稀によく見る

あるIT技術者がブログに「稀によく見る」と書いていた。「まれなのかよくなのかどっちだよ」と思うかもしれないが、これは意図されて書かれている。この著者は「稀によく見る」という一見矛盾をはらんだ表現をわざわざ選択していることがわかるからだ。言いたいことはこうだ。

「(まぁしょっちゅうあっては困るから、見かけるにしても)稀に(見かける程度のことであって欲しいのに、なぜか)よく見る(。まったく困ったもんだ)」

おそらくIT技術者ならだいたいの人がこうとらえるはずだ(最後の「困ったもんだ」まで含むところがポイント)。業界的には共感を呼ぶ「わかりみMAX」(<今どきの言葉を使ってみた)表現。

読了:ウンベルト・エーコの世界文明講義[ウンベルト・エーコ/和田 忠彦]

知の巨人が読み解く文明の謎。カラー図版130点以上!!!現代人は古代・中世・近代より進歩しているのか。見えないもの、聖なるもの、美と醜、絶対と相対、パラドックス、嘘、秘密、陰謀論…。ベストセラー『薔薇の名前』の著者最後の贈り物。

 小説「薔薇の名前」の作者ウンベルト・エーコが、10数年にわたって行った講演録。邦題は「世界文明」と題しているが、基本的にはいわゆる西洋の話題(2例ほど東洋の話も出てくるが、そのうちの一つは谷崎潤一郎)。

目次(扱っているテーマ)は次の通り

  • 巨人の肩に乗って
  • 美しさ
  • 醜さ
  • 絶対と相対
  • 炎は美しい
  • 見えないもの
  • パラドックスとアフォリズム
  • 間違いを言うこと、嘘をつくこと、偽造すること
  • 芸術における不完全のかたちについて
  • 秘密についてのいくらかの啓示
  • 陰謀
  • 聖なるものの表象

 小説家であると同時に記号論学者でもあるので、抽象的なテーマでもそこに具体的な事例を結び付けて、豊富な例とともに紹介してくれる。テーマは美学芸術文学哲学の歴史を踏まえたものだが、講義中に出てくる例は映画やエンターテイメント小説にまでおよび、飽きることがない。話に関連する絵画や彫刻の写真がふんだんに盛り込まれ(実際の講義ではスライドで映し出されたのだろうか?)、言葉だけではわかりにくい説明も可視化されて非常に興味深い。

 こういう知的で丁寧な論の運びに触れることができるととても安心する。

ウンベルト・エーコの世界文明講義[ウンベルト・エーコ/和田 忠彦]
ウンベルト・エーコの世界文明講義(ウンベルト・エーコの世界文明講義)[ウンベルト・エーコ/和田忠彦]【電子書籍】

参考
wikipediaの「薔薇の名前」の項

判断しかねない

今日はウェブ上で、あるライターが次のように書いているのを見た。

「A社の経営戦略がセーフなのかアウトなのかは私には判断しかねない。」

この文末を読んで「ん?どういうことだ?文意を取り損ねたか?」と感じなかった?文意からは「判断しかねる」(「判断できない」の意)と表記すべきところだと思うのだ。でも「判断しかねない」と書いてあるから「判断してしまう」という意味だよな、だとするとこれでは意味が不明になってしまう。著者はライターを名乗っていらっしゃるのでおそらくこういう初歩の間違いをなされることはないと信じたい、たまたま間違えただけと。メディアに載せる際に誰かチェックしてあげなかったのかなぁ。

「しかねる」の意味や使い方 Weblio辞書

閑話休題

さるネット記事を読んでいて、愕然とした。記事の本題に入る前に「その前に閑話休題。」と書かれているのだ。そして雑談が始まる。ちょっと待て「閑話休題」は「それはさておき本題に戻ると」という意味だよ。「雑談はここまでにして」という時に使うわけで、「ちょっとこれから雑談しますね」では断じてない。匿名素人ブログとかで見たのであれば、「あぁこの人は間違って覚えちゃってるんだね」と読み流すんだけれども、いかんせんジャーナリスト(その他に翻訳などの言葉に関する仕事もするプロフェッショナル)を自称するライターと思しき人の記事だったのだよ。こういう知性を疑われるような間違いをするとライターとしての信用にかかわるのではないのかね?本人が間違えて覚えているんだろうけれども、知的に見せようとして墓穴を掘った感じ。間違った使い方をするくらいなら、こんな日常では使わない言葉をあえて用いることないのに。まぁ本人は間違っていると思っていないから堂々と使ったんだろうな。せめて公になる前に関係者の誰かがチェックしてあげなよ。言葉のプロともあろう人が、こうも堂々と使うとむしろあっぱれな気もしてくるけどさ。

22.時折間違えて使われる「閑話休題」 – 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) – カクヨム

上記記事中にあるように、多くの日本人が意味を間違えている言葉だそうな。というか、そんな言葉があることさえ知らない人が多いらしい。というくらい日常で使われる言葉ではないだけに、誤った用法が市民権を得るのは当分なかろうと思われる。

「~してあげる」

本日受講のセミナーにて、システムの操作説明をする講師が、「~してあげてください」「~してあげると」を連発。身の毛がよだつほど気持ち悪いことこの上なかった。

例:「このボタンをクリックしてあげてください」

なんにでも「~してあげる」というのは、いい大人が使う言葉ではないと思うのだが、それは俺が古い人間だからなのか?

「~してあげる」? | ことば(放送用語) – 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究所
「~してあげる」という言い方にイラっとくる私の心はやはり狭いのか | わるくないすよ
第33回「~してあげる」はだれからだれへ? | web日本語

ラフの感覚を述べると、まず単純な動詞としての「やる」と「あげる」の違いについては、「あげる」というのは人以外や物に対しては使わない。「花に水をやる」だし「犬に餌をやる」だ。小さな子どもに話すときに「花に水をあげる」とか「犬にえさをあげる」という対象を擬人化した場合の表現はまぁ許容範囲ではあるが、大人が大人に話す場合には「花に水をあげる」とは言わない。大人に「あげる」を使うと、相手を子ども扱いしている感じがする。

動作に付して丁寧な表現とするような「~してあげる」は、まだ世間的に認められた使い方とは思えない。「~してあげる」という表現は、人に対して使うと、上から目線と感じる人も多いようだ。「わざわざ、あなたのために」という言外の意味が加わる感じがあるからなのであろう。おそらくは、相手を下に見ている、つまり子ども扱いしているからなのではなかろうかと推測される。「~してあげる」に遭遇すると、丁寧というより過剰すぎて慇懃無礼な印象だし、また話者が自身の無知をさらしているようにも思え(知性を疑う)、聞いているこっちのほうが身もだえしたくなるほどにこっぱずかしくなる。赤ちゃん言葉で話しかけられている気がして、相当恥ずかしいのだ。すくなくともビジネスの場では「~してあげる」は使わないほうが良い表現だろう。

おそらく「~してあげる」という言葉を使う人は、自身は丁寧な言葉遣いをしているだけで、奇妙に感じる人がいるとはつゆとも思っていないのであろうなぁ。

the summer solstice

 今日は夏至。北半球では一年で一番太陽が高いところを通る日(昼が長くなる)。昼間が長いと性欲が強くなるという説があり、夏至の日は北半球で人間の性欲が一番強くなる日になるのか。そうすると十月十日たった3月あたりの誕生日の人が多くなるはずなのだけれども、寡聞にして存じません。まぁ俗説でしょうね。

出産数(出生数)が多い月と少ない月は何月か・月別の出生率

 さて夏だ。「夏は来(き)ぬ」というよく知られた唱歌がある(といっても若い人たちは知らないかも)。歌の冒頭に「卯の花」とあるように卯月(陰暦の四月、現在の五月ころ)の歌だが、陰暦だと四月五月六月が夏なので、陰暦四月に「夏が来たよ!」ってよろこびを歌っている。夏至だと夏の盛りだから、今日この歌を取り上げるのはちょっと遅いか。

wikipediaの「夏は来ぬ」の項

 「夏が来たよ!」っていう歌なんだけれども、歌詞が(文語調)なので最後の「ぬ」を否定の意味にとってしまい「夏が来ない」と勘違いしてしまう人もいるだろう。上記wikipediaでも解説されているように、「来(き)ぬ」の部分を品詞分解(高校古典でやったよね)すると、カ行変格活用動詞「来(く)」の連用形に、完了の助動詞「ぬ」の終止形なので現代語だと意味が「来た」なのだ。

 ちなみにプラスアルファとして押さえておくならば、カ行変格活用動詞は「来(く)」の一語のみ(現代口語だと「来る」)。「来(く)」が連用形になっているのは、続く助動詞「ぬ」が連用形接続助動詞であるからで、また「夏は」の「は」は終止形を取る係助詞なので、最後の助動詞「ぬ」は終止形である。

 「来ぬ」を「来ない」という意味だと勘違いしてしまった人は、否定の助動詞「ず」の連体形の「ぬ」だと思ったからだろう。完了の助動詞「ぬ」の終止形と打消の助動詞「ず」の連体形はどちらも「ぬ」だがこの識別は試験(大学入試を含む)の定番。

 じゃ発展としてここからは試験には出ない古語作文。まず間違えてしまった人向けに打消の助動詞「ず」を使った「夏」が来るか来ないか問題は文語ではどうなるか。否定の助動詞「ず」は未然形接続助動詞なのでカ行変格活用動詞「来」の読みは「こ」になる。否定の助動詞「ず」が「ぬ」になるのは連体形なので、これで終わるならば係り結びの法則で連体形終止をとる係助詞があるはず。連体形終止をとる係助詞は強調の「ぞ」「なむ」に、疑問・反語の「や」「か」。

「夏来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏なむ来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

であろうか。

 ちなみに、元に戻って完了の助動詞「ぬ」を係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」と使うなら助動詞「ぬ」の連体形は「ぬる」。

「夏来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏なむ来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

 もっともそういう風に文法で決まっているからこういう解釈や意味だとするのは現代人のための手立てであって、本来的には「夏は来ぬ」で昔の人は文法なんて関係なく十分に意味が取れていたのだ。そういういろんな言い回しを系統だててまとめてみた後付けの体系が文法。

 参考までに強調の係助詞「こそ」を使う場合は已然形で結ぶので、完了の「ぬ」、打消の「ず」は次のようになる。

「夏こそ来(き)ぬれ」((まさに)夏が来た!)
「夏こそ来(こ)ね」((まさに)夏が来ない!)

本文中で「古文」「古典」「文語」、「現代文」「口語」という言葉を結構適当に使っているので、気が向いたら後で整理しよう。また文語作文の正確性は未検証。


「夏は来ぬ」をネットで機械英訳させてみた。

Google 翻訳

Summer will not come

「来ないよ」って未来の否定になっている。

Weblio 翻訳

I do not come in the summer

主語が自分になってる。「私は夏には来ない(行かない)」って感じか。

文脈なしの文語調日本語なので正確に訳せるとは思わないけれども、どちらにせよAI的にはやっぱり「来(こ)ぬ」と読んで、意味は「来(こ)ない」なんだなぁ。

「夏が来た」にして英訳させると

  • Summer came.
  • The summer is in.
  • Summer has come.

このあたり。唱歌のタイトルとしての「夏は来ぬ」だと3番目あたりがいいかな。

曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い

前回は「過剰(あるいは極端)な物言い」を挙げたが、今回は仕事の件で耳にした「曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い」をご賞味ください。


なんとなく洗い出した

「洗い出す」というきつめの縛りがある行為に対して、全くそぐわない「なんとなく」という語がかぶさっている気持ち悪さ。


(要件あるいは仕様を伝える際に)~と、ひそかに考えている

ということは、まだ決まりではないのか?しかもこの方は結構このフレーズを好んで使う(口癖だろう)。あなたの「ひそか」な心の内をそんなしょっちゅう明らかにしてよいのか?もはやそれは「ひそか」ではないのでは?あなたの「ひそか」にラフは興味はないのだが。


話は変わるが、タイトルにある「失笑」の意味を「笑いも出ないくらいあきれる」という意味で使う人が増えているらしい。「失笑」というのはおかしくて笑ってしまっているのだ。あきれているのではない。

国語に関する世論調査 | 文化庁

平成23年度の結果に「失笑する」に関する調査結果が載っている。

失笑する 例文:彼の行為を見て失笑した。
(ア)こらえ切れず吹き出して笑う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27.7%
(イ)笑いも出ないくらいあきれる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60.4%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2.7%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.1%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.2%

同じ「失」の使い方としては、「うっかり言ってしまう(口を滑らす)」の「失言」なんかがある。

過剰(あるいは極端)な物言い

ベスト

「これよりもこっちのほうがいいよね」っていうだけなのに「ベストなのは」とか「~な方がベストだよね」とか言う。ベストではなくベターだよ。


最悪の場合

「こういう場合はこういうことで困る(問題になる)」と言えばいいところを全部ひっくるめて「最悪の場合」と言ってしまう。仕事であればせめてもうちょっと分析してから具体的に言及しよう。


謳う

意味は「はっきりと示す、明文化してある」である。「謳う」は理想や願いなどに対して使うことが多いため、「敢えて書くことでポジティブに強調する」という感じがラフにはある。何でもかんでも「文章で書いておくこと」を「謳う」といわれると、大げさすぎておかしい。ここぞという時に使ってこそ効果のある言葉だろう。注意書き程度のことにまで「謳う」と言われたら、聞いているこっちが恥ずかしい。


警鐘を鳴らす

何らかの問題を提起する場合に、「警鐘を鳴らす」と表現する。これ自体は問題ではないが、何か問題を指摘するたびにしょっちゅう使っているのを見ると「警鐘鳴らしすぎ」である。ここまで鳴らされると、鐘を鳴らすのは「あなた」だけでよいと突っ込みたくなってしまう(小坂明子のほうではない)。

wikipediaの「あの鐘を鳴らすのはあなた」の項
wikipediaの「あなた (小坂明子の曲)」の項

「ゲーム・オブ・スローンズ」を観て、「神」と「神々」をおもう

 最近、流行りのドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を観はじめた。まぁまぁおもしろい。世界観的には中世ヨーロッパをモデルにしているようなのだが、中世ヨーロッパといえば「キリスト教(一神教)」の世界である。しかしこの劇中では基本的には多神教世界なのだ。劇中に「光の神」のみを崇める一神教が登場するのだが、こっちの方がかえって異教的に見える効果を生んでいる。

ゲーム・オブ・スローンズ|ワーナー・ブラザース
wikipediaの「ゲーム・オブ・スローンズ」の項

 ラフは基本的には無宗教者なのだが、それでも思想信条的には多神教というかアニミズム的なすべての自然に神々が宿るみたいなものを自分自身のバックグラウンドとして持っていることを認めるにやぶさかではない。もっとも誤解がないように言っておくと、だからといって自然のあらゆるものに実際になんらかの魂なるものが宿っているということを事実とすることには否定的である。

 さて単数形・複数形を厳密に区別しない日本語環境、多神教的なるバックグラウンドにいると、「神」と「神々」は単に単数形・複数形の違いだと思いがちである。一神教というものを誤解してしまいやすいのだ。「神」とは多くの「神々」を統合していっていろんな能力・機能が1つになったものでは?と思ってしまうのだ。神々が統合されたものが神なんでしょ?と。「神」とは根本的な唯一絶対の真理そのものである至高の「存在」なのである。日本語で「八百万の神」なんて言うように「神」といっても「神々」だという認識も平気でできてしまうが、単数形・複数形を持つ言語の人々にとって「神」と「神々」とをいい加減に使い分けることはありえない。ましてや一神教を信奉する人にとって「神々」となるとそれは異教(邪教)のことなのである。

遺憾

 「はなはだ遺憾」というのは「とっても残念」と感想を述べているだけだ。「遺憾の意を表する」も「残念に思っていることを表明する」ってだけ。「遺憾」は謝ってなどいないし、怒ってもいない。思うように事態が進まなかったことを「残念に思う」っていうことなので、皮肉っぽく非難する雰囲気はあるかもしれないが、大したことは言っていないのである。

 謝るならちゃんと謝ろう。