逆じゃない

 前にも書いたけれども、「逆に言うと」が口癖の人は、その後に続くのはたいてい「逆」ではないことを言っている。単に「言い方を変えると」である。そのたびに「逆じゃないだろ」と突っ込みたい衝動に駆られるラフである。

民主主義は多数決?

 「民主主義は多数決なんだから決まったことには従え」というのは乱暴だと思う。確かに決定は多数決によるのが原則ではあるけれども、多数決の前に「少数派になるであろうグループの意見や考え方、価値観をも念頭に置いて議論を尽くしコンセンサスを形成する」というプロセスが絶対的に必要だとラフは信じているのである(もちろんこれには何をもってコンセンサスが形成されたと判断するかという基準の設定が必要であることは承知している)。そうでないものを民主主義とは言わないだろう。「民主主義=多数決」っていう短絡的思考を見ると、大事な部分をすっとばしているけれどもこの人は大丈夫?とラフは心配してしまうのだ。

例外

例外といってもヌルポ(NullPointerException)とかの例外じゃないよ。

指示に例外が増えるとわかりにくくなる。ものすごく簡単な例にすると
・奇数の自然数を挙げてください
と言えばいいところを
・自然数を挙げてください。ただし、偶数は除いてください。
のような感じ。引っ掛けクイズじゃあるまいしイライラする。これが仕事だと言うまでもない。

例外は作れば作るほど考慮すべき点として覚えておかなければならなくなる(紙に書き出しておいたとしても)。例外はミスが増え効率を落とす原因でもある。

僕はやっぱり英語ができない – 化学植物

 chemical plant? what? 「化学植物」ってなんだとか思ったりしてしまうくらい英語が苦手なわたくし(ラフは生物学専攻でした)。訳語「化学工場」を見て、あぁそういえば、plantって工場だったなと思い出す。しかししばらくしてから同じ文章を再度読み返すと、やっぱり、chemical plant? what? 「化学植物」ってなんだとかまたしても思ったりしてしまう。学習能力がないなぁ。

(冠詞はどうしたとか、chemical plantsならともかくという突っ込みは却下。冠詞だとか複数形だとかそこまで思い至るほどまだ英語に慣れていないのだよ。文脈無視だけれども tropical plants と同じカテゴリーの語と思っても仕方ないでしょ。え?自分だけ?)

誰でもわかる

 ラフは「常識」という言葉をあまり使いたくない。使っている人の話を聞くに、その人の育ってきた環境にとっての「当たり前」を「常識」と言っていることがほとんど。多様性がどうのこうのとか言われている昨今ではなおさら「当たり前」は人によって違う。全人類の「共通認識」ではないのだ。ネットの書き込み(論とは判断できない程度のもの)によく「それくらい常識」とか「常識以前の問題」などと書いてあるのを見ると、「あぁ、この人は自分の思い込みで書き込んでいるだけなんだなぁ」と判断してだいたい外れない。そもそも「常識」と、ことさらに書かなければならない状況ということ自体が「常識」が「共通認識」ではないということで、自分の発した「常識」と思っているものを疑ってかからなければならないことに気付きたい。

同じような書き方として「小学生でもわかる」「中学生でもわかる」という表現がある。これも大体が「誰でもわかる」の相手を見下した表現として使われることが多い。義務教育を受けていれば分かるだろう、つまり普通の最低限の義務教育(普通って何だ?というのはとりあえずおいておく)さえ受けていれば分かるだろうというものだ。その証拠に「高校生でも分かる」「大学生でも分かる」という表現はこの手のネットの書き込みではほぼ見かけることがない。本当に「小学生ならわかるのか?」「中学生ならわかるのか?」ということを冷静に考えてみると、「わからない人もいるよなぁ」と思うことも多々あり、上であげた「常識」と同じ感覚で使われていることが多いのだ。

ザオラルメール

 今日もまた、新しい言葉を知ったよ。世の中には「ザオラルメール」なんて言葉があるんだね。まったく知らなんだよ。「ずっと連絡していなかった人に連絡を取ってみるメール(というかLINEメッセージ)」とのこと。目的は、そのメッセージをきっかけにかつての交流または交際を復活させることだそうな。ドラクエに出てくる復活の呪文が語源らしい。この呪文が必ず復活するものではないことから、交流又は交際が必ず復活するとは限らないのも言いえて妙。

ザオラルメール – Google 検索

分子進化の中立説

 ラフが専攻していた分野は「分子遺伝学」なのである。そういう影響もあって、自分の進化論の考え方の核としているものは、木村資生先生の提唱した「分子進化の中立説」である。中立説はダーウィンの進化論(いわゆる自然選択説)を否定する理論かのように書かれているサイトなんかもあるけれども、自分の理解では対立する考え方ではない。

wikipediaの「中立進化説」の項

AI幻想

 Amazonのドラマ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」で、日本のIT企業が主催するクラシックコンサートでAIロボットが登場する。このAIロボットはモーツァルトの全ての曲をインプットされており、モーツァルトのごとく発想できるという設定。コンサートでは、2つの演目が用意されており、1つ目はこのロボットが「フィガロの結婚」序曲の指揮を振り(オーケストラメンバーは人間)、2つ目はモーツァルトが途中で死んでしまったために未完となった「レクイエム」の続きをこのAIロボットが作曲したのでそれを初演する(指揮は主人公であるプロの指揮者)。で、モーツァルトを敬愛する主人公の指揮者はこのAIロボットに反発するわけだが……。

 主人公は「そんなにAI化したいのなら聴衆もAIにすればいい」なんてことも言っており、これにはとても共感した。芸術においては提供(サービス)する側=作者(奏者)という関係を想定するから、AIは作家の代わりということを真っ先に思い浮かべがちだけれども、受け手がAIだっていいわけだよ。AIが人間のように考えるのであれば、人間のように感じることもAIの目指す目標ととらえることも可能であり、そうであるなら聴衆のAI化を考えたっていいわけだよ。AI聴衆?アマチュア作曲家、アマチュア指揮者、アマチュア演奏家の中には、人間のように感じてくれて評価してくれるならそういう存在を欲する人もいるんじゃないかとか思ったり思わなかったり。案外需要があったりしてね(ラフはそういうのいやだけれども)。

音楽と言葉と

 秋の地域の音楽イベントに出演およびお手伝いをしてきました。およそ20近い団体が出演したのだけれども、ほとんどは小学校の団体。去年もこのイベントの感想を書いた。小学生の多くが技術的に上手くないのは仕方ないけれども、それでもいいと思ってしまう、気にならなくなってしまうという状態になるんだとしたら、それは音楽ではないと思うのだ。みんなで何かをなしとげる喜びと音楽の楽しさってのは別ものだ。科目としての「音楽」(いわゆる指導要領に基づく学校の音楽教育)でよしとされる演奏と、音楽で求められる演奏は違う。教育イベントで良しとされるレベルにとどまるか、教育レベルで良しとされるかもしれないがもっとよいものを届けたいという心意気まで持てるか。小学生にそこまで求めるのは酷か?でも単なる情操教育レベルでとどまってしまっては音楽の楽しさすばらしさに気付けないんじゃないかなぁ。もったいないって思ってしまう。

ある合唱の団体が「Believe」を歌っていたけれども、Sくんはこの曲がすごく好きらしい。その思いを熱烈に語ってくれた。この曲、好きな人にしばしば出会うのだが、ラフはこの曲が好きではない。なんだか気持ちの落ち着きどころがないふわふわした気持ち悪さを感じるのだ。メロディー(歌詞を除いた部分)もそんなに魅力を感じない(ありふれた陳腐な駄曲にしか思えない)し、歌詞だって素人が書いたような上っ面を撫でただけの軽さ。よく考えたら何を言っているのかわからない抽象的、雰囲気重視な言葉を並べただけな、詩にたいする責任をまったく感じられないもの。それに対して「Believe」とかタイトルを付けちゃうセンスってすごいなぁ。「Believe」って単語をラフは「(無条件に、有無を言わさず)信じる」というか「信じさせられる」とかいう非常にきつい言葉と感じているのだ。「宗教」とか「神」とかに対する。そこには盲目的に信じてしまうような覚悟、一神教に立脚する「疑うことは許されない」ような印象を受ける言葉なんだよね。「I believe you.」だったら「(何があっても、君が間違っていようとも)僕は君の味方だよ」ってくらいの覚悟の表明だと思うんだよ。こんな雰囲気だけ並べ立てた言葉の羅列を、弛緩したのほほんとしたメロディーにのせた曲のタイトルにこんな言葉を付けてしまう。この曲にはこそばゆいすわりの悪さ、あまりにもものを考えていないこっぱずかしさを感じてしまうのだ。これはラフだけなのか?ラフの感じ方がおかしいのか?好きな人には申し訳ないけれども、気持ち悪い曲だ。

ヴィブラスラップは登録商標

 通称「与作」と呼ばれる楽器がある。北島三郎の「与作」で印象的に使われた楽器で「カーーーッ」と鳴る楽器だ。楽器の正式名称は「キハーダ」という。動物のあごの骨を使ったラテンパーカッションの1つだ。さてこれには代替楽器があって「ヴィブラスラップ」という。ハンバーグ師匠が携帯しているあの鳴り物である。実際の演奏場面で「キハーダ」と指定されていても、たいていの場合は「ヴィブラスラップ」を使う。作曲者による楽器指定も「ヴィブラスラップ」と書かれていることが多い。ただしこの「ヴィブラスラップ」という楽器名、実はPL社の登録商標で一般名称ではないのである。ヤマハの「エレクトーン」と同じようなものだ。