読了:ホモ・デウス 上・下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。『サピエンス全史』の著者が描く衝撃の未来。生物はただのアルゴリズムであり、コンピュータがあなたのすべてを把握する。生体工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。人類はどこへ向かうのか?

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラーになった前著「サピエンス全史」に続く、人類の行く末の考察。人類の行く末の考察といっても、本著の基本となっているのは歴史的なイデオロギー(宗教)の変遷と、未来の人類の行く末を決定づけるであろう現代科学(バイオテクノロジーとAI)。歴史書というよりも、学術風人類史エッセイ。前著「サピエンス全史」の最後は、人類は有機生命体を脱して電脳空間へと意識のみを移す進化を遂げる可能性があるというびっくりのSF着地だった。さて、今度はどうなるか。ちなみに「サピエンス全史」を読んだ時の感想文はこちら。

読了:サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]

 ユヴァル・ノア・ハラリって功成り名遂げた学者かと勝手に思っていたけれども、1976年生まれだというから、ラフより年下だったのね。歴史学者だけれども、進化生物学者的な科学的視点も多くあるところがおもしろい。

 現生人類(ホモ・サピエンス)はホモ・デウス(「デウス」は神の意)に進化するのか、2001年宇宙の旅のスターチャイルドみたいななにかに?(表紙の絵から連想)なんて読み始める前は勝手に思っていたけれども、違いました。

 現時点(21世紀初頭)で人類が克服したものとして「飢饉」「疫病」「戦争」が挙げられる。すっかり解決できたわけではないものの、対処可能な課題に変わったのだ。そして、これからの人類は「不死と至福と神性を目指して進む」のだろうという仮定のもとにストーリーは進む。

 さて、人類も動物であるのだが、なにが人類と他の動物を異なるものとしているのかという点から始まる。動物にも意思(事態の予測さえ可能)と思しきものを持つ種もいるのだ。ただ人類は、実在しないものである概念(神(宗教)、国家、貨幣価値、企業)、そしてそれを他者と共有し協力することが可能で(ん?なんかそういう本を最近読んだぞ?)、これが人類を特別な存在にしたのである。また時間空間を超えて伝える手段である書字さえ身に着けたのだ。

 原始的なアニミズムからやがて体系だった宗教というものを生み出した。人は「神」(あるいは神の意志を伝える権威をもった教皇や皇帝、王など)が命ずるからそれを自身の生きる指針とした時代が科学革命の時代まで続く。そして啓蒙主義の時代に入り、誰もが個別に持っている個人の意思というものが重視される人類至上主義の時代に変わる。「神は死ん」で、「私がそう思う(感じる、考える)からだ」ということを明言する時代になったのだ。そして20世紀に自由主義というものが主流になるのであるが、ここにおいて人類至上主義の極端な進化形である「ファシズム」と「共産主義」も生み出された(ただし既知のようにこれらは失敗している。なぜ失敗したかの考察もされているが、失敗したのに「進化」という点に注目)。

 現在、科学界を席巻している技術は生物学(本著では主に進化学と脳科学をさしているようだ)と人工知能(いわゆるAI)である。これらの研究により、私たちが「意識」と呼んでいるものの存在が科学的に研究されるようになってきた。人類至上主義、自由主義の根拠となっていた「自己」の「自由意志」というものの正体はなんなのか?最近の研究によると生物はアルゴリズムにより動いているに過ぎないのだと。そのアルゴリズムから生まれるのが「自己」という意識であって、つまりは「自己もまた想像上の物語」ということもいわれるようになった。生命現象(事実)としてそうなのであって倫理的にどうかということは問題ではないのである。

 こうして時代は人類至上主義から情報(データ)至上主義の時代へと移行を始めている。ネットワーク(インターネット)上に自分の情報をどんどんアップロードすることにより(もちろんプライバシーを提供することに同意することが前提だが)、自分よりも自分のことを知っていて、より適切に自分の人生の指針(結婚相手や仕事など)を判断して示してくれるアルゴリズム(システム)が登場するだろう(現にSNSの時代とはこういうものじゃないか?)。それで十分幸せな人生が送れるのであれば「プログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?」。システムにとっては、人類は情報の提供をするだけの存在であり、翻ってそういう人類に人生の指針を与えるというシステムの存在の意味はなんなのか?人類はそういうものを作り出すことを目指しているのか?

 こういう未来展望にひっかかる読者がいれば、これでいいのかどうか、ぜひ考えてほしい。それが本書の意義であるという締めくくりであった。

 ホモ・デウスとは結局何なのか。ラフがどうとらえたかというと、人類を人類たらしめた要素は未来においてシステム(本書でいうところのアルゴリズム)に代替されうる、このシステムこそがホモ・デウスではないのか(ホモ・サピエンス自らのアップデートではなさそうだよ。つまり人類の進化的後継ではない)。

 脳科学の研究を踏まえた「生物はアルゴリズムであり自己なんてものは幻想」という考察はちょっと強引な気がする。確かに脳の活動原理が電気信号と化学物質による情報伝達でありそれが複雑なネットワークを形成しているということはわかっている。でも、どういう情報(刺激)によって、何がどのように作用して出力(行動や意識)が生み出されるのかの仕組みはまったくわかっていないのだ(こういう刺激により脳のこの部分が活動しているからおそらくこの部分が関わっているだろうという程度のことは推測されている)。このわかっていない部分こそが著者の言うアルゴリズムじゃないの?それは全然明らかになっていないし、それを人類が理解できる言語化つまりロジックにするのは現段階では不可能。ここの展開を読んでいて思ったのは「シュレーディンガーの猫」っぽいなぁってこと。ミクロレベルの量子力学の話を、マクロの物理学に持ってくると、おかしな事態になるっていうたとえ話が「シュレーディンガーの猫」なんだけれども、これの脳科学版を読んでいる気もするのだ。レベルの違うことをアルゴリズムという語で強引に引き寄せて結んでしまい論展開が飛躍している。かつて一世を風靡した「生命機械論」を彷彿とさせる面もあるなぁ。

 まぁ、本著でもAIのシンギュラリティーはやってくるって前提で話が進んでいるんだけれども、ラフが思うに現状の科学の延長上にはシンギュラリティーはやってきそうにないよ。当分どころかずっとね。シンギュラリティーがやってくるとしたら、まったく異なるとんでもない発想の転換とイノベーションが必要だろうねぇ。

ホモ・デウス 上[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
ホモ・デウス 下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

以下のような記事もありましたので(以前retweet済み)、紹介しておきます。

読了:科学 vs. キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]

「天地創造」は6000年前、アダムはすべての人類の祖…「常識」は、いかに覆されたか?知の大転換のプロセスをスリリングに描く!

聖書(主に旧約聖書の創世記)に縛られた普遍史(聖書的時間)から科学的歴史へと歴史観が変わっていく様子を、ニュートンの時代(科学革命の時代)から概説する。ヨーロッパが囚われていた聖書の呪縛がいかに強力であったかがわかる。

まずはデカルト、ニュートンの時代(科学革命の時代とされるが)。それまでは世界(宇宙)は神によって作られ、神自らによってあまねく制御されていると考えられてきた。しかしここにおいて世界は神によって作られたが、その後万物は神によって作られた自然法則によってなる世界にリリースされたのだという考え方が登場した。自然法則を明らかにするということは神の作った法則を明らかにするという発想。ニュートンがまとめた運動の法則や万有引力(重力)も神の法則を明らかにしたもので、ニュートン自身は天地創造を疑っていなかった。なにしろ世界は天地創造から約6000年と考えられていたのだ。

次に分類学の祖リンネ。神が作りたもうた完全なる世界(創世記にあるようにすでに生物はすべて完成している)の生物を分類しようという試み。新世界の知見が広く知られるようになり、それをいかに分類するか。とりわけ人類の分類。ヒトに近いサルと、サルに近いヒト、世界各地に伝わる伝説の生き物、これらをどう分類していくのか。

続いて啓蒙主義の時代。ここにおいて聖書時間に支配された普遍史(聖書の記述に基づいた歴史)から人文科学としての世界史の成立。年代表記も創世紀元からキリスト紀元へ。天地創造の時期と人類の誕生の時期の分離。信憑性のありそうなエジプトや中国の古代史が聖書の記述では説明できないことが分かってきたのだ。聖書に対する追随的合理化から批判的合理化の始まり。

そして、19世紀に登場したダーウィンの進化論や地質年代の研究により、実は地球の歴史はもっと古かったのでは?どうしても絶対的な長い時間が必要になるのだ(少なくとも数億年)。しかし当時の権威とされるケルビン卿(熱力学第2法則をまとめたり、絶対温度の単位に名を遺す)により最大1億年(数千万年程度が妥当と)という枠に縛られる。

第2次大戦後になってようやく放射性同位体を使った正確な地質年代が求められたのである。地球の年齢は46億年と。

科学vs.キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]
科学vs.キリスト教 世界史の転換[岡崎勝世]【電子書籍】

「ゲーム・オブ・スローンズ」を観て、「神」と「神々」をおもう

 最近、流行りのドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を観はじめた。まぁまぁおもしろい。世界観的には中世ヨーロッパをモデルにしているようなのだが、中世ヨーロッパといえば「キリスト教(一神教)」の世界である。しかしこの劇中では基本的には多神教世界なのだ。劇中に「光の神」のみを崇める一神教が登場するのだが、こっちの方がかえって異教的に見える効果を生んでいる。

ゲーム・オブ・スローンズ|ワーナー・ブラザース
wikipediaの「ゲーム・オブ・スローンズ」の項

 ラフは基本的には無宗教者なのだが、それでも思想信条的には多神教というかアニミズム的なすべての自然に神々が宿るみたいなものを自分自身のバックグラウンドとして持っていることを認めるにやぶさかではない。もっとも誤解がないように言っておくと、だからといって自然のあらゆるものに実際になんらかの魂なるものが宿っているということを事実とすることには否定的である。

 さて単数形・複数形を厳密に区別しない日本語環境、多神教的なるバックグラウンドにいると、「神」と「神々」は単に単数形・複数形の違いだと思いがちである。一神教というものを誤解してしまいやすいのだ。「神」とは多くの「神々」を統合していっていろんな能力・機能が1つになったものでは?と思ってしまうのだ。神々が統合されたものが神なんでしょ?と。「神」とは根本的な唯一絶対の真理そのものである至高の「存在」なのである。日本語で「八百万の神」なんて言うように「神」といっても「神々」だという認識も平気でできてしまうが、単数形・複数形を持つ言語の人々にとって「神」と「神々」とをいい加減に使い分けることはありえない。ましてや一神教を信奉する人にとって「神々」となるとそれは異教(邪教)のことなのである。

読了:物語イスラエルの歴史 アブラハムから中東戦争まで (中公新書) [ 高橋正男 ]

先日似た内容の本を読んだ。

読了:物語エルサレムの歴史 旧約聖書以前からパレスチナ和平まで (中公新書) [ 笈川博一 ]

今回の方も「物語」とついているけれども、こちらは物語というよりかは歴史文献や考古学の知見も多く、より学術的。文章もすっきりとしていて読みやすい。ただ、中東戦争あたりは現地のルポ的な要素がある、前に読んだ本のほうが読み物としては面白かったかも。

ユダヤの聖地、キリスト教の聖地、イスラムの聖地であるエルサレムの位置付けを世界史の中でとらえる通史としてとても面白く読めた。ユダヤの自覚とユダヤ教の芽生えはバビロン捕囚の時だったんだなとあらためて昔習ったことを思い出したよ。そして第1次世界大戦前後からのシオニズム、ユダヤとパレスチナ、アラブの動き。列強の思惑と干渉。現在に続く中東紛争の概要をつかむのにも適している。

物語イスラエルの歴史 アブラハムから中東戦争まで (中公新書) [ 高橋正男 ]

読了:ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ]

カペー朝に続くヴァロワ朝の歴代フランス王の紹介。カペー朝からヴァロワ朝への移行はどういうものだったのかという前書きがおもしろい。カペー朝は父親から息子へと直系男子でつながっていった王朝。その最後に男系が途切れてしまい傍系のヴァロワ伯シャルルが継いだものがヴァロワ朝。だからそんなに突飛な王朝ではない。むしろわざわざ王朝名を改める必要があったのかさえ疑問。傍系が王位を継ぐという出来事は実はヴァロワ朝の途中で2回起こっている。ところがこれはヴァロワ朝交代とはみなされていない。なぜか?ヴァロワ朝第三代王シャルル五世が王位継承について明文化したためであろう。

ヴァロワ朝は、この王位継承に関してイギリスともめたことから始まる。イギリス王エドワード三世は、カペー朝の女系を挟んだ直系の孫であることから、フランス王位を主張したのだ。ここに英仏百年戦争が始まる。百年戦争の末期にはジャンヌ・ダルクの登場、そしてルネサンスの時代へ。同時期の大航海時代に現在のカナダへ進出、宗教改革が起こると新教徒とのユグノー戦争と主要な出来事がてんこ盛りの王朝。カペー朝では有力な豪族の一つであったフランス王が、フランス王国の王たる地位を確固たるものにしていく時代なのだ。

歴代の王の紹介が駆け足で進むため、歴史ドラマを追うよりかは、こういう出来事がありましたという感じ。ところどころ地図は挿入してくれるのだけれども、いかんせん少ないので、フランスに疎い自分には大量のフランスの地名を押さえるのに苦労。人名も相当大変。

十五世紀の末にはシャルル八世が子なくして隠れ、王位はオルレアン公ルイのものとなった。オルレアン公家の祖はシャルル五世の第二王子で、シャルル六世の弟のルイである。シャルル八世からすれば、三代前に本家から分かれた分家の当主が、オルレアン公ルイなのである。

前書きの一節だけれども、シャルルとルイだらけで、一読しただけでは誰が誰か抑えきれない。さて、実際にここに登場している人物は何人でしょう。

母のルイーズ・ドゥ・サヴォワにはアングーレーム伯領、アンジュー公領、メーヌ伯領、ボーフォール伯領を、姉のマルグリットにはベリー公領の年貢収入を、その夫で義兄のアランソン公シャルルにはアルマニャック伯の旧領とノルマンディ州総督職を、叔父のルネ・ドゥ・サヴォワにはプロヴァンス・セネシャル職を贈り、まずは肉親に手厚く報いた。次が即位前から仕えた側近たちの番で、ポワシィ卿アルトゥス・ドゥ・グーフィエを宮内大侍従に、その弟のボニヴェ卿ギョーム・ドゥ・グーフィエを提督に、ラ・パリス卿ジャック・ドゥ・シャバンヌを元帥に、ロートレック副伯オデ・ドゥ・フォワを同じく元帥とギュイエンヌ州における国王総代に、ブリオン卿フィリップ・ドゥ・シャボをボルドー市長兼守備隊長に、それぞれ抜擢してみせた。

それぞれの領地と役職と個人名を押さえるのは自分には無理。というかここで重要なのは個々の名ではない。これだけの関係者が一度に重用されたという点さえ理解すれば十分かと。

ヴァロワ朝のあとは、傍系の傍系であるブルボン伯が継ぐブルボン朝へと。絶対王政を極め、フランス大革命まで続く王朝。

歴史小説家で直木賞作家でもある著者の作品であるが、誤字、脱字が目立つ。ちゃんとチェックされなかったのだろうか?「汚名挽回」をプロがものした文章では初めて見たよ。直してあげなよ。

ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ]

この世界の片隅に

amazon primeで無料で見られるようになっていたので早速見てみた。評判に違わずとてもいい作品だった。一般市民にとっての戦争のありようをこういう風に描くこと、そしてそれが効果的なことに感嘆。ラストで家々に明かりが灯っているシーンがとても印象深い。

読了:科挙 中国の試験地獄 (中公新書) [ 宮崎市定 ]

この新書はすこぶる面白い。中国、隋の時代に始まり清朝末まで実施された有名な官吏登用試験「科挙」のエピソードを楽しめる。もっとも複雑化した清朝末の科挙を例に受検案内のような説明がある。どんな勉強をする必要があるか、受験資格は、試験は何年おき、どこで実施されるか、当日のスケジュールは、どんな問題が出るのか、解答用紙ならびに解答の仕方は、採点は誰がどのように行うのか、合格発表の方法は?こういったことが悲喜こもごものエピソードとともに紹介される。科挙を受験するために必要な資格を得るための学校の試験、そして実際の科挙試験があるわけだけれども、とにかくハードな試験なので当然のように不正が横行する。人生のかかった命がけの試験だけに受験者の不正、試験官の不正も相当なもの。それを防ぐためにどのような対策がなされたのか。そして実際的な中国人の思想が生んだ科挙の位置づけの落とし所とは?科挙のメリット・デメリットの考察まで。この本、1963年の出版なんだけれども、面白さはとっても現代的だ。

科挙 中国の試験地獄 (中公新書) [ 宮崎市定 ]

wikipediaの「科挙」の項

洒落たHの書き方?

異名同音(エンハーモニクス)というものがある。平均律で調律されていることが前提ではあるけれども、例えば「ドのシャープ」と「レのフラット」みたいな関係。楽譜に書いてある音は違うけれども、ピアノでは同じ鍵盤を弾くことになる。

さて、時たま「ドのフラット」というのが楽譜に書かれていることがあるわけですよ。当然、ピアノの鍵盤だと白鍵の「シ」を弾くことになるんだけれども。だったら最初から「シ」って書けばいいじゃない?って思う人もいるだろう。なんで、そんな書き方があるのかというと……。例えば、ハ長調の曲でドミソの和音(いわゆるメジャーコード)があるじゃない。こういう状況で第3音を半音下げて短三和音(いわゆるマイナーコード)にしたいときは、ミに対してフラットをつける。さて調が変わって変イ長調(フラット4つの長調)の世界では、主和音はラのフラット、ド、ミのフラットになるよね。ここで、この和音をマイナーコードにしたければ、第3音にフラットをつける。よってこういう場合に「ドのフラット」というものが出てくることになるのだ。つまり調性音楽における必然の理屈から出てくる書き方なのだ。

それなのに、あぁそれなのに……。自称「俺は音楽には詳しいぜ」というアマチュア作曲家の方が自身で書かれた楽譜に「ドのフラット」が書かれていたことがある。どう考えても、その意図されている展開からは「ド」をフラットにする理由がなく「シ」と書けばいいのではなかろうかという箇所でである。楽譜を難解にして読みにくくする嫌がらせだろうかとも思ったのだが、どうやら「俺は異名同音というものを知っているんだよ、ドのフラットは「シ」だから、「シ」をおしゃれに書いてみたよ」ということなのではないかと思ったり思わなかったり。

ダブルシャープ(ラフはダブルシャープを高校生になるまで知らず、楽譜の印刷汚れだと思っていた)やダブルフラットなんてものもあるけれども、これらはある音を半音上げたり下げたりしたいけれども、その音にはすでに調号としてシャープやフラットがついているって場合に使うことが多い。つまりは調性音楽だからこそ出てくる記号なのである。無調の音楽にはダブルシャープやダブルフラットは原則出てきません。

なんでダブルシャープをつけるの?その意味とは? | はんなりピアノ♪

19世紀初期の「ダブルシャープ」「ダブルフラット」攻略法 ピアノ曲事典 | ピティナ・ピアノホームページ

音楽をやるなら楽典って大事だよ。いきなり楽典の本読むのも大変だから、ある程度音楽経験を積んで、ちょっと余裕ができたらぜひ勉強してみてください。あ、そういうことだったのねってきっと思うから。

読了:オイラーの公式がわかる (ブルーバックス) [ 原岡 喜重 ]

「オイラーの公式」って知ってる?指数関数と三角関数が虚数を使うことで関連付けられている式。なんでこんな等式が成り立つの?この式の意味は何?って思うものだよね。それを、高校生でもわかるように説明しているブルーバックス。微分の定義からeを底とする指数関数、sin, cosの三角関数を微分するとどうなるか。そして、それらの関数をテイラー展開するとどうなるか。そうすると、公式が見えてくるんだよね。こんなシンプルにわかっちゃっていいわけ?ってくらい感動もの。この「オイラーの公式」の使いどころは、sin, cosは互いに影響しあう関数だけれども、それを1つの指数関数として扱うことができる、つまり計算が簡単になるという点。「オイラーの公式」についてのひとしきりの証明と説明が終わった後に、実際の応用として、振り子、交流回路、電場と磁場(マックスウェル方程式)の計算を軽くやってのけるのだが、この時にオイラーの公式でいかに計算が楽になるのかが実感できる。(説明すれば高校生でも理解できる内容ではあるけれども、一般的には大学の教養課程の最初のころにやるような内容)

「博士の愛した数式」という映画化もされた小説があるけれども、あの中にも登場していたなぁ。オイラーの公式の変数にπを入れた時の等式が(下記wikipedia参照)。

オイラーの公式がわかる (ブルーバックス) [ 原岡 喜重 ]

wikipediaの「オイラーの公式」の項

wikipediaの「博士の愛した数式」の項

読了:1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 [ デイヴィッド・S・キダー ]

1日1ページ(実はページ数は1日2~3ページ)で、世界の教養に触れられるという雑学本だ。月曜日は歴史、火曜日は文学、水曜日は視覚芸術(美術とか建築とか)、木曜日は科学、金曜日は音楽、土曜日は哲学、日曜日は宗教というテーマ。広く浅く、主に歴史に沿って各分野の各論が紹介される。あとがきにあるように、これで興味を持ったら、さらに本を探していろいろ読んでみてくださいねというあくまでも教養入門本。なので記事内容は初心者にもやさしく読みやすい(とりわけ豆知識はほぼゴシップ)。ある程度知っている分野に関してはあきらかに物足りない。書かれているテーマはほぼ欧米の歴史に沿ったもの。なかでもアメリカに関係あるものは多い。歴史において「建国の父たち」や「南北戦争」の話題が複数回取り上げられる。音楽では「アーロン・コープランド」に2回分も割かれている(なのに「ガーシュイン」と「バーンスタイン」は合わせて1回分にまとめられていたりもするが)。

視覚芸術のカテゴリは多くの建築や絵画が出てくるんだけれども、いかんせん図がほぼない本なので、どの建築や絵について解説しているのかがわからない。google画像で絵のタイトルなんかで検索しながら読むのがよいかと。

個人的に面白かったのは「文学」と「哲学」。「文学」カテゴリでは著者名とかタイトルはよく知っているけれども、内容はまったく知らない本とか、あらすじを紹介してくれているのは面白い。「ユリシーズ」ってそういう話だったんだ。メルヴィルの「白鯨」、「誰もが知っているけれども実際に読んだことがある人は少ないだろう」には「うんうん」とうなずいてしまった。自分も登場人物は知っていても読んだことないもん。「哲学」カテゴリでは、よく見かける言葉だけれども哲学では世間一般的な意味では使われていない言葉に面食らう。今使っている言葉の定義からきちんとやっておかないと議論もへったくれもないということを垣間見、「だから哲学って誤解されるのでは?」と思うことしきり。

1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 [ デイヴィッド・S・キダー ]