月の旅人

今年も縁あってT吹奏楽団の春の恒例行事アンサンブル大会に参加させてもらうことになりました。今年の参加は金管8重奏。お題は 高橋宏樹作曲「月の旅人」です。本日、初合わせに参加してきました。変拍子やベルトーンなどちょっと面倒くさいところもありますが、チームの合言葉は「気を確かに」。とりあえず本日はなんとか通すところまで。練習はあと2回。

病気名外来語は難しい

 海外に住むと困るのは病院らしい。症状を伝えるのも難しいらしいが、問診表も書くよりも前に何が問われているのかさえ分からないとか。

そういえば中学の英語の教科書に、盲腸で入院している友達を見舞うシチュエーションがあった。盲腸というか虫垂炎はappendicitis(アペンディサイティス)なのだが、中学英語にしてはかなり難易度の高い単語だよね。でもまぁ、中学生あたりが日常の当たり障りのない病気で入院するとなると、虫垂炎くらいが適当なのだろうな。ガンで入院とか重すぎるし(でもcancerは習ったような気がするのはなんでだろう)。ちなみにappendicitisとappendix(付録とか付記とかで本とか書類の最後についていることが多い)が同じ語源だということに気づいたのはつい最近。

コアなユーミンファンにとっては「ミエロジェーナスロイケミア」(Myelogenous Leukemia)というものは常識であろう(歌詞に出てくる)。ちなみにこれはドイツ語で骨髄性白血病。

今年もW吹奏楽団の手伝い

 去年はSちゃんにまかせたので飛ばしましたが、今年もW吹奏楽団の演奏会にお手伝いで乗ります。今日はその練習に行ってきました。トロンボーンは団員が2名いるんだけれども、中学1年生と中学2年生の女の子。この二人がとてもうまいのだ。強弱関係なくずっとフォルテで吹き続けるとか、楽譜の読みが甘くリズムが違っているとか、テンポがどんどん走るとか、若いゆえの勢いだけなところは否定できないけれども、とにかく物おじしないスタイル、ハイトーンもバリバリ鳴らす、音がとてもトロンボーン的とか、いいところもたくさんある。おじさんは3rdを吹いているけれども、君たちを支えるから一緒にがんばろうと素直に思ってしまったよ。

 おそらくメインの曲がちょっと難易度高め。おじさん若干苦労しています。2/2のテンポ早目の部分は楽譜がどんどん進んでしまうので、ついていくのが大変。しかも何か所か譜めくりが間に合わないところが判明している。どうしたものか。ついでに貴重な休み(10秒ほど)で自分のミュートを外すほかに、隣にいるチューバのミュート外し係にも任命された。おぉ大丈夫か俺。

M子とピアノリサイタル

 M子に誘われて、ピアノリサイタルを聴きに行ってきましたよ。ピアノの演奏会は久しぶりだ。ついでにM子に会うのも久しぶりだ。

 今回のピアニストの演奏を聴くのは実は2回目。ごくまっとうな解釈と演奏をする方なのでその点は安心(刺激が少ないと言われればそれもまた一理ではあるけれども)。技術的な難を言えば、フォルテの音にしなやかさがない点と細かいパッセージがクリアにならない点。演目の出来は前半が今一つだった。しかし後半のメイン曲はそれまでが別人かと思うくらい素晴らしい出来だった。驚いた。この演奏が聴けただけでも来たかいがあったというものだ。

 終演後にM子とビール飲みながら話をしたんだけれども、あいかわらず話が面白い。M子とはかれこれ20年近いつきあいになるなぁ。今度、ラフは彼氏を連れて、M子は夫(スペイン人)を連れて、4人で飲みたいねと話をして別れたよ。楽しい時間をありがとう。

ヘンデル

 高校生(場合によっては中学生かも)のとき「ハレルヤ」コーラス歌った?ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」の中の1曲。有名であることも重要なんだろうけれども、なぜ「ハレルヤ」コーラスが、似たような他の作曲家の他の作品よりもずっと高校生に歌われるのかというと、それはなによりも歌詞が英語だからではないかと思っているのだ。そりゃもちろんちょっとだけ古い英語ではあるけれども出てくる単語や文がなんかわかるような気がするというのは大きいかと。もっとも、歌詞の意味を知って歌っているかどうかは別問題だけれども。ドイツ語の歌詞とかだったらいくらローマ字読みに近いといえどもやっぱり高校生には手を出しにくいよね。

ヘンデルってどうもいまひとつな作曲家に思えて仕方がないんですよね。当時の流行に乗っかって宮廷受けする作品を作っただけ、キャッチーではあるけれどもオリジナリティに乏しい。芸術家というよりかは流行作曲家って感じ。そういう意味で当時を代表する作曲家ではあるとは思うけれども、ヘンデルでなければ書けなかったという作品はそんなに生み出していない気がする。個人的にはヘンデルの作品は聴きやすいがすぐ飽きるという印象が強い。

ベートーヴェンと明治維新

 日本に西洋音楽が入ってきたのは明治以後と考えてまず問題はないと思うんだけれども、今年(2018年)は明治維新から150年。ちなみに古典派の代表的作曲家であるベートーヴェンの没年は1827年なのでおよそ200年前の人。ベートーヴェンと明治維新って50年ほどしか違わないんだねぇ。ってことをボーっと考えてたラフ的明治維新感。歴史(音楽史においても)における近現代って範囲はどんどん長くなるばかりなのではないか?と思ったり思わなかったり。

AI幻想

 Amazonのドラマ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」で、日本のIT企業が主催するクラシックコンサートでAIロボットが登場する。このAIロボットはモーツァルトの全ての曲をインプットされており、モーツァルトのごとく発想できるという設定。コンサートでは、2つの演目が用意されており、1つ目はこのロボットが「フィガロの結婚」序曲の指揮を振り(オーケストラメンバーは人間)、2つ目はモーツァルトが途中で死んでしまったために未完となった「レクイエム」の続きをこのAIロボットが作曲したのでそれを初演する(指揮は主人公であるプロの指揮者)。で、モーツァルトを敬愛する主人公の指揮者はこのAIロボットに反発するわけだが……。

 主人公は「そんなにAI化したいのなら聴衆もAIにすればいい」なんてことも言っており、これにはとても共感した。芸術においては提供(サービス)する側=作者(奏者)という関係を想定するから、AIは作家の代わりということを真っ先に思い浮かべがちだけれども、受け手がAIだっていいわけだよ。AIが人間のように考えるのであれば、人間のように感じることもAIの目指す目標ととらえることも可能であり、そうであるなら聴衆のAI化を考えたっていいわけだよ。AI聴衆?アマチュア作曲家、アマチュア指揮者、アマチュア演奏家の中には、人間のように感じてくれて評価してくれるならそういう存在を欲する人もいるんじゃないかとか思ったり思わなかったり。案外需要があったりしてね(ラフはそういうのいやだけれども)。

3度の勘違い2題

 メロディーに対して、メロディーと同じ動きのハーモニーをつけようとした場合、3度下を演奏させることがある。ここで重要なのは、これは必ず適切というわけではないというところだ。ところが3度下をいっておけば必ずハモると思い込んでいる人が、音楽をやっている人(音大出身を語る人)たちの中にもいるから困る。

あるアンサンブル集団でのこと。2本の楽器がユニゾン(まったく同じ旋律)でメロディーを演奏するようにアレンジされている箇所があったんだけれども、そのうちの一人がユニゾンはつまらないからといって、ハモらせようとメロディーの3度下を機械的に演奏したのだ。もちろん演奏は珍妙な汚いものになったのは言うまでもない。どのような和声が付いているのかも考慮せず、しかも機械的な3度下。何考えてんだ?とあきれた。しかもこの人が音大出身で音楽のことは他の人より分かっているつもりになっている点が、痛くて痛くて仕方がなかった。

是枝監督の映画「そして父になる」。ある程度裕福でそれなりの教育を息子に施している家庭が出てくるのだが、この息子がピアノの発表会で演奏するのが「メリーさんの羊」なのだ。これが見事に機械的3度演奏(「ミーレドレミ、ミ、ミ」という右手に対して「ドーシラシド、ド、ド」の左手)アレンジ。もっともこの家庭は教育にお金はかけているが、その教育の本質的よしあしには関心がない。そして息子も積極的にピアノに興味がなくあまり上手くもないという設定なので、これはこれで機械的3度演奏が結果としてそれなりの効果を生んでいる点は認めよう。ただ、映画の出来とは別なんだけれども許せないのは、こういう気持ちの悪いアレンジを平気で教材として幼少期のレッスン生に与えてしまうピアノ教師というものが現実にも存在することなのだ。そしてそれが和声的に気持ちの悪い不具合を生んでいることに気付いてないことの罪深さ。音楽教育に携わる者としてこんなものを違和感なく平気で聞けるということは音楽家として致命的だ。ラフだったら頭使わないでも2声でハモらせるなら左手は「ドーソミソ、ド、ド、ド」ぐらいだろうと思うし、あるいはもっと簡単にオクターブユニゾン(左手も右手と同じくメロディーを弾く)でも音楽としては十分かっこいいと思う。技術的に難しいというなら「ドードドドド、ド、ド」でもよかろう。よっぽど特殊なことを教えようというのでもない限り、伝統的和声学にとって間違ったものを幼少期のレッスン生に与えるのは害悪でしかない。

ダイアモンドの鑑定士を育てるには、本物とガラス玉を見せて「こっちは本物、こっちは偽もの」といったことはしないそうだ。とにかく本物を見せ続けて鑑定眼を育てるという。音楽だって同じようなもので、おかしなものを与えてはいけない。特に、センスを育てるべき世代におかしなものを与えて、おかしなものをおかしいと感じなくなってしまっては元も子もない。