「美女と野獣」のタイトル

ディズニーの実写版「美女と野獣」(「Beauty and the Beast」)が話題な昨今。「美女と野獣」という日本語タイトルもまぁ、「j」という音で韻を踏んでいて悪くはないんだけれども、「美女」という日本語の単語から受ける印象は自分が抱いているこの物語のヒロインにはちょっとふさわしくないような気もする。もともとのフランス語だと「La Belle et la Bête」。冠詞も含めていい感じ。「獣」はフランス語ではなんと女性名詞なので「la」。ヒロインの名前が「ベル」なのはこのタイトルからですね。日本語で言うなら「美子」「佳子」という感じか。参考までにドイツ語だと「Die Schöne und das Biest」。いまひとつ。

モーツァルトを弾くと言うことは

それはステキなものだけれども、生半可な状態でそれに触れるとやけどするぜ、というものがある。ピアノ弾きにとってたとえばモーツァルトのピアノソナタ。一見簡単、技術的な困難さも少ない、でも美しく演奏するにはものすごく耳と頭を使う。耳と頭を使っていない演奏ってのはすぐばれる。奏者の力量が一発で見分けられてしまう、モーツァルトのピアノソナタと言うのはそういうものなのだ。

テンションダダ下がり

S吹奏楽団リハ。なんだかこのところ演奏会に対する意欲がものすごく下がっている。低調。なんか盛り上がらないと言うか乗り切れないと言うか。単に冷静に冴えてきたのならいいんだけれども、そうではなくやる気をそがれているのだなぁ。なんだかなぁ。なんでだろうかなぁ。演奏会に向けてなんとかしないといけないんだけれどもなぁ。

ピアノの奏法

ピアノ曲に「左手のための~」というものがいくつかあるが、別に両手で弾いても構わないと思っている。左手だけでも弾けますよ、左手だけのピアニストを想定して書きましたよっていうことだけであって、その曲のあるべき表現として両手で弾いたほうがいいと判断できるなら両手で弾いてもいいじゃない。左手だけで演奏したときの物理的制約や効果を期待されていて、それを表現するのに適した方法が左手のみでの演奏であるならば左手のみで奏すればいいんじゃないの?どのように演奏しようともその曲にふさわしい適切な表現ができるのであれば、その奏法によって曲の価値を減じてしまうとは俺は思わない。

もし、その曲が要求している表現をもっとも適した形で奏すことができると判断したのなら、ピアノは別に足で弾いたっていいのである、口に鉛筆をくわえてそれで鍵盤を押してもいいのである。

ただ、内部奏法は微妙だなぁ。ピアノの内部奏法とは、指なり道具なりでピアノの弦を直接触って音を出すって言う奏法なんだけれども、これは楽器そのものを傷めそうで、あんまりやりたくない。現にコンクールなんかの選曲基準やホール規約に「内部奏法は禁止」と明記されていることあるしね。

ネリベリアン

お手伝いに行っているT吹奏楽団のアンサンブル発表会本番でした。本格的な演奏に取り組む団体から笑いをとりにいく団体まで、楽しいイベントでした。自分はネリベル作曲の金管12重奏に出演させていただきました(チーム名が「ネリベリアン」だ!)。この曲にチャレンジするのも、アンサンブルをするのもとても勉強になりました。でも何よりも勉強になったのは、打ち上げでTさんから「基礎練習とはどういうものか?」という話をじっくりと聞けたことなのかもしれないな。

かつて所属していた団体の演奏会に行ってきた

かつて所属していた吹奏楽団Q団の定期演奏会に行ってきた。演奏も演出もなかなかいい感じ。今日の演奏会を聞きに来られなかった人はちょっとした損をしたかもよって思うくらい。っていうか、むしろこんなステキな演奏会に出られない自分が一番損していたかも。かつて一緒に演奏していた懐かしい面子ががんばっている姿を目にできて、とてもいい演奏会でした。また一緒に演奏できるといいなぁと感じました。

センスがないことに驚く

いや、何、自分のことなんだけれどもさ。本日S吹奏楽団リハ。もっとシャレた演奏ができればいいのに、なんか力入りすぎてる。基本的に自分は音がでかいようだ。周りと音をブレンドさせる感じがうまくつかめない。

おちおち仕事もしてられない

S吹奏楽団、平日に加えて週末のリハが入ってきて現在週2回の練習モード。トロンボーンカルテットを3rd, 4thの二本だけで演奏し(1st, 2ndがお休みだったので)みんなに伴奏してもらうという微妙な練習や、見逃してもらえることを期待していたハイCの出てくるフレーズで捕まって、実はユーフォがオクターブ下で吹いていることになんだか無性に腹が立ったり(単なる八つ当たり)。ま、週末の練習は長いのでいろいろ集中してやっていると練習後の疲れがどっと出てくるよ。

ライブラリアンのIさんは出席率が結構高いのだけれども、前回の練習のときにはなんだかすごく久しぶりに会った気がしたので、「なんだかお久しぶりですね」って話したら「たった2回練習休んだだけなんだよ。いつもいると思われているとこういう時損するみたいで、おちおち仕事もしてられないわ。」

和声法についての素人考えだけれども

和声法って、規則が規則を生んでがんじがらめになっているたいそう面倒くさい和音の並べたかのお約束事をまとめたもの。やってはいけないこと、いわゆる禁則がやたらと多いんだよね。まぁ、音楽の歴史の積み重ねの中で生み出されてきた経験則をまとめたものととらえることもできるよね。いわゆるベストプラクティス集。

でもさぁ、そんな規則を逐一覚えて、当たり障りのないものを作るよりも、学問上として見立てた知識にこだわらず、本来は自分の培ってきたセンスに頼るべきであって(和声法的におかしいものは学問ではなく自身の経験で知っているものであるのが理想)、自分が表現したいものが表現できるならば禁則なんて破っていいんじゃないかなぁ。ドビュッシーはそれをやったからあの独特な世界が生まれたわけだしね。

絶対音感って?

世間的に一般人が「絶対音感」って言葉を使うときに以下の2つのどちらの意味で使われているのか判定しなければならない。
・音程のある楽器で鳴っている楽音が何の音か分かる(聞き取り聴音ができる)
・自然の音にさえ何の楽音かがわかる
そもそも、音楽やっている人は「絶対音感」という言葉を使うことはマレな気がする。とりあえず自分は前者は何とかなるが、後者の意味では川のせせらぎとか、茶碗が割れる音とかを楽譜に書き出すことはできないなぁ。それを模した表現としては書いてみることはできるけれどもさ。だいたい、すべての自然現象も含めたあらゆる音が体系としての一つでしかない西洋音楽の音程にすべて還元されるのってきわめて狭い音楽観しか有していないようで不自然っていう気がするんだけれども、どうかな?

「絶対音感」のあるプロのバイオリン奏者がいました。所属していたオケのピッチがA=440Hzだったんだけれども、ある時別のオケに移籍してそしたらそこのピッチはA=440Hzじゃなかったと。それが気持ち悪くて楽器を弾くことができなくなり音楽をあきらめざるをえなくなった。なんて話を過去にどこかで読んだことがあるんだけれども、これって多分に今でいうところの都市伝説だよなぁ。

ヒトの歌声っていうのは、実は一音に聞こえるものだとしても、同時にいろんなピッチの音が鳴っているそうだ。それなのに、ヒトの脳はその中から特定の音程のみを取り出して認識しているらしい。その仕組みはまだ不明だそうだが、興味深い現象ではある。脳の働きって面白いよなって思う。