google先生とかwikipediaとか

IT業界の片隅に身を置いているわけではありますが、「ググる」という表現は使わない。聞けば分かるけれども、自分からは使わない。「google先生にきいてみる」とは言う。google先生は広く浅く、ときには間違っていて偏った情報も引っかかけてくるけれども、それを前提に手っ取り早く情報を俯瞰する場合にはお手軽。google先生はいろんなことを知っているけれども、紹介してくれる情報が常に正しいとは限らない先生なのだよ。

wikipediaも同じく。先日、公の発表である言葉の定義を「wikipediaによると」というものを見かけたが、それはその人の知の基準がそこにあるということを露呈しているわけで、恥ずかしくないのかなぁと思った。とりあえず手っ取り早くにはいいけれども、正確かどうかは疑ってかからなければならないものだと言うことを知らんのかね?自分もwikipediaへのリンクをしているけれども、それはとりあえず楽しめればいいと言う場合にのみリンクしているわけで、ちゃんとした発表を求められた場合に「wikipediaによると」とはとても言えない。

ピアノの奏法

ピアノ曲に「左手のための~」というものがいくつかあるが、別に両手で弾いても構わないと思っている。左手だけでも弾けますよ、左手だけのピアニストを想定して書きましたよっていうことだけであって、その曲のあるべき表現として両手で弾いたほうがいいと判断できるなら両手で弾いてもいいじゃない。左手だけで演奏したときの物理的制約や効果を期待されていて、それを表現するのに適した方法が左手のみでの演奏であるならば左手のみで奏すればいいんじゃないの?どのように演奏しようともその曲にふさわしい適切な表現ができるのであれば、その奏法によって曲の価値を減じてしまうとは俺は思わない。

もし、その曲が要求している表現をもっとも適した形で奏すことができると判断したのなら、ピアノは別に足で弾いたっていいのである、口に鉛筆をくわえてそれで鍵盤を押してもいいのである。

ただ、内部奏法は微妙だなぁ。ピアノの内部奏法とは、指なり道具なりでピアノの弦を直接触って音を出すって言う奏法なんだけれども、これは楽器そのものを傷めそうで、あんまりやりたくない。現にコンクールなんかの選曲基準やホール規約に「内部奏法は禁止」と明記されていることあるしね。

「ルートビア」ってビールじゃないんだね

さる海外テレビドラマのキャラクタが「ルートビアフロート」というものを好む設定だったのだが、「ルートビア」というものをラフは知らなかった。なので「ルートビアフロート」と発言するたびに、最近巷で流行っているクラフトビール(なんだったらプレミアムモルツでもいい)みたいなものにアイスクリームを浮かべたものが頭の中に浮かんでいたのだ。ビールにアイスを浮かべた奇怪なものが果たしておいしいのかどうか非常に疑問で、そんなものを好物にすることこそがキャラなのだと思っていた。知らないと言うことはそういうことなんだね。そして知らないで勝手に思い込んでいるもので勝手に変なキャラを自分の中に作っていたのだよ。

ソビエトロシアでは関数が人を使う

事務スタッフとして「EXCELが使える」と言ってもいいレベルは「まぁVLOOKUPが使えればいいでしょう」ってところだそうだ。確かにVLOOKUP便利だけれども、元の表で一番左側に検索条件となるカラムを持ってくるっていうのと、その基準カラムから何番目という指定方法が自分には気持ち悪くて仕方がない。だいたい、VLOOKUPを使えるように元の表を設計したりメンテするっていうのが本末転倒じゃないのかと思うんだよね。

で、同じようなことを主張する人がやっぱりいるもの。

【Excel Tips】 もう二度と使うな!VLOOKUP撲滅キャンペーン

「ソビエトロシアでは関数が人を使う」っていう表現がうまいなぁ。今の若い人にとっては「ソ連」なんて歴史でならうことなんだろうけれども、この表現がなぜおもしろいのかを解説しないと分からないんだとしたら、それはオチを解説しなきゃならないお笑いみたいなもんだよな。

というわけで、INDEXとMATCHを組み合わせて使おう。慣れてしまえばそんな難しいものではないし、何よりもVLOOKUPを使うための制限から開放されると言うのは大きな利点だと思う。

ネリベリアン

お手伝いに行っているT吹奏楽団のアンサンブル発表会本番でした。本格的な演奏に取り組む団体から笑いをとりにいく団体まで、楽しいイベントでした。自分はネリベル作曲の金管12重奏に出演させていただきました(チーム名が「ネリベリアン」だ!)。この曲にチャレンジするのも、アンサンブルをするのもとても勉強になりました。でも何よりも勉強になったのは、打ち上げでTさんから「基礎練習とはどういうものか?」という話をじっくりと聞けたことなのかもしれないな。

かつて所属していた団体の演奏会に行ってきた

かつて所属していた吹奏楽団Q団の定期演奏会に行ってきた。演奏も演出もなかなかいい感じ。今日の演奏会を聞きに来られなかった人はちょっとした損をしたかもよって思うくらい。っていうか、むしろこんなステキな演奏会に出られない自分が一番損していたかも。かつて一緒に演奏していた懐かしい面子ががんばっている姿を目にできて、とてもいい演奏会でした。また一緒に演奏できるといいなぁと感じました。

コーヒーの色と尿の色

たとえばコーヒーを飲むじゃない。でも、尿はコーヒーの色そのものにはならないよね。じゃ、尿になるに際してコーヒーの色はどこにいったのか気にならない?俺は気になるなぁ。通常の一般人が手軽に用意できる装置や道具の類では液体の色を除くのって難しいよね?人体のろ過装置の不思議。

米原万里を再読中その2

■「パンツの面目ふんどしの沽券」
パンツやふんどしをはじめとする下着にまつわるエッセイ集。たかが下着にいかに人はこだわってきたかを楽しめる読み物としてまとめてある。学術書ではないので深みはまったくないけれども、雑多な文献の引用とそれにまつわる米原氏の軽妙なコメントで文化人類学入門としてはおもしろく読める。
次の二点が重要
・性器は恥ずかしいから隠すのではなく、隠すようになったから恥ずかしいと言う感情が生まれた
・騎馬民族は馬に乗りやすい衣装としてズボンを発明したのではなく、ズボンというものをはくようになったから、騎馬という行動が生まれた
さきにパンツありき。

センスがないことに驚く

いや、何、自分のことなんだけれどもさ。本日S吹奏楽団リハ。もっとシャレた演奏ができればいいのに、なんか力入りすぎてる。基本的に自分は音がでかいようだ。周りと音をブレンドさせる感じがうまくつかめない。

米原万里を再読中

去年は米原万里没後10年でフェアをしていたんだけれども、著作が電子化されていたので、再読。ほぼ完全に内容を覚えていなかったので、初見のように面白く再読できた。自分の記憶力のなさにもびっくり。とりあえずまずは3冊読んでみた。
■「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
冷戦中の「ソビエト学校」の同級生だった3人の友達を、ソ連崩壊後に探し尋ねる3つのエピソード。どの話も構成がうまくて見事。とりわけ、タイトルにもなっているアーニャのエピソードが深く考えさせられておもしろい。タイトルに含まれる「真っ赤」はドップリ浸かった「共産主義思想」のことでもあり、建前でしか生きていけない、建前であることさえわからなくなってしまう人生に対する作者の思いの複雑さは考えさせられる。
■「魔女の1ダース─正義と常識に冷や水を浴びせる13章」
祖国、郷土、言語を愛するとはどういうことなのか。さまざまな立場の人と自己を相対化することによって見出すことのできる価値の重要性。「チン・ボコ」を連呼するエピソードや「ヤキマンコ通り」のエピソードが自分の中でずっと引っかかっていたんだけれども、この本で読んだのか。
■「不実な美女か貞淑な醜女か」
「通訳」とはどんなものかをこんなにおもしろくわかりやすく、しかも具体的な例を引いて表したものが他にあろうか。とりわけ失敗談はやっぱりおもしろい。最近やたらAIが騒がれているけれども、自動通訳(翻訳)はまだまだ当分無理だろうな。