通勤かばんの中身

毎日の通勤かばんの中に入れているものの大半は、毎日使うものではない。できたら持ち歩きたくないものが多い。なにしろこれらが、かばんのかさを増し、また重量を増しているのである。たとえばスマホ用充電器。たとえば折り畳み傘。たとえばエコバッグ。毎日は使わないが、これらはたまに使うことがあるのでいざと言うときのために入れている。いわゆる念のため。それから、入れてはいるが通勤時にこれまでに一度たりとも読んだことのない本も入っている。これはもう明らかに入れている意味がないな。そもそも念のためと言うならば、かばんの中にはすでにして電子書籍リーダー、しかも未読書籍てんこもりなものが入っているのだから、それに加えて紙の本を持ち歩いても念のためどころ無用の長物だな。

というか、極限まで割り切ってしまうならば、定期券さえ持っていれば、手ぶらでも通勤はできるはずだな。ちょっと軽量化を試みてみようか。

お弁当の冷まし方

お弁当男子もどきを再開しているこの頃。ほぼご飯だけ弁当(主に炊き込みご飯系)ではあるんだけれども。ところでお弁当って冷めてからふたするのが常識と知ってはいるが、目安としておよそ30分くらいかけると室温まで下がるらしい。忙しい朝、そんなに時間待ってられないよねぇ?自分なんか起きて15分くらいで家出てる時あるもんなぁ。どうやって冷ますのがいいのだろうか。扇風機?うちわ?保冷剤?できればほったらかしで冷めて欲しいぞ。

アウェイでチャック全開でチューリングマシンの日曜日

昨晩早く寝たもんだから、朝4時には目が覚めていた日曜日。

午前中アウェイでアンサンブルリハ2回目。前回よりも大分曲の見通しが良くなった。なんとかなる気がする。練習後にトイレに行ったら社会の窓がずっと全開だったことに気付く。オーマイガー!気付いたけれども指摘しなかった皆さん、優しさをありがとう。

午後は雨降ってきたので家で映画「イミテーション・ゲーム」を鑑賞。ITを生業としているものとしてアラン・チューリングを知らないわけにはいかないよね。今日のコンピュータの原型を作った人ね。ま、彼が同性愛者だというのはよく知られていることで、映画でもそのことが描かれているけれども、多分に脚色演出されている。別にそのことを悪いとは思わないよ。エンターテイメントとしてきちんと成立させた脚本は見事!

投稿レシピサイトでよく見かけるチープで陳腐な擬態語に関して

投稿レシピ系サイトでよく見かける「パクパク食べる」「もりもり食べる」「ペロリと」など、どうしようもなく陳腐な擬態語表現を表現者は気持ち悪いと思わないのだろうか。ラフはこの手の表現をレシピサイトで見かけるたびに、そのあまりにもチープで陳腐な表現をものすごく気恥ずかしく、気持ち悪く思うし、いらいらするし、うんざりする。こんなレシピに賛同してやるものかぐらい思ってしまう場合もある。自分で表現する場合でも、こんな表現はまず使わないようにするし、使おうとさえ思わない(特に書き言葉では。あえてギャグや逆手に使う場合を除く)。

だったらそういうサイトは見なけりゃいいじゃん、というのももっともだけどね。

おそらく、自分の書いているものの中にも他人から見たら気持ち悪い表現ってのはあるかもしれないと言う自戒もこめて。擬音語・擬態語の類はことに要注意だ。言葉へのセンスは磨いておかなきゃね。

「魔女の宅急便」と「動物詩集」

ジブリのどの作品が好きかと問われればラフは「魔女の宅急便」だ。
話は変わって、合唱をやっている人にとって白石かずこ作詞、三善晃作曲の「動物詩集」は有名作品。

「魔女の宅急便」の人語を話す黒い小猫の名前は「ジジ」。一方白石かずこの「動物詩集」に登場する「ジジ」は人間の女性に恋をするゴリラの名前である。じゃ「動物詩集」に登場する黒くてすばしこい小猫の名前はというとこれは「ピッチ」という。「魔女の宅急便」に登場する「ピッチ」は、鳥かごに入ったネコのぬいぐるみを届けた家のカナリアの名前。

ジジ ピッチ
魔女の宅急便 黒い小ネコ カナリア
動物詩集 ゴリラ 黒い小ネコ

ちなみに三善晃といえばアニメ「赤毛のアン」の主題歌とエンディングの作曲者でもあるよ。

「おんぷれ」とは

仕事では「おんぷれ」といえば「オンプレミス」(情報システムの自社運用、クラウドの対立概念)のことであるが、S吹奏楽団では次回の演奏会で演奏する「音楽祭のプレリュード」のことである。どちらの意味でも最近よく耳にする言葉なので時々一瞬混乱する。

夜中に

「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」といえば、谷川俊太郎の詩であるが、昨晩、夜中にユニットバスでラフは水周りの掃除がしたくなった。突然どうしても気になりだして風呂掃除を始めたわけである。うちはユニットバスなのであるが、いかんせん独身中年面倒くさがり一人暮らしなため、水周りの掃除がどうしてもおろそかになってしまっていたのだ。気にしなければ平気なもんだけれども、いったん気になりだしたら気になって仕方がない。というわけで、ブラシ持って掃除。きれいになると気持ちいいね。できるかぎり、まめに掃除しようと思ったものの、そう思えているのは今だけかも。基本面倒くさがりだし。

幸せな家族幻想

 自分はリア充をうらやむようなことはしたくないなぁ、しないようにしようと思っていたんだけれども、リア充にイライラするって言うのはこういう感じなのかなと思ったり思わなかったりしたことがあったので記述してみる。よござんすか?

いわゆる職場関係の世間話での話題としてよく「家族」というものが取り上げられる。それも大抵、話題が肯定形にしろ否定形にしろ愚痴にしろ、そして話者の意図に関わらず、結局は自分の家族自慢(「うちはなんだかんだいって幸せだ」)なのである。職場が関わってくると話題が断然「嫁自慢」「子供自慢」「家族自慢」なのだ(もっとも現実には介護やら看護やらでそれどころじゃない苦労をされている方もいるにはいるが、そういう人はあまり家族のことを話題にしない)。いや、自慢してくれていいのだ。幸せ光線を発してくれていいのだ。幸せならそのポジティブな気持ちを共有しようじゃないか。そう思っていた。そう思っているつもりだった。

でも、そういう家族の幸せ話を聞きつつ、自分の中にザラっとしたものが残ることがあるのだ。自分が家族を持つことがない惨めさとかつらさを実は感じているのではないか?幸せな家庭に対する羨望と僻みみたいな。潜在意識下のレベルだったとしても。SNSでよくある他人のリア充がうっとうしいと言うのはこういうことなのか?でも、自分は家族を持たないということを受け入れているつもりではあるんだよ。なんなんだろうこれは。ほんのちょっとしたささくれ程度の違和感なんで、別に気にしなければなんともないことなんだけれども、どこか居心地が悪いことにたまに気付いてしまうのだ。

さて、おもしろいことにそういう「家族」話題になるのは社会人つながりでも断然「職場」関係で多いのだ。自分が知る限りS吹奏楽団(一般社会人吹奏楽団、つまり職場関係ではない所属集団)ではあまり家族の話題というのは耳にした事がない。別に幸せな家族が少ないわけではない(と思う)。もっともS吹奏楽団だって家族ぐるみで団に関わっている(団員としてもそうでなくても)団員もいるにはいるが、家族の話題はあっても、しごく自然で、つまるところの家族自慢はそんなに聞いたことがない。ひょっとしたらこれは家族をもたないハゲデブ40代中年おっさんゲイ独身なラフ(S吹奏楽団ではカミングアウト済み)に対して配慮してくれていて、そういう話題が耳に入らないように気づかってくれているからなのだろうか。う~~む、そうだったのか。道理でラフにとってS吹奏楽団の居心地がいいはずだ。

ん?ここまで書いてみて、つまりはこういうことかと思い至ったぞ。おそらくS吹奏楽団の仲間とはかなり親しいが、職場の人とはあまり親しくないというただそれだけの差なのかも。そうなると、ラフがゲイである事をカミングアウトしているかしていないかの違いなのか?カミングアウトしないのはなにかと社会生活を営むには生きづらいというようなありふれた結論になるのか?クローゼットなゲイはリア充にはなれないというただそれだけのことなのか?う~~む、ここから問題提起をしてもう一話書けそうだがそれはまた今度にしよう。鳥頭なのできれいさっぱり忘れるかもしれないけど。

カミングアウト済みとは言っても

はじめに
ラフはゲイです。カミングアウトすることがえらいとか立派だとか言うつもりはさらさらありません。人にはそれぞれの事情というものがあるわけだから、それぞれの事情に合わせて対応すればいいことだと思います。カミングアウトしないという選択も大事だと思っています。

ラフは基本的にはカミングアウト済みなのであるが、実は職場と親族関係と過去の人間関係にはカミングアウトしていない。職場は生活がかかっているので面倒なことを避けたいという自分の意思による決定。親族関係は両親にはカミングアウト済みではあるが、家族が親族関係でゴタゴタに巻き込まれるのは大変だということで余計なことは言わないようにということになっている。あと、30代以前の過去の付き合いではほぼカミングアウトしていない。というのも、まだ自分が何者であるのか分からず苦しんだ20代までは最悪の時期で、忘れ去りたい(まだ向き合う心積もりができていない)過去のオンパレードであるため、過去の縁を切ってしまっている場合が多いからだ。

今の自分は基本的にはカミングアウト済みではあるが、カミングアウト済みだから楽かというとそういうわけでは決してない。自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども、周囲(ノンケに対してもゲイに対しても)への気遣いもかなり求められるものなのだ。ただ単に自分の生きたいように生きていけばいいわけではないのだ。ノンケに対する気遣いは、まぁ相手が不愉快にならない程度に話題や言動をある程度控えてるってことはもちろん、ゲイと言うものにネガティブな感情を抱かないように配慮している。ゲイに対しても原則は同じだけれども、とりわけクローゼットのゲイ友達に対する気遣いは重要。大切に思うから気遣うわけで。たとえばカミングアウト済みのノンケ友達にゲイの友達を会わせる場合、ゲイの友達がクローゼットだったら紹介しづらい。ラフがカミングアウト済みの人たちにとっては彼らにとって素性の分からないラフの友達は「まぁゲイだろう」とデフォルト思うわけだからだ。意図せぬアウティングとならないようにしなければならないことを考えるといろいろ面倒くさいのだ。これが結局ゲイの交友関係とノンケの交友関係をラフが積極的に交えることのできない一つの理由でもある。

たとえば、S吹奏楽団の忘年演奏会という年末最後の練習は、団員以外にも知り合いを呼んでいい練習なんだけれども、ラフは吹奏楽をやっている友達(それがノンケであれゲイであれ)がいても、うかつには呼べないのだ。自分が友達を呼んだとしたら、その彼彼女はS吹奏楽団の団員からは「ラフの知り合いだからゲイだろう」と思われるだろうから。ノンケだったら勝手にそう思われるのは迷惑だろうし、クローゼットのゲイだと消極的なアウティング行為になってしまう。こういうのって結構気を遣う。気を遣っているつもりではあるんだけれども、それでも結果としてラフが予期せぬアウティングをしてしまったゲイ友達もいる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

カミングアウトするのも一つの選択。カミングアウトしないというのも一つの選択。自分の覚悟ができているとしても、カミングアウトすればもろもろの問題が解消されると思うのは大きな勘違いだ。カミングアウトしても、またあらたな面倒くさいことが出てくるものなのだ。

さて、ラフはFacebookはやっていない。Facebookって実名主義でしょ。実名主義は別にかまわないんだけれども、カミングアウト済みの人間関係とカミングアウトしていない人間関係の人脈を使い分けたい自分にはあまり向いていないんだよね。過去の自分と今の自分に一貫性が取れている人はいいんだろうけれども(そして多くの人はそうなのであろう)、ラフは先に述べたように過去の自分と今の自分のアイデンティティーがまったく別である。そして、自分とつながっている人が予期せずラフのカミングアウト済み世界と未カミングアウト済み世界で不用意につながってしまうのを避けるためにもFacebookをやるつもりはないのだ。実名主義で自分自身の、そしてつながっている人の、あるいは対しての、予期せぬアウティングに巻き込んでしまうことになるのは避けたいのである。

追記
「自分自身が強く生きていかなければならない覚悟をしなければいけないのはもちろんだけれども」なんて書いたけれども、そんな強い覚悟ができているかといえばそんなことはないな。確かにカミングアウトは自分の意思でしたわけだから、それによって引き起こされることは責を負おうとは思う。でも、やっぱり自分はそんなに強いわけではないよ。打たれればへこむし、寂しければ泣くよ。でも、それでもいいじゃん。