なんてことはない一般的な言葉があるとするじゃないですか。たとえば「挨拶をする」とかでもいいよ。でも同じ言葉、同じようなシチュエーションでも、言う人によって自分の感情が変わる。ある人がその言葉を使うと、なぜか突っかかりたくなってしまう。なぜだろうか。
カテゴリー: 言葉
知の欺瞞
音楽において「テンポを倍に」と「音価を倍に」はまったく逆の方向性である。前者が早くなるほうの倍、後者は遅くなるほうの倍。数学的な計算でとりあえずは算出できる数値の話だ。
では「いつもの倍早起きする」というのはどういうこと(この表現はある歌で実際に使われている)?午前6時に起きる人が午前3時に起きる?違うよね。ここでは数学的な意味合いでの「倍」ではないよね。
「加速度的に増加する」、「負の加速度」だってありますよ。
「AとBは比例する」、「比例定数が負」の場合だってありますよ。
「AとBは反比例する」、単に負の相関関係だけだってことはないですか?
「この問題をどう解けばいいか」を「この方程式をいかにして解くか」との言い換え、本当に必要?「方程式」は解かないといけないものなの?方程式であること、そのことにこそ意味がある場合もあるよ。
あいまいな雰囲気だけで使用された数学的用語を用いることで、文をいかにも学術的に装飾する傾向って言うのは確かにある。そういう表現を見るたびに、なんとなく言いたいことはわかるけれども「洗練されていないなぁ、陳腐だなぁ」と自分には思える。自分の好きな塩野七生氏もしばしば「問題」=「方程式」を使うんだよね。「あれ?「問題」じゃダメなの?」とか思ってしまう。
こんな話をしているとソーカル事件のことを思い起こすなぁ。
主語は何?で、結論は何?
仕事上で何の話をしているか分からない人に対して「主語は何?」と聞く人が自分の周りには結構いるのだが、多くの場合は「主語」ではなく、今何について話しているのか、すなわち「対象」が何であるのかを聞いている。文法的な意味での「主語」ではまったくないのである。
自分も含めて未熟な技術者にありがちなこととして、「絶対」とか「必ず」ということが言い切れない場合(ほとんどのことがそうだが)、「できない場合」「やれない場合」の理由(言い訳)を話の途中にまぶしてくるので、何を言っているのかわからなくなる。つまり話の着地点というかゴールと言うか結論がまったく見えない話をだらだらとしてしまいがちなのだ。聞いてるほうは「できるのか」「できないのか」とシンプルな答えを聞きたいのに、そういう風な答えが返ってくるもんだから「結論は何なの?」と指摘するのも当然だ。
自戒の意も込めて記しておこう。
シズル感
Rから「シズル感」というのが英語「sizzle」由来だということを教えてもらった。食べ物に良く使われる語でおいしそうにみずみずしく見える感じ?ってことはなんとなく感じてはいたんだけれども、由来は日本語で「汁(よだれ)がダラダラしたたるような」をなんとなく(!)短くしたものが「しずる」だとか思い込んでいた。知らないで推測や感じたままに勝手に思い込んでいる語と言うのは結構あるんだろうなぁとか思う。
エンジニアの言葉
総務のFさん曰く、「「可逆的」とか「再帰的」というのはエンジニア(プログラマ)が使う言葉」だそうだ。なんとなく分かるけれどもFさん自身は自分からは使わないと。俺普通に日常的に使ってるわ。
ネガティブ文章
自分が書いてきた文章ってなんて前向きなことが少ないんだろうなと、人の書くものを見て思ったり思わなかったり。読むにくるほうも元気になれる文章の方がいいよね?自分の文章を読み返してみると、その無知蒙昧にして思い込みの激しい批判ばかりの鬱々文章なんで、恥ずかしくて穴に隠れたいくらいな気持ちになる。
綿菓子
あの縁日とかで売っている、ザラメを繊維状にして巻き取ったふわふわとしたあれ、なんて呼んでた?今日さるアニメを見ていたら「綿あめ」って言っていた。自分は「綿菓子」って呼んでいたことを思い出した。
複合動詞「~する」
自分の周りに「付随する」という表現をしょっちゅう使う人が複数人いるんだけれども、どうも耳から入ってくるとこの言葉にものすごく違和感を覚えるんだな。「付随」なんてそもそも普段の生活で使う語か?自分が知らない業界表現なのだろうか。
いわゆる漢字熟語名詞+「する」と言う形の複合動詞「~する」、たとえば「運動する」「食事する」などの言葉は、実はあまりこなれた日本語に感じにくい。「体を動かす」「ご飯を食べる」の方がやわらかくこなれた感じがする。よっぽど人口に膾炙している熟語以外(特に話し言葉で)は「~する」という表現は可能であればあまり使いたくない。そうはいっても、技術文書を書くときは「スペースキーを押下する」とか「アプリケーションを起動する」とか使いがち。技術文書、マニュアルが読みにくい、わかりにくいというのはこういう点にも問題があるんだろうな。
「読書感想文」なるもの
「読書感想文」ってあれはなんなんだろうね。読書をしたという証拠として集めているだけのもののような気がする。かえって読書嫌いを増やす原因になってんじゃないのかなぁ。本を読むことは楽しいし面白いってことを経験させるだけでいいのに、わざわざ何を書けばいいのか分からない「感想文」なるものを要求しているんだよ?「感想文」ってなんだよ。そんな曖昧模糊とした書き物を求めるなんて愚の骨頂だよ。本を読んでおもしろい経験をしたのなら、その本を他の人に勧める文章を書いてごらんって感じならわからなくもないけれども。そもそも、押し付けられただけで面白いと思わなかった本の感想を書けといわれたって「つまらない」しかないじゃん。
「美女と野獣」のタイトル
ディズニーの実写版「美女と野獣」(「Beauty and the Beast」)が話題な昨今。「美女と野獣」という日本語タイトルもまぁ、「j」という音で韻を踏んでいて悪くはないんだけれども、「美女」という日本語の単語から受ける印象は自分が抱いているこの物語のヒロインにはちょっとふさわしくないような気もする。もともとのフランス語だと「La Belle et la Bête」。冠詞も含めていい感じ。「獣」はフランス語ではなんと女性名詞なので「la」。ヒロインの名前が「ベル」なのはこのタイトルからですね。日本語で言うなら「美子」「佳子」という感じか。参考までにドイツ語だと「Die Schöne und das Biest」。いまひとつ。