シャープ系をさぼったつけ

S吹奏楽団の定期演奏会があと1か月ちょいでやってくる。「スイートメモリーズ」と「ロリの歌」は最初からやばいと思って割とまじめにやってきたんだけれども、ここにきてホントにやばいのは「キャラバンの到着」だという現実に直面。FisとかGisとかついついシャープ系の練習をさぼっていたので、とにかく音が思ったように当たらないのだ。こう吹きたいという意思はあるのだが、それ以前に音が当たらないのでどうにもこうにも吹けないのだ。やばい、まじやばい。どうしよう。

アウェイの練習part3

今日もアンサンブルの練習でアウェイ。12人中7人の出席では曲として不明な個所が結構出てくるんだけれども、なんとか通るようになっている点は救いかも。個人的には曲の理解が進んで演奏しやすくなったかな。大きくA-B-C-B-A形式だということさえわかってしまえばつかみどころのない曲ではない。あと独特のベルトーンもどきさえしっかり認識していけばテンポもなんとかとれる。この曲を難しくしているのは実は付点のリズム(付点8分+16分、場合によっては付点4分+8分も)がルーズになってしまうととたんに拍が不明になる点だね。

音楽の楽しみ

四分音符と言う言葉を知らなくても楽譜上に四分音符が書かれていればそれがどういう役目を果たしているのか、どういう演奏を指示しているのかさえ知っていれば演奏には大きな問題にならない。楽譜上の決まりってそういうことだよね?楽語ももちろんそこに含むものとして。そこは基本として、じゃぁ楽譜に書かれていないことをどう読み取るかっていうのは解釈の問題だよね。文章で言うところの行間を読む力ってやつ。こうなってくるとその曲が作られた時代性や作曲者の個性や認識を知らないとならない。音楽の本質的な楽しみっていうのはそういうものを読み取ったうえで、だから自分はこう表現するってところにあるとラフは思っているのだ。そういう表現の手札をいろいろ準備して演奏に備えるってのが練習ってもんじゃないのかな。

ちなみに僕は練習って嫌いだけれどもね。

「断章」

曲の種類をタイトルにしている(「交響曲」とか「前奏曲」とか)のだと思われるが「断章」と名乗る曲がある。吹奏楽で有名なところではネリベルの「交響的断章」。「断章」なんてかっこいい日本語訳が付いているが英語では「fragment」であり、つまるところは「断片」なのである。「断片」と言うからには曲としては未完成ということなのか?曲の一部分だけの未完成のものがそれとして完成とされている。そういうものが曲として立派に成立して演奏されているのだ。

文学や美術においてそういうものがあるか?「未完の遺作」や「作りかけ」で放り出されたもの、「習作」といったものはあろう。だが最初から未完成にして完成と名乗るものがあろうか。「ミロのヴィーナス像」みたいなものもあるけれども、あれはあれで一度完成されたものの何らかの事故や事情で一部が欠けたものだよね?最初から腕がなかったわけではないよね?あ、新約聖書の「黙示録」なんか幻想文学の一種だと思うけれどもあれが「断章」みたいなものか?

「交響的断章」なんて言われると厳めしいけれども、なんのことはない「symphonic fragment」だよ。

S吹奏楽団リハ

S吹奏楽団リハ。本日はトロンボーン4名全員そろった。当然スイートメモリーズの練習。イントロのアンサンブルがまだまだ決まらないので合宿では特訓部屋行きですかね。ロリの歌は個人的にはなんとかなってきたかな。テンポが速くなってきたらブレスのタイミングをはかればなんとかなりそうな予感。

アウェイでチャック全開でチューリングマシンの日曜日

昨晩早く寝たもんだから、朝4時には目が覚めていた日曜日。

午前中アウェイでアンサンブルリハ2回目。前回よりも大分曲の見通しが良くなった。なんとかなる気がする。練習後にトイレに行ったら社会の窓がずっと全開だったことに気付く。オーマイガー!気付いたけれども指摘しなかった皆さん、優しさをありがとう。

午後は雨降ってきたので家で映画「イミテーション・ゲーム」を鑑賞。ITを生業としているものとしてアラン・チューリングを知らないわけにはいかないよね。今日のコンピュータの原型を作った人ね。ま、彼が同性愛者だというのはよく知られていることで、映画でもそのことが描かれているけれども、多分に脚色演出されている。別にそのことを悪いとは思わないよ。エンターテイメントとしてきちんと成立させた脚本は見事!

「魔女の宅急便」と「動物詩集」

ジブリのどの作品が好きかと問われればラフは「魔女の宅急便」だ。
話は変わって、合唱をやっている人にとって白石かずこ作詞、三善晃作曲の「動物詩集」は有名作品。

「魔女の宅急便」の人語を話す黒い小猫の名前は「ジジ」。一方白石かずこの「動物詩集」に登場する「ジジ」は人間の女性に恋をするゴリラの名前である。じゃ「動物詩集」に登場する黒くてすばしこい小猫の名前はというとこれは「ピッチ」という。「魔女の宅急便」に登場する「ピッチ」は、鳥かごに入ったネコのぬいぐるみを届けた家のカナリアの名前。

ジジ ピッチ
魔女の宅急便 黒い小ネコ カナリア
動物詩集 ゴリラ 黒い小ネコ

ちなみに三善晃といえばアニメ「赤毛のアン」の主題歌とエンディングの作曲者でもあるよ。

「おんぷれ」とは

仕事では「おんぷれ」といえば「オンプレミス」(情報システムの自社運用、クラウドの対立概念)のことであるが、S吹奏楽団では次回の演奏会で演奏する「音楽祭のプレリュード」のことである。どちらの意味でも最近よく耳にする言葉なので時々一瞬混乱する。

ツェルニー練習曲集

ベートーヴェンの弟子にツェルにーという人がいました。ピアノ弾きにはおなじみですよね?しかもどちらかというと嫌な方面で。膨大な数の単調な練習曲を量産した作曲家で、ピアノ弾きは「30の練習曲」「40の練習曲」「50の練習曲」「60の練習曲」と進めていく練習曲。彼の練習曲は前述のみだけでなく、とにかく大量の練習曲が残っています。練習曲以外の作品も少ないながらあるんですが、いかんせんあまり楽しいものではない。ツェルニーの練習曲って楽譜を見ただけでもううんざりするような曲が多く、だいたいつまらないということになってます。ところが後期の練習曲になってくるとロマン派に入ってくるので妙に情緒的な和声進行だったり華麗だったりする練習曲も出てきて、弾けるとめちゃくちゃ楽しいものがある(内容はあいかわらずたいしたことないですが)。興味のある方は「60の練習曲」あたりを聞いてみる、あるいは弾いてみてください。演奏会に出しても十分通じるような魅力的な曲があることにびっくりするかもしれません。あたかもリストのような、というか、そもそもリストはツェルニーの弟子だったな。

ツェルニー練習曲をやっていて絶対これは無理だと思うのがメトロノームのテンポ指定。とにかくめちゃくちゃ速い。指定どおりに弾くのはもはや練習曲の域も超えてしまっている至難の技。もし弾けたとしても曲芸レベルである。ツェルニーのテンポ指定が今のメトロノームとは違うもので記述されたのかと思うくらいだ。しかし、今日使われているメトロノーム(いわゆる1分間あたりの刻み数を基準とするメルツェルのメトロノーム)はベートーヴェンの時代に登場し、彼によって音楽のテンポ指定として使われるようになったものである。弟子であるツェルニーも当然メルツェルのメトロノームのはずだ。自分のピアノの師匠はそういうわけで、レッスンにおいてツェルニー練習曲に関しては指定されたテンポの2/3で弾ければテンポに関してはとりあえずOKという具合だった。

とりあえず、今日覚えてみてもいい知識は、古典派からロマン派にかけて

ベートーェン – ツェルニー – リスト

という系譜があるということかな。

ロマン派の音楽はいつから始まったのか?
古典派とロマン派の境界はどこかということだけれども、そもそもが音楽を歴史的作風で分類するのにはっきりとした境目があるわけではなく恣意的なものですよね。もし、古典派とロマン派の境にかかわる話をする場合は、どう定義したかを話者同士が了解しなければなりません。というわけで、上記記事にリンクをはっておきますが、ラフは特に断らない限り、この記事中の(B)を基準とする、つまりベートーヴェン後期からロマン派へ移行が大きな流れとなったと考えています。

stringendo を無視するな

S吹奏楽団の初見大会とかでも思うのだが、多くの人がなぜか無視する音楽用語の一つが、 stringendo だと思う。 stringendo と書いてあったらテンポが上がっていくもんだろうがと俺は常々思っているのであるが、テンポが上がる楽語だと知らない人が多いようだ。というか、はっきりと書いてあっても知らないからか気にもしていないようなのだ。 ritardando とか allargando がテンポゆっくりになっていくのと反対に、 accelerand がテンポ早めていく語であるが、 stringendo もテンポ上がっていくんだよと強く主張しておきたい。無視してはダメだよ。

吹奏楽の世界では、もはや定番であり多くの人に支持されている酒井格の人気デビュー曲「The seventh night of July」(通称「たなばた」)、この曲の最後にもはっきりと stringendo が指示されている。にも関わらずテンポが変わらずに終わってしまう演奏をあまた聴いてきた。自分はこの曲の最後に指示された stringendo に、いきいそぐ青春の生き様、青春のほとばしり、駆け抜ける青春の思い出を感じたいのであるが(そうあればこそ酒井格が高校生のときに書いた作品ゆえのみずみずしさだと思う)、それを最後までインテンポ(変わらないテンポ)で演奏された日にゃ、「お前ら(演奏団体様)の青春は、そんなにのほほんとした緩みきったパンツのゴムのような世界で終わってよかったのかよ」と突っ込まずにいられない。テンポを上げて終わる、こういうところにこそ、たなばたの魅力があると俺は信じているのだ。そういうことに思いをはせてこその音楽じゃないのか?と。