博物館美術館で歩こう

特別健康志向というわけではないものの、とりあえず毎日スマホで歩数を記録している。スマホ「で」は嘘だな。スマホ「が」だ。自分自身では別に歩数を計測しようという明確な意思は持っていない。ただ外出時にスマホを持って出るとスマホが勝手に歩数を記録していてくれるのだ。

在宅勤務がメインになった昨今、一日の歩数はびっくりするほど少なくなってしまった。外出も自粛気味で週末もあまり歩いていなかった。ところが、今回久々の制限なしゴールデンウィークだったもんだから(情報が1週間近く遅い……)、上野の国立博物館にちょいと出かけてみたのだよ。そしたら半日館内をうろうろ鑑賞しただけで軽く一万歩超えてしまった。建物内をブラブラしただけでこんなに歩数が伸びるもんかね?といぶかしんでみたものの、帰ってきたら確かに足が疲れているわけで思った以上に歩いてんだねと。

とりとめのない散歩よりも、博物館とか美術館に行った方が意識づけなしでたくさん歩けてしまうので健康的なのかもしれない。ついでに知的好奇心も満たされるし。

読了:インド夜想曲(白水Uブックス)[アントーニョ・タブッキ/須賀敦子]

インド夜想曲

インド夜想曲

  • 作者:アントーニョ・タブッキ/須賀敦子
  • 出版社:白水社
  • 発売日: 1993年10月

失踪した友人を探してインド各地を旅する主人公の前に現れる幻想と瞑想に充ちた世界。ホテルとは名ばかりのスラム街の宿。すえた汗の匂いで息のつまりそうな夜の病院。不妊の女たちにあがめられた巨根の老人。夜中のバス停留所で出会う、うつくしい目の少年。インドの深層をなす事物や人物にふれる内面の旅行記とも言うべき、このミステリー仕立ての小説は読者をインドの夜の帳の中に誘い込む。イタリア文学の鬼才が描く十二の夜の物語。

「インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です。」

不眠の物語でありかつ旅行の物語。失踪した友人を探しにインドにやって来たイタリア人の「僕」が体験した、におい立つ夜のインドで出会う人々との交流が幻想的に描かれる。これがとても美しいのだ。具体的な場面描写というよりも、そこに漂う雰囲気、ひいては文体の美しさというか。そういう点では日本語訳も優れているんだと思う。最後2つの夜でこの小説がメタ小説の一種であることがわかるものの、枠外と枠内の物語も混沌として交じり合う様がこれまたインドの夜にふさわしい。「訳者あとがき」にあるように、とにかく「だまされたと思って、読んでよ。」

メモ:「ナイチンゲール」の和名は「小夜啼鳥」

インド夜想曲(白水Uブックス)[アントーニョ・タブッキ/須賀敦子]