブラスラップ」と書かれていることが多い。ただしこの「ヴィブラスラップ」という楽器名、実はPL社の登録商標で一般名称ではないのである。ヤマハの「エレクトーン」と同じようなものだ。

チンする

 電子レンジで温めることを「チンする」と言うが、これはかつて電子レンジのタイマー終了音が「チン」というベル音だったことに由来する。もっとも最近の電子レンジはベル音ではなく、電子音(メロディーだったりもする)なので、若い世代にはなぜ電子レンジで温めることを「チンする」というのか分からないこともあるそうだ。さもありなん。

論文?

論理が破綻しているもの(そもそもないもの)を「論文」と称することが許せない。便所の落書きとまでは言わないが、そういうのは単なる雑感では?

応援したい、味方したい側はあるけれども、そっちの「論」と称するものにも、破綻している、説得力がないものが見受けられるのもまた事実。不毛だなぁ。「う~ん、あっぱれ」と思わせるような「論」を読みたいぞ。

調子が悪い

 言いたいこと、表現したいことがいろいろあるはずなのに、それが言葉になってこないもどかしさに悶々としている。

 先月後半から、特に先週、体調が悪い。自律神経失調症?

懸命さ加減

「一生懸命」ってなんだか、その意味にもかかわらず非常に間が抜けた感じがする。発音すると「いっしょーけんめー」ってさぁ、あまりにも子供っぽくない?本当に一生懸命なのか?って思うほどに。
その一方でオリジンである「一所懸命」は発音も「いっしょけんめい」ときびきびしていてこっちはホント命かけてる感が伝わってくる。

悪魔のおにぎりとの葛藤

 皆さんすでにご存じでしょうが、今「悪魔のおにぎり」というのが話題だそうで。えぇ、レシピも見ましたよ。天かすと青のりとめんつゆを混ぜ込んだ混ぜご飯でつくるおにぎり。そりゃうまいだろう。さぞかしうまいだろう。食べてみたいよ。ぜひとも食べてみたいよ。でも自分で作るかといえば絶対無理。混ぜご飯を作った時点で茶碗に盛って食ってしまうにきまっている。そこから握るという最終工程を自分は省略する可能性無限大だよ。いや、わかってるさ。おにぎりにするからこそうまいんだと。でも、混ぜご飯状態でもきっとうまい。おにぎりには及ばないかもしれないけれども、きっとうまい。ラフはそう思うので、握る前に食ってしまう。絶対食ってしまう。その最後の握るというひと手間がこの「悪魔のおにぎり」の「悪魔」たるゆえんだということは分かっているにもかかわらず。