読了:Javaによる関数型プログラミング[ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社]

Javaによる関数型プログラミング

Javaによる関数型プログラミング

  • 作者:ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社
  • 出版社:オライリー・ジャパン
  • 発売日: 2014年10月

Java 8新機能のラムダ式や、Stream APIの特徴を、コンパクトに解説!考え方、API、設計、そして遅延評価や再帰を詳述。

1章 Hello、ラムダ式!/2章 コレクションの使用/3章 文字列、コンパレータ、フィルタ/4章 ラムダ式で設計する/5章 外部リソースを扱う/6章 「遅延させる」ということ/7章 再帰の最適化/8章 ラムダ式で合成/9章 すべてをまとめて/付録

あんまり仕事関係の本は記録に残していないんだけれども。プログラミング言語としてJavaを使う開発現場から遠ざかってかなりたつ(たまにちょい使い程度はあったけど)。ちょっと自分の中の情報をアップデートしておかなければならないと思って、Javaの勉強を。現場から離れる直前にリリースされたのがJava5だった。そこから今やJava13だって?すっかり置いていかれちまっているぜ。この間でもっとも変わったのはJava8なんだろうな。Java8で導入されたラムダ式を見て、そうかJavaも関数型を使えるようになっていたのかとは思ったものの、「なんとなくこんなもんか」程度ですませていた。ところが、どうやらラムダ式はStreamと一緒に使うとステキなことが多いらしくて、それなのに自分にはこのStreamというものがいったい何者なのかが全く分からない。コードを見ても何をするものなのかが今一つよくわからない。というわけで、そのものずばりが副題に付いている分かりやすそうな本を見つけたので読んでみた。

本自体は薄いんだけれども、実際にどれだけ強力な武器をJavaは手に入れていたのかがよくわかった。ある課題をこれまでの(Java7までの)手続き型で組むとこうなるよねというコードがまず示される(自分もこう実装するはずだ)。で、そこからラムダ式とStreamを使ってリファクタリングをしていく過程をコードとともに示していく。おぉ、なるほど、活用できればシンプルでエレガントに表現できるかも。確かにこれはJavaに対する世界観が変わるな。何年も前から世の中そんなことになっていたとは……(この本が2014年だもんね)。

Javaによる関数型プログラミング[ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社]

読了:専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

  • 作者:トム・ニコルズ/高里ひろ
  • 出版社:みすず書房
  • 発売日: 2019年07月11日

もはや健全な懐疑心ではない、ゆがんだ反知性主義である。民主主義には正しい情報に基づく熟議が欠かせない。その礎を支えるのは各分野の専門家が蓄積してきた専門知だ。ところが今、専門知が蔑ろにされてフェイクがまかり通り、好みの情報だけを取り入れてその正誤を顧みない、という風潮が高まっている。何が起きているのか、これを放置するとどうなるのか。大反響を呼んだブログ発、専門家からの愛ある反撃。

序論/第1章 専門家と市民/第2章 なぜ会話は、こんなに疲れるようになったのか/第3章 高等教育ーお客さまは神さま/第4章 ちょっとググってみますねー無制限の情報が我々を愚かにする/第5章 「新しい」ニュージャーナリズム、はびこる/第6章 専門家が間違うとき/結論ー専門家と民主主義

アメリカにおいて専門知が重要視されなくなったのはいつからか、それはまたなぜなのか?専門知の役割とは?それらを専門知を担う専門家の立場から解説する。非常にわかりやすく読みやすい。注目すべき興味深い例や調査が取り上げられ、また端的でわかりやすく核心に迫る表現も多く、久々に気になった箇所に引いている下線だらけの読後状態になってしまっていた。ただし専門知を担う側からの論なので、著者の書きっぷりは読み手によっては不遜傲慢に感じる部分もあるかもしれない。

平均的アメリカ人の基本的な知識のレベルはあまりにも低下し、「知識が足りない」の床を突きやぶり、「誤った知識をもつ」を通り越して、さらに下の「積極的に間違っている」まで落ちている。

この手の話となるとお約束なのだが、やはりダニング=クルーガー効果の話から入っていく(wikipediaの「ダニング=クルーガー効果」の項)。ヒトは自分が何でも知っていると簡単に思い込んでしまう。ましてや今日インターネットでググれば知りたい情報はすぐ答え(らしきもの)が得られる。しかしそれは本当に正しく適した情報なのか?実際には、ヒトは情報と思われるもののなかから、自分の考えに合わないものは無視して(意図的であったり無意識であったり)、自分の考えや主張に適合するものだけを情報として取り込んでしまう。そして、その偏った知識でもって「そのことに関して私は知っている」と主張する。

またメディアはうそをついている、メディアは信用ならないという。自分がインターネットで調べて得た情報(もちろん自分の考えに合わないものは情報ではないとされている)が正しい、それ以外を主張しているメディアは信用できないと。つまり実際は「人々は本当にメディアを嫌っているわけではない。自分の気に入らないニュースを報じたり、自分とは異なる意見を発したりするメディアを嫌っているだけだ」。

忘れないでほしい。ニュースを視聴して理解するのは、練習することによって上達するスキルのひとつだということを。ニュースの賢い消費者になるためのいちばんの方法は、定期的にニュースを消費することだ。

それでは専門家と呼ばれる人々は何者なのか?

専門家は政策立案者ではないということを知っておくべきだ。専門家は国家の指導者に助言し、その言葉は一般の人々の言葉より大きな影響力をもつが、専門家が最終決定をすることはない。

専門家に約束できるのは、そうした間違いを減らすルールや手順を設けて、一般の人々がする場合よりも大幅に間違いを減らすということだけだ。

専門家の目的は説明することで、予測することではない。ところが専門家自身が簡単に予測(予想)することに飛びついてしまう。そして専門家の予測が外れるたびに、「専門知は役に立たない」と判断されてしまう一因になってしまっている。著者の専門はUSSR(旧ソ連)だが、ソ連が崩壊するとはだれも予測できなかった。専門家としては痛い失敗ではあるが、だからといって専門知が役に立たないというわけではない。

最後の「結論-専門家と民主主義」が著者の考える専門知の役割を端的にとらえている。
まず専門家が民主主義において果たさなければならない役割と責任について。

専門家がしなければならないのは、自分の助言の責任を認め、同業者どうしでも責任を課し合うことだ。いくつかの理由――学位の過剰供給、世間の関心の欠如、情報化時代の知識の生産についていく能力不足など――から、専門家たちはこれまで、社会がその特権的な立場に求める誠実さでその義務を果たしてこなかった。もっとがんばるべきだ。たとえその努力が、たいていは気づかれずに終わるとしても。

専門家にできるのは選択肢を提示することだ。価値判断を行うことはできない。専門家は問題を説明することはできるが、人々にその問題をどのように解決するべきかを指示することはできない。たとえその問題の性質上、幅広く合意が存在していたとしてもだめだ。

では、それを踏まえての有権者の役割は?

専門家は、どうなるかという可能性を提示することはできるが、その問題に関わり、自分たちが優先させるものを明確にして何をなすべきかを決めるのは、有権者の仕事だ。(引用者補足:地球温暖化によって)ボストンが海に沈むのはわたしの希望する結果ではないが、人々が専門家の助言を無視してその結果を招くのなら、それは専門知の失敗ではない。むしろ市民の関与の失敗だ。

両者(専門家と有権者)の信頼の上に民主主義が築かれる。

トランプの専門家に対する嘲笑は、昔からアメリカ人が抱いている、専門家や知識人は一般の人々の生活に口を出し、しかもそれがひどく下手くそだという確信に上手く働きかけた。(中略)しかし最終的にトランプが当選したことは、もっとも最近の――もっとも高らかに響く――トランペットの音であることは間違いなく、それは迫り来る専門知の死の先触れだ。

専門家と市民の関係は、民主主義国家のほとんどすべての関係と同様に、信頼という土台の上に築かれている。信頼が崩壊すれば、専門家と一般の人々の対立が生じる。そして民主主義自体が死のスパイラルに突入し、たちまち衆愚政治か、エリート支配によるテクノクラシーに陥りかねない。いずれも権威主義的な結末であり、現在のアメリカにはその両方の影が忍びよっている。

一般の人々は忘れがちだが、共和政体は、(中略)本来、知識をもつ選挙民――ここでのキーワードは「知識をもつ」だ――が、自分たちの代表者を選び、その人間が選んだ人々に代わって意思決定をする手段だった。

専門家は常に、おのれは民主主義社会と共和政府の主人ではなく僕であるということを肝に銘じておかなければならない。一方、主人となるべき市民は、みずから学ぶのはもちろんのこと、自分の国の運営に関わりつづける公徳心のようなものを身につける必要がある。一般の人々は専門家なしでやっていくことはできない。この現実をわだかまりなく受け入れるべきだ。同時に専門家たちも、自分たちにとっては自明の理に思えるような助言でも、彼らと同じものに価値を認めない民主主義においては、かならずしも受け入れられるわけではないことを納得しておく必要がある。さもなければ、民主主義とは、根拠のない意見に対して労せずして得る敬意を際限なく要求する制度として理解されるようになり、民主主義および共和政府それ自体の終焉を含めて、何が起きてもおかしくない。

引用ばかりになってしまった。全体を通して内容的には「あぁ確かにそうだよな」ってことばかりでセンセーショナルなことはないのだが、その書きっぷりが刺激的で痛快な本ではあった。

最後に、主要ではないが納得してしまった箇所をおまけで引用しておく。

リベラルアーツをけなす人々は、実際には、大学を職業訓練校にしろと主張していることが多い。

検索ウインドウに言葉を打ち込むことはリサーチではない。

たとえば、一人の科学者が遺伝子組み換え生物(GMO)は安全だと言い、一人の活動家が危険だというトークショーは、一見「バランスがとれている」ように見える。しかし現実には、それは馬鹿馬鹿しいほど偏っている。なぜなら科学者の一〇人に九人はGMOを食べても安全だと考えているからだ。

専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]
専門知は、もういらないのかーー無知礼賛と民主主義(専門知は、もういらないのかーー無知礼賛と民主主義)[トム・ニコルズ]【電子書籍】

僕はやっぱり英語ができない – [a-z]*venue

venue(会場)とavenue(通り)とrevenue(収益:費用を引く前の収入のことらしい。収益から費用を引いたものが利益profitとか言われても……)が綴りが似ていて嫌。avenueはまだ耳目に触れるのでいいけど、venueとrevenueは出会うたびにいつも迷いが生じる(英語のできる人にとっては全然違うんじゃんかと突っ込むのだろうが)。venueはplaceじゃダメなのか?とか思う。revenueなんて日本語でさえビジネス関係の話題でもないと使わんぞ。社会人として経営会計の基本くらいは知っておくべきなんだろうけれども、ラフはその方面ではポンコツなので実務の言葉は(日本語であっても)ひどく苦手なのだ。

「annual revenue」とか出てきても、「(神社とかの)例大祭会場?」とか思っているうちに「何言ってんだ?」状態に陥っている。(年収とか歳入の意味だってさ)

venueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
avenueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
revenueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

読了:ギリシア人の物語3 新しき力[塩野 七生]

夢見るように、炎のようにー永遠の青春を駆け抜けたアレクサンダー大王。32年の短くも烈しい生涯に肉薄した、塩野七生最後の歴史長編。

第1部 都市国家ギリシアの終焉(アテネの凋落/脱皮できないスパルタ/テーベの限界)/第2部 新しき力(父・フィリッポス/息子・アレクサンドロス/ヘレニズム世界)/十七歳の夏ー読者に

塩野は歴史長編に関してはこの作品で最後にすると宣言(誤解のないように言っておくとまだ存命です)。最後はどうしてもアレクサンダー大王を書きたかったんだな。塩野は「自分の好みの男性像」というのが結構はっきりしていて(彼女のエッセイにも「男はこうあって欲しい」というのがよくあって、スマートにずるがしこい男が好きらしい)、中でもカエサルとアレクサンダー大王は常に別格扱い(ローマ人の物語全15巻もそのうちの2巻をカエサルにあてるほど)。

ギリシア人の物語1と2の感想は以下参照。

読了:ギリシア人の物語(1)[塩野七生]

読了:ギリシア人の物語2 民主政の成熟と崩壊[塩野 七生]

ギリシア人の物語の最後は、ペロポネソス戦争後から。ペロポネソス戦争に負けたアテネを盟主とするデロス同盟は崩壊し、アテネは見るも無残に凋落。とはいっても、哲学の分野に関してはソクラテスが、そして弟子のプラトン(アテネ郊外にアカデメイアを)、さらにはアレクサンダー大王の家庭教師になるアリストテレス(この人はマケドニア人だが、アテネ郊外にリュケイオンを)と続いている。ペルシアからの経済的支援を受けていたスパルタはペロポネソス戦争で勝ったとはいえ、スパルタは独自の路線を貫き孤立していく。都市国家のテーベなどが一時的に興隆するものの、その後に台頭したのはオリンポス山の北側に位置したために同じギリシア人からも半バルバロイと呼ばれてきたマケドニア王国(都市国家ではないうえに、古代オリンピアにも長らく参加を認められてこなかった)。

マケドニア王フィリッポスによりスパルタを除くギリシアはもう一度まとめられていき、その息子アレクサンダーによりペルシア遠征がはじまる(アレクサンダーはこの遠征を第1巻で述べられたギリシア本土で戦われたペルシア戦役の延長ととらえていたようだ)。ギリシア対岸の小アジアだけでなく、シリア、エジプト、そしてペルシアの中枢メソポタミアを制し、アケメネス朝ペルシアは滅亡、さらにはペルシアの後背地であるインダス川まで進む。このアレクサンダー大王の東征と戦闘(戦争ではない)の描写がべらぼうに読ませる(塩野のアレクサンダー愛はすさまじい)。そして若くしてアレクサンダー大王が亡くなってしまうと、その後彼の部下やその息子たちによる混乱により、ギリシアおよびアレクサンダーにより征服された地域は、セレウコスのシリア、プトレマイオスのエジプト(エジプト最後の王朝はエジプト人ではなくギリシア人の王朝なのだ。「クレオパトラ」という名もギリシア上流階級の女性に多い名前)、そしてアンティゴノス一族のマケドニアを中心として分割されてしまう。しかしこの時代にはヘレニズム文化が花開く。

アレクサンダー大王が画策したペルシア人との民族融和政策は途絶え、これを多民族融和政策として継承し成功を収め大帝国を築いたのは後のローマ人だったのだ。

ギリシア人の物語3 新しき力[塩野 七生]
ギリシア人の物語III 新しき力(ギリシア人の物語)[塩野七生]【電子書籍】

読了:偶然仕掛け人[ヨアブ・ブルーム/高里 ひろ]

指令に基づき、偶然の出来事が自然に引き起こされるよう暗躍する秘密の存在、「偶然仕掛け人」。新米偶然仕掛け人のガイは、同期生のエミリー、エリックと共に日々業務をこなしていた。しかし、ある日何とも困惑する指令が届く…。もしもあの時の出会いが偶然じゃなかったら?もしも誰かが自分の人生を操っていたとしたら?そんな“もしも”を物語にした、イスラエル発のベストセラー作品。

去年の初夏に、邦訳が出て話題になったときに買ったものの積読にしていた本。ようやく読んだよ。すごくおもしろかった。邦訳が出て1年の現在楽天ブックスでは取り扱いがなくなってしまっている。買っておいてよかった。(楽天の他のショップではまだ扱っているところはあった。Amazonでも一時在庫切れ。英語版はKindle版を含め手に入るよ。The Coincidence Makers: A Novel (English Edition))

日常生活で起こる様々な出来事は、偶然仕掛け人という存在によってすべて導かれているとしたら?3人の若い偶然仕掛け人同期生の仕事ぶりと交流を軸に、主人公の一人ガイの忘れられない恋や、ある暗殺者の人生などを絡めて展開される。

世の偶然は実は仕組まれているという発想はありきたりかもしれないけれども、結構面白くまとめてある。「偶然仕掛け人に対しても偶然を仕掛ける別の偶然仕掛け人がいるのか?」という疑問を持って途中で退場してしまうエミリーも含め(=実はこれがカギだった)、最後にはすべての話が収束していきハッピーエンドに。若干最後は輪廻転生スピリチュアル系に走った甘ったるい恋愛ものに陥ってしまったけれども、それでもなかなか楽しい小説だった。

偶然仕掛け人[ヨアブ・ブルーム/高里 ひろ]

読了:家庭用事件(市立高校シリーズ)[似鳥鶏]

こんなはずじゃなかった!?
事件に満ちた葉山君の学校生活を描く、〈市立高校シリーズ〉短編集。
市立高校に入学した頃は、こんなにも不可思議な事件に巻き込まれ、波瀾万丈な学校生活を送ることになるとは、僕は想像だにしていなかったーー。『理由あって冬に出る』の出来事以前に、映研とパソ研との間で起こった柳瀬さん取りあい騒動を描く「不正指令電磁的なんとか」。葉山君の自宅マンションで起こった怪事件「家庭用事件」。葉山君の妹・亜理紗の学校の友人が遭遇した不可解な引ったくり事件から、葉山家の秘密が垣間見られる「優しくないし健気でもない」など、全五編。

不正指令電磁的なんとか/的を外れる矢のごとく/家庭用事件/お届け先には不思議を添えて/優しくないし健気でもない

市立高校シリーズの最初「理由あって冬に出る」の初版が2007年10月31日。で今回読んだ「家庭用事件」の初版は2016年4月28日。なんだかんだと10年ほどで7冊続いたシリーズで(今後も続く予定とあとがきには書いてあった)、一応季節(年月)は進んではいるんだけれども、主人公の高校生葉山君が1年生の冬頃から始まって1年にも満たない期間じゃないかなぁ(話によっては必要に応じて過去だったり1年先だったりするけれども、本筋の進行としてはそのくらいしか進んでいない)。今回は、その間をカバーする期間に起こった小さめ事件の短編集。「家庭用事件」っていう短編タイトルを代表させたように、出てくる事件がどれもちっせぇよ、しょぼいよ(現実ならびっくりなのに強制的に小さくまとめてしまっている感のある事件もあるが)。いわゆる北村薫的・加納朋子的な「日常ミステリー」ではなく、あくまでも日常で起こった出来事を事件として取り上げることにこだわったためかどことなくちぐはぐ感。

wikipediaの「日常の謎」の項

基本的に、このシリーズの主人公の葉山君はワトソン博士的立ち位置で、シャーロックホームズは伊神さんという先輩なのだ(第1作で大学受験直前の3年生で第2作目で高校は卒業して、以後は大学生になっていて事件解決のために母校を訪ねてくる)。そして今作でも葉山君の親友三野君が相変わらず誰かのために黙って余計なおせっかいをすることで犯人になっちゃってることが多い。最後の話では、シリーズ中にもしばしば顔を出していた葉山君の妹が「実は……だった」というのは衝撃的。このシリーズのどっかに伏線あったか?(言わなかっただけで嘘はついていないってやつか……)

あとがきでは、相変わらず好き勝手に妄想ぶっこいてますが、困ったらトイレットペーパーを買い占めてしまう日本人への言及は、2016年の時点で書かれたことを思うと「予言か」と(もっとも、著者は震災を踏まえて書いているのだが)。

家庭用事件 (創元推理文庫) [ 似鳥鶏 ]
家庭用事件(市立高校シリーズ)[似鳥鶏]【電子書籍】

演奏会映えする変態ピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」

ピアノソロの場合であっても、右手と左手が交差する箇所がある曲というのは見栄えが豪華になる(その曲の持つ芸術性とは別にパフォーマンスとして)。今日はローゼンブラットという作曲家の(ピアノ弾きの中では)有名なピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」を紹介しよう。

その前に、連弾とは何ぞや。日本語で「連弾」という場合、1台のピアノの鍵盤を前に、二人の奏者が並んで演奏するアンサンブル形式を指す。高音担当(鍵盤に向かって右側)をPrimo(イタリア語で第1奏者)、低音担当(鍵盤に向かって左側)をSecondo(イタリア語で第2奏者)と呼ぶ。ちなみに英語では連弾は「for 4 hands」と表記される(4本の手のための)。概して連弾はPrimoは旋律担当、Secondoが伴奏担当になってしまうことが多くなるのだが、どちらが技術的に難しいかというとほぼSecondo。音楽の土台を作り曲を支配するのはほぼSecondoの役割として与えられることが多いのだ(ちなみにペダルの操作も通常はSecondoが担当)。よって、多くのピアノ教室の発表会では、先生がSecondoを担当し、生徒がPrimoを担当するという形式がしばしばみられる。まぁ中にはラフマニノフの「6つの小品」のようにPrimoの譜面の方が真っ黒という作品もあるが。

さらに、もうちょっと先に進むよ。1台のピアノの前に3人の奏者が並んで演奏する場合これを「6手連弾」と呼ぶ。1台の前に3人が並ぶとかなり狭いしそれぞれにかなり演奏しにくくなる。この形式でもっとも有名なのはラフマニノフの2つの小品であろう(ピアノ協奏曲第2番を思わせるというか酷似箇所あり)。英語表記では「for 6 hands」。

一方で、1台のピアノは独りで担当するのだが、それを2台のピアノでやる演奏形式がある。この場合適当な和訳語がないためか明確に「2台のピアノのための」と表記される(略して「2台ピアノ」)。英語で「for 2 pianos」といえばこの形式。当然、ピアノを3台以上使う形式も考えられるけれども、ピアノを一度にたくさん用意するのは大変だし、演奏スペースもとるしで、3台以上の作品はあまりない(あるにはある)。

また、連弾と2台ピアノの組み合わせとして、通常の1台4手連弾を2台のピアノでやる演奏形式というのもあって、これを「2台8手(for 2 pianos 8 hands)」と呼ぶ(つまりピアノ2台に奏者が4人)。

(連弾と2台ピアノとどちらがどのように面白いのかという話はまた別の機会があれば述べようかと思う。ラフは20代のある時期、ソロよりもピアノだけのアンサンブルばっかりやっていた)

通常、楽器は個人持ちの楽器を演奏会場まで自分で運んで個人の楽器を演奏するものだが、ピアノは通常個人持ちの楽器をホールに持って行って演奏するということはまずない(どんなプロ奏者であっても。強いて言うなら自分専属の調律師を連れて行く)。ピアノの場合通常は会場付帯の楽器を使うのだ。どこのホールでもちゃんとしたホールであれば、最低2台はピアノ庫にピアノがしまわれている(少なくともそのうち1台はスタインウェイが望ましい)。

さて、ローゼンブラット作曲のピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」。ピアノデュオ作品による第5回作曲コンクール(1999-2000)(このコンクールはピアノデュオでも活躍された児玉夫妻がはじめた、日本で開催される国際コンクールで、作曲部門と演奏部門が隔年で開催され、作曲部門で受賞した曲が翌年の演奏部門での課題曲になる)において、ローゼンブラットが特別賞・毎日新聞社賞を受賞した作品。有名なロシア民謡の「カリンカ」(テトリスの音楽だ!)と「モスクワ郊外の夕べ」を組み合わせた、ジャズ的要素も多分に含む、ヴィルトゥオーゾ作品。日本では「二人羽織」とも呼ばれる見ていても楽しい曲。ピアノ連弾の演奏会向け「映え」レパートリーとして重宝されている。いくつか演奏動画を紹介しておこう(二人羽織の見られるところのタイムも)。


6:36あたりから、primoがsecondoを後ろからまたいで演奏する。


5:57あたりから、secondoがprimoを後ろからまたいで演奏して、やがてsecondoがprimo担当に役割交代する。


6:00あたりから、secondoがprimoを後ろからまたいで演奏して、やがてsecondoがprimo担当に役割交代する。ラフ個人的にはこの演奏が一番エキサイティングで好み。

最後に作曲家ローゼンブラットご本人自らの演奏もご紹介しておきます(動画のsecondo担当がローゼンブラット)

ローゼンブラット / Rosenblatt, Alexander – ピティナ・ピアノ曲事典

また、2台8手のための「日本の主題による幻想曲」というものも作曲している。
A. Rosenblatt. Fantasia on Japanese Themes for 2 pianos 8 hands.

読了:日本人の英語(続)(岩波新書)[マーク・ピーターセン]

アメリカ人は日本人をthe Japaneseというのに、自分たちをthe Americansといわず、Americansというのはなぜだろう。「読めるけれど書けない」とよく言われる日本人の英語だが、どこまで的確に読み取っているのだろう。楽しい文例と徹底比較を通じて英語の新しい世界を広げてくれる、ベストセラー『日本人の英語』の待望の続編。

1 小指に結んだ赤い糸/2 ここはカンザスじゃないみたいよ/3 花椿と赤いねこ車/4 ぼつぼつ寝ませんか/5 心の揺れから生まれる言葉/6 ことばの情景

前作では日本人の書く英語論文を添削する英語ネイティブの経験から感じたことの小論が中心だった。

読了:日本人の英語 (岩波新書) [ マーク・ピーターセン ]

今作は、書く方は前作で述べたから、じゃ今回は読む方。日本人がネイティブの使う英語のニュアンスをどこまでくみ取れているかということを取り上げていく軽めのエッセイ集(なので前作よりはるかに親しみやすく読みやすい)。いわゆる英文法の教科書には書いていないところまで踏み込んだ、冠詞の使い方に始まり、ゲルマン系の短い動詞と前置詞や副詞を組み合わせた多様な表現の使い分けなど、事細かに英語ネイティブの感覚を説明していく。大切なのは文脈でどういう使い分けがされるのかという点なのだ。日本人がさっと読み流してしまう英文であっても、英語ネイティブはそこでどういった印象を受け取っているのかなどおもしろい。日本人の英語理解だけでなく、反対に英語ネイティブが日本語に対してどう感じているのかなども、英語から日本語、また日本語から英語への、映画の字幕訳や文学作品の訳の違いなどから例を挙げて具体的に説明が供される。言語にはそれぞれのネイティブの文化が根差していることがわかる。

川端康成の「山の音」の作品で限られた範囲に登場する各登場人物がそれぞれに使う複数ある「やさしい」という言葉(日本語ネイティブなら同じ単語だけれどもシチュエーションによって意味しているニュアンスがちょっとずつ違うことは感じ取れるし、場合によっては同じ言葉だけれども意味をあえてずらして解釈しておかしみを出す効果などもある)を、ある著名な英語訳ではどのように訳し分けているのか。一方で日本語では「分からないわ」と「知らないわ」では受ける印象が違うが、英語ではどちらも「I don’t know.」が普通だ(そうはいっても文脈からその違いは英語ネイティブだってちゃんと捉えている)。

日本語と同じように冠詞のないスラブ系ネイティブの英語初心者は冠詞を抜かして「I read book yesterday.」とか言いがちだそうだが、それだと英語ネイティブにとっては「どの本だよ」と突っ込むわけだし、一方で冠詞のルールが厳密なフランス語ネイティブだと「I play the tennis.」とか言いがちなんだって。それはもうそれぞれの言語(ひいては文化)の違いがあるのだから、そういうことが起こるのは仕方のないことで初学者のうちは間違えて当然なもんだと。でも、どの言語であれその言語を学ぶのであれば、きちんと意図を感じとって伝えることのできるようにしたいものだ。というわけで結論は前作と同じで、自然な英語に習熟するためには興味のある分野でいいから徹底して多くの実例にあたって学んでいくしかないよと。

それにしても、この著者の日本語の能力はすごい。自身の日本語の能力を謙遜してはいるのだが、一般生活者としての日本人でさえそんな細かい違いまできちんと認識していないぞ(場合によっては日本人なのに日本語に不自由だったりする人だっているぞ)というようなことまで、誤解のないように丁寧でしっかりとした日本語を駆使して日本人相手に日本語の文章で説明するのだから舌を巻く。

日本人の英語(続)(岩波新書)[マーク・ピーターセン]
続 日本人の英語(日本人の英語)[マーク・ピーターセン]【電子書籍】

技術用語としての「レガシー」と「枯れた」もの

 東京オリンピックは延期されましたが、競技場だのなんだのを作る口実として盛んに「レガシー」という言葉が使われておりましたね。次の世代、未来へ残すに値する将来も活用できる「遺産」としての建造物を作ろうという狙いで(実際にそういう意図が本当なのかお題目なのかは知りませんが)。

 IT業界には「レガシーシステム」という言葉があります。これは概してネガティブな印象を受ける言葉で、むしろ時代遅れの「負の遺産」という感じです。昔々のメインフレーム時代に構築された基幹システムであることが多く、今でも銀行系のシステムはこれで動いているとか動いていないとか(ラフはへなちょこなので、シビアなお金と命がかかわるシステムには怖くて関わりたくない)。レガシーシステムをモダンな技術に移行する legacy migration というのがそういう企業のIT命題だったりもするわけです。でも、何とかしたいと思っても不用意に手のつけようがなくて手をこまねいてしまうものでもあったりして、うかつに移行プロジェクトに関わるとデスマーチに巻き込まれたりひどい目に遭う場合があります。

レガシーシステムとは – 意味の解説|ITトレンドのIT用語集

 IT業界では「枯れた技術」という言葉もよく使われます。これはどちらかというとポジティブな言葉です。一般的には「オワコン(終わっているコンテンツ)」みたいな印象を受けるかもしれませんが。「枯れた技術」とは、「広く使われてきたので、その知識や活用法のノウハウが十分に蓄積されているため、安心して使える技術」という感じなのです。

枯れた技術 – Enpedia
枯れた技術こそ、安定する。 | 情報を見極める力がつく30の方法 | HAPPY LIFESTYLE

ボタン逆じゃね?

家の卓上にあるBluetoothスピーカーに曲送りと音量調整のボタンが付いている。いや、付いているのは当たり前なんだろうけれども、ちょっと違和感があるのだ。

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こんな風に2つのボタンが向かって左右に並んでいるのだが、軽く1回押す場合は、左側のボタンが前の曲に戻る、右側のボタンが次の曲に進むなので、まぁ普通だろう。長押しする場合は音量の調整ができるんだけれども、なんと左側のボタン長押しが音量大、右側のボタン長押しが音量小なのだ。この音量の調整の役割逆じゃね?左が音量小、右が音量大っていうのが感覚的にわかりやすいインターフェースなのではなかろうか?これって設計ミスでは?どうも違和感を感じて仕方がない。慣れれば問題ないんだろうけれども。