ダラダラしようよ

朝からだらだらと海外ドラマとか自然系ドキュメンタリーとか見ていたらいつの間にか夜だった。家から一歩も出なかった。俺の日曜日を返してって感じ<単なる自業自得。

レシピとレピシ

料理の作り方や手順なんかを「レシピ」っていうよね。「recipe」。ところが、「レピシ」と思っている人が少なからずいるようなのだ。ただの打ち間違いかとも思ったのだが、それにしては多い。

googleの「レピシ」検索結果

「レピシ」が結構たくさん引っかかってくる。普段から「レピシ」と言っている人が少なくないということなのだろう。

ちなみに、[REPICI]というiPhoneのレシピアプリがあって、わりと重宝している。このアプリの名称は確信犯的に「レピシ」と読ませるのだろう。

潜性遺伝子が発現する妙

 オリジナルのソースに当たっていないんだけれども、遺伝学会が「優性(dominant)」「劣性(recessive)」を「顕性」「潜性」に変更することを宣言したとか。確かに「優性」「劣性」と言う日本語では、遺伝子発現したものが生存にとって優れているとか劣っているとか誤解している人も多そうだ。そもそも生存にとって優れているか劣っているかなんて、環境が変わればどっちが有利とか不利とか逆になる場合もあるんだけれどもね。

 遺伝子の「優性」「劣性」とは2つの対立遺伝子が「優性」「劣性」で存在した場合、表現型として現れるか現れないかのタームである。高校生物を思い出してもらえばわかると思うんだけれども、遺伝子型が優性遺伝子のみの場合(AA)であれば表現型はA、優性遺伝子と劣性遺伝子の場合(Aa)であれば表現型はA(これが「優性」「劣性」と遺伝子を表現する根拠)、劣性遺伝子のみの場合(aa)であれば表現型はa。

 「顕」「潜」は、対立する遺伝子が存在する場合に「現れる」「現れない」という現象の表現なので誤解は減るかと思われるけれども、1点だけ。対立遺伝子が「潜性」遺伝子のみの場合(aa)、「潜性」遺伝子に基づくものが発現するよね。発現する場合があるのに「潜性」とはこれいかに。ま、これは屁理屈ですけれどもね(遺伝子型と表現型をはっきり区別して認識していれば問題にはならない)。

すでにして秋雨前線

この夏は雨がちで夏らしい日が少なかったなぁと思っているうちに、すでに9月。で、残暑厳しき折と言えるかと思えば、やっぱり雨がちで、天気予報では秋雨前線がどうのこうのとか言っている。そういうわけで、何かにつけて活動しない理由を天気のせいにしてしまうこの頃。俺は今、活性が落ちているよ。

読了:グノーシス (講談社選書メチエ) [ 筒井 賢治 ]

前からずっと気になっている言葉だったんだよ「グノーシス」。キリスト教史に触れるたびに、たびたび顔を出す異端信仰ということだけしかわかってなかったんだよね。どんな考え方なのかまったく知らなかった。でさ、wikipediaにはこう書いてあるのさ。

wikipediaの「グノーシス主義」の項

分かる?ここに書いてあること読んでも俺は全然わかんなかったね。何をおっしゃっているのかしら?ってくらい読むのが苦痛。そうはいうものの、ここらでちゃんと勉強しておこうと思った次第で、最近こんな本を読んでいたのだ。

「グノーシス」はギリシア哲学や二元論的な世界観から生まれた、正統多数派キリスト教とは異なる福音信仰。そもそもが創世神話からして異なっているわけだから、そりゃ異端とされるわな。こんな具合。1:が正統多数派キリスト教、2:が一般的なグノーシスのキリスト論、3:がグノーシスの一派マルキオンのキリスト論。

1:至高神=創造神は、自らが造った人類を罪から救うべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

2:至高神は、低劣な創造神が造った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

3:至高神は、自らとは縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとした。そのために至高神は自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

この説明ほど衝撃的なものはないよね。グノーシスってのはこういう考えなんだもん、びっくりするよ。ここまで違うんだと。正統多数派キリスト教からは異端とされる「グノーシス」を作者は時代背景から次のようにまとめる。

体制批判のごとく血なまぐさい熱狂もなく、殉教指令のごとく凍りつくような冷徹さもなく、単にギリシア哲学や二元論的な世界観を積極的に取り入れてキリスト教の福音を知的に極めようとした無害で生ぬるい運動。表現がネガティブにすぎるかもしれないが、つまるところ、紀元二世紀のキリスト教グノーシスとはこのようなものであったと言っても間違いではない。

紀元二世紀のローマ世界は、タキトゥスが「まれなる幸福な時代」と書き、同時代のローマ人でさえ「黄金の世紀」と呼んだ、そして後世が「五賢帝時代」と呼ぶ世界なのだ。その中で広がった「宗教」(=信じること)に「知」(=認識すること)を求めた考え方だったのだ。こんなワクワクする考え方を生んだ時代ってすごいとも思ったよ。

個人的大ヒット、すごく面白かった。「グノーシス」が気になって仕方がない人に「グノーシス」入門としてお勧め。
グノーシス (講談社選書メチエ) [ 筒井 賢治 ]

S吹奏楽団リハ

定演の曲がすべて決定した。なんだかどの曲も地味だけれども手を抜けないプログラムだなぁ……。苦労の割りに映えないというか報われない気が薄々しているんだけれども、僕は僕なりにやれることをやるしかないな。あ、やっぱりメインはトップを吹けとおっしゃいますか。お引き受けするしかないですな。その代わり、オープニングはトップ吹かないぞ。

Sちゃんに、来年3月のアンサンブルイベントに誘われた(Sちゃん曰く「ナンパした」)。というか半ば強制参加で。サクッとサクサクにやっつけてしまおうか。

スマホが熱いぜ

このところ、時々スマホが異常に熱をもつようになって、電池の減りが早くなった気がする。朝フル充電なのに、昼頃には半分、夕方には省エネモード推奨状態になる。電池がへたった?まだ1年ちょっとしか使っていないんだけれどもなぁ。

nuclear

原子爆弾は核分裂のエネルギーを使った爆弾。水素爆弾は核融合のエネルギーを使った爆弾。ただし、水爆で使う核融合を起こすためのエネルギーは膨大であり、それには核分裂エネルギーを利用している。つまり、水素爆弾は起爆装置として原子爆弾の仕組みももっている。

坂の街

夕方Rと散歩に出かけた。いつもとは違う方向へ足を向ければ、予想外の坂の住宅街を堪能できた。そっち側に行くと結構谷になってたんだね。新しい発見。

新学期の不安

ずっと昔、まだ小学校とか中学校とか高校とかの頃。新学期を迎えるにあたっての不安が「教室に入って席がわからなかったらどうしよう。」というものだった。特に夏休みなんかだと、自分の席がどこだったか忘れてる可能性が大じゃん。特に普段の生活に無頓着で忘れっぽい傾向にある自分にとって席を覚えているなんて自信がないわけだよ。実際はなんとかなってはいたんだけれども、この不安はいつも付いて回っていた。くだらない心配だけれども、新学期はそのことがいつも気になって不安だった。今でも時々夢に見る。些細なことだけれども、抜けないトゲみたいなものか。

心配するなら、宿題が出来ていないとか、休み明けテストをのりきれるかとか、授業についていけるのかとか、友達にいじめられるのではないかとか、そういうことなんだろうけれども、俺ってば本当に些細なことを気にしてしまう小さくて臆病な性格だな。