紀元前1年の翌年は紀元後1年つまり西暦1年。西暦0年という年は存在しない。
【補足】天文学は除く
カテゴリー: 言葉
パッキャマラード
以前にも触れたけれども「クラリネットを壊しちゃった」という子供用の歌があるではないか。あの歌でクラリネットの音を「パッキャマラード」と表現しているのだが(擬音語?)、これってかなりシュールな表現だなぁと思うわけだ。少なくとも自分はクラリネットの音が「パッキャマラード」と聞こえたためしはない。
それはさておき、最近この歌が脳内再生されるさいに、「パッキャマラード」が「パッキャマ豚脂」に変換されて困る。スーパーなどでご自由にお取りください状態の小分けされた白い塊が映像として浮かんでいるのだ。
追記(2018-05-11)
流れに棹さす恋の鞘当
「流れに棹さす」って表現は「流れに乗って」という意味だから本来はプラスの言葉。でも最近のある調査によると「流れに逆らって」というマイナスの意味で使う人が半数を超えているんだとか。言葉は生き物だから変わっていくことは避けられないんだろうけれども、過渡期においては「この人は今どっちの意味で使ったんだろうか?」ということを文脈から判断する必要がある。問題になるのは、文脈からはどちらとも判断つかないときだよね。言いたいことはプラスなのかマイナスなのか。
「恋の鞘当」って「恋敵同士が争うこと」なんだね。もともとは遊里で一人の遊女をめぐって二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材からだとか。「惹かれあうもの同士がお互いの腹を探り合うこと」だとか根拠もなく思い込んでいたよ。どこでそんな風に思い込むようになったのかな。
知らない言葉を推測して読むってことは、いちいち調べていたら話の流れについていけないから、出来るに越したことはないけれども、いつのまにか自分で推測した間違った意味でその表現を覚えてしまうこともあるということか。たまには辞書を引いてみるのも大事だね。
エクスプローラ
Windowsを使っていて「エクスプローラ開いて」とか言われた場合、「ファイルエクスプローラ」なのか「インターネットエクスプローラ」なのか迷うときがある。もうかれこれ20年以上も。
餡子の入った和菓子
子供の頃、ドラえもんが好きだという「どら焼き」なるものがどういう菓子であるのかが謎だったのではあるが(それが餡子の入った菓子だという認識は出来ていた)、うちの実家(一応関西圏)では「三笠」と呼ぶものとほぼ同義であることを知ったのは、わりと大人になってからであった。なるほど、これがどら焼きなるものか、っていうか三笠やん。
浪人時代、ある有名な予備校講師執筆の教科書中の例文にやたらと「今川焼き」が登場するのであった。今川焼きなるものがどういうものなのかさっぱりわからないまま、とにかくそういう和菓子があってこの講師はその今川焼きなるものをこよなく愛しているのだなぁと思っておりました。上京してきてはじめて今川焼きなるものが何かを知って、「大判焼き」とか「回転焼き」とか「御座候(ござそうろう)」のことか、なんだ今までもしょっちゅう見ていたあの菓子じゃんと軽い失望感を覚えたものだ。
KY研修
職場で「KY研修」というのをしばしば行っているのだが(自分は受講対象外)、この言葉を耳にするたびに「空気読めない研修」とすぐ頭で変換してしまっている。この場合の「KY」は「危険予知」です。「KY活動」とか普通に使うらしい。
「お様」?
誤字脱字の多いネット文化を憂う
「ネット文化」が浸透して、目にする文章に誤字脱字が多いことにうんざりするようになってきた。さすがに誤変換はあまり見なくなったが、「てにをは」の間違いや抜けは目に付く。とりわけ大手マスコミ関係の情報源だと「それはまずくないか?」と思う。その間違いを正して読むことは前後から推測できるにしても、そういう文章に頻繁にさらされるということは「そういう文章(の間違い)でも許される」という雰囲気を醸成してしまう可能性を危惧するのだ。「完璧な文章、間違いのない文章」とまでは言わないまでも(書くことを生業にしている人はこれを目指すべきだとは思う)、「出来うる限り間違いは減らす方がよい」がせめてもの、少なくとも表にさらす文章の原則であって欲しいと思う。(最後の方でかなりくどい言い回しをあえて使っている点に、自戒の意もこめてます)
泥臭い
「泥臭い」と言ったら、「洗練されていない(unsophisticated)」、「野暮ったい」、とかネガティブな様子が浮かぶのだ。でも「泥臭い世界」「泥臭い営業」という表現を見かけた。文脈から推測するにこれはポジティブな様子。つまり「(洗練はされていないけれども)地道にこつこつ取り組まなければならない」という雰囲気。(悪く言えば)「力技な」という感じをポジティブにとらえているとでも言おうか。
「付随して」
「~に付随して」という表現がとにかく耳にすると気持ち悪いと前にも書いたが、最近なぜなのかちょっと判明。
「付随」が、「不随意筋」とか「下半身不随」とかの「不随」と響きが同じだからだ。要するに「意のままにならない」という意味の「不随」。漢字は違うんだけれども自分にとってはこれまで「ふずい」とは「不随」の語で使うことのほうが多かったから、どうにもこの響きにとらわれてしまっているようなのだ。つまり「~に付随して」と耳にすると、「~に伴って」の意よりも、予期せず文脈に合わない意味がチラホラと頭の片隅をよぎっているのだ。一瞬の違和感を感じるこの気持ち悪さ。これは発言者に問題があるのではなく、聞き手である自分の側の問題だ。自分が「付随」という言葉を使ってこなかったというただそれだけのことである。
そんなことに思い当って、これからは「~に付随して」という表現に目くじら立てることなく、受け入れられるよう努めたいと思う。