google先生とかwikipediaとか

IT業界の片隅に身を置いているわけではありますが、「ググる」という表現は使わない。聞けば分かるけれども、自分からは使わない。「google先生にきいてみる」とは言う。google先生は広く浅く、ときには間違っていて偏った情報も引っかかけてくるけれども、それを前提に手っ取り早く情報を俯瞰する場合にはお手軽。google先生はいろんなことを知っているけれども、紹介してくれる情報が常に正しいとは限らない先生なのだよ。

wikipediaも同じく。先日、公の発表である言葉の定義を「wikipediaによると」というものを見かけたが、それはその人の知の基準がそこにあるということを露呈しているわけで、恥ずかしくないのかなぁと思った。とりあえず手っ取り早くにはいいけれども、正確かどうかは疑ってかからなければならないものだと言うことを知らんのかね?自分もwikipediaへのリンクをしているけれども、それはとりあえず楽しめればいいと言う場合にのみリンクしているわけで、ちゃんとした発表を求められた場合に「wikipediaによると」とはとても言えない。

「ルートビア」ってビールじゃないんだね

さる海外テレビドラマのキャラクタが「ルートビアフロート」というものを好む設定だったのだが、「ルートビア」というものをラフは知らなかった。なので「ルートビアフロート」と発言するたびに、最近巷で流行っているクラフトビール(なんだったらプレミアムモルツでもいい)みたいなものにアイスクリームを浮かべたものが頭の中に浮かんでいたのだ。ビールにアイスを浮かべた奇怪なものが果たしておいしいのかどうか非常に疑問で、そんなものを好物にすることこそがキャラなのだと思っていた。知らないと言うことはそういうことなんだね。そして知らないで勝手に思い込んでいるもので勝手に変なキャラを自分の中に作っていたのだよ。

米原万里を再読中

去年は米原万里没後10年でフェアをしていたんだけれども、著作が電子化されていたので、再読。ほぼ完全に内容を覚えていなかったので、初見のように面白く再読できた。自分の記憶力のなさにもびっくり。とりあえずまずは3冊読んでみた。
■「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
冷戦中の「ソビエト学校」の同級生だった3人の友達を、ソ連崩壊後に探し尋ねる3つのエピソード。どの話も構成がうまくて見事。とりわけ、タイトルにもなっているアーニャのエピソードが深く考えさせられておもしろい。タイトルに含まれる「真っ赤」はドップリ浸かった「共産主義思想」のことでもあり、建前でしか生きていけない、建前であることさえわからなくなってしまう人生に対する作者の思いの複雑さは考えさせられる。
■「魔女の1ダース─正義と常識に冷や水を浴びせる13章」
祖国、郷土、言語を愛するとはどういうことなのか。さまざまな立場の人と自己を相対化することによって見出すことのできる価値の重要性。「チン・ボコ」を連呼するエピソードや「ヤキマンコ通り」のエピソードが自分の中でずっと引っかかっていたんだけれども、この本で読んだのか。
■「不実な美女か貞淑な醜女か」
「通訳」とはどんなものかをこんなにおもしろくわかりやすく、しかも具体的な例を引いて表したものが他にあろうか。とりわけ失敗談はやっぱりおもしろい。最近やたらAIが騒がれているけれども、自動通訳(翻訳)はまだまだ当分無理だろうな。

「重複」の読み方

「重複」の読みは「ちょうふく」「じゅうふく」、どちらも正しいとされている。もともとは「ちょうふく」だったのが、「じゅうふく」と読む人が多くなって定着。こういう「じゅうふく」みたいな読み方を「慣用読み」という。ちなみに自分は「ちょうふく」派だが、自分が知る限りの周囲の人はほとんどが「じゅうふく」派。「ちょうふく」と読んでいる自分が間違っているのではないかと指摘されそうなくらい。

では「世論」は「よろん」か「せろん」か。ちなみに中島みゆきの「世情」は「せじょう」。

「姑息」の意味

昔の日記にも書いたんだけれども「姑息」という言葉の意味。「場当たり的」「一時しのぎ」というのが本来の意味なんだけれども、結構な割合で「卑怯な」と言う意味で使われている。辞書を引いても「姑息」に「卑怯な」という類の意味はない。当然「姑息な手段」といえば「一時しのぎの手段」という意味なんだけれども、「卑怯な手段」「ずるい手段」という風に解釈しないと意味が通らない文章をしばしば見かける。物書きを生業としている人のものでもまれに見かける。ちなみにネットで検索をかけたらこの話題は山のように出てくるね。言葉は生き物(使われるうちに変化するの意)だから、おそらくそのうち「姑息」に「卑怯」という意味が認められるんだろうなとは思うが。「情けは人のためならず」みたいに。

投稿レシピサイトでよく見かけるチープで陳腐な擬態語に関して

投稿レシピ系サイトでよく見かける「パクパク食べる」「もりもり食べる」「ペロリと」など、どうしようもなく陳腐な擬態語表現を表現者は気持ち悪いと思わないのだろうか。ラフはこの手の表現をレシピサイトで見かけるたびに、そのあまりにもチープで陳腐な表現をものすごく気恥ずかしく、気持ち悪く思うし、いらいらするし、うんざりする。こんなレシピに賛同してやるものかぐらい思ってしまう場合もある。自分で表現する場合でも、こんな表現はまず使わないようにするし、使おうとさえ思わない(特に書き言葉では。あえてギャグや逆手に使う場合を除く)。

だったらそういうサイトは見なけりゃいいじゃん、というのももっともだけどね。

おそらく、自分の書いているものの中にも他人から見たら気持ち悪い表現ってのはあるかもしれないと言う自戒もこめて。擬音語・擬態語の類はことに要注意だ。言葉へのセンスは磨いておかなきゃね。

「おんぷれ」とは

仕事では「おんぷれ」といえば「オンプレミス」(情報システムの自社運用、クラウドの対立概念)のことであるが、S吹奏楽団では次回の演奏会で演奏する「音楽祭のプレリュード」のことである。どちらの意味でも最近よく耳にする言葉なので時々一瞬混乱する。

我思う、ゆえに我あり

別に哲学に興味があるわけではないし、デカルトに傾倒しているわけでもない。けれども「我思う、ゆえに我あり」は自分にとってなにかと命題にはなっている。私と言うものは何か?究極に問い詰めてみて、でも今こう考えている自分と言うものだけは確かだとかいうことだよね。ラフは好きな対象事象についてもこれをあてはめたい。とりわけ「音楽」。本当に自分は音楽が好きなのか?と自問してみたときに「好きだ」と即答する自信は今はない。何も省みることなくイノセントに「好き」と言えるようなものがはたして本当に好きなのかは疑問だと思う。一度は疑え、自分にとってそのものが本当に大事なことなのか問え、分からなければ問い続けろ。自信を持って好きと言えるために。

ちなみに、ラーメンが好き、カレーが好き、とかいう程度の「好き」は際限なくあるけどね。「音楽」に関してはそういう「好き」とはまた違うんだよね。もっと屈折した「好き」なんだよ。なんでかね。

俺ってめっちゃ面倒くさいか?

wikipediaの「我思う、ゆえに我あり」の項

推敲する気が起きない

かれこれブログをはじめて数ヶ月。ブログって自分が書いたものに対する責任がいまひとつ自覚できないんだよね。なんでだろ。読み直すってことはほぼしない。ということは推敲もしない。文末の表現がちぐはぐだろうが、漢字の変換ミスがあろうがあまり気にしていない。これってはっきりいって自分が書いているもののクオリティーを明らかに下げている。なので、ここを読んでもらおうという気持ちも気概もあまりない。単なる思いつくままの戯言垂れ流し状態。もちろん積極的に書こうという意思も正直言ってあまりない。なので、人にもブログやってますとは言わないし、ランキングとかロボットとかにも積極的にサーチされるようなことは何一つやっていない。じゃ、止めれば?と問われれば、うん、そうだね。って感じ。かつてラフが公開していた電子日記に比して、今のブログは面白さも読みやすさも興味深さも明らかに劣るね。

文章書く気が失せている理由の一つはIMEがバカなことも一つ。自分はATOK派だったんだけれども、バージョンアップを怠っていたらWindows10ではいつのまにか古いATOK使えなくなっていた。そりゃMicrosoftIMEだって賢くはなってきたとは思うものの、やっぱりATOKの自然な日本語解釈と入力快適さには及ばないよね。最近はメールでさえ長文打つことはなくなってきたな。もっぱら日本語は受け取るばかりになりつつあるよ。

よろしくお願いします

メールとかでよく見かけるんだけれども、いくらIMEが変換してくれるからって「よろしくお願いします」を「宜しくお願いします」とするのは自分にはものすごく気持ち悪く感じてしまうんだけど。気にならないもんなのかなぁ。手書きだったら絶対「宜しく」なんて書かないと思うんだけれども。