the summer solstice

 今日は夏至。北半球では一年で一番太陽が高いところを通る日(昼が長くなる)。昼間が長いと性欲が強くなるという説があり、夏至の日は北半球で人間の性欲が一番強くなる日になるのか。そうすると十月十日たった3月あたりの誕生日の人が多くなるはずなのだけれども、寡聞にして存じません。まぁ俗説でしょうね。

出産数(出生数)が多い月と少ない月は何月か・月別の出生率

 さて夏だ。「夏は来(き)ぬ」というよく知られた唱歌がある(といっても若い人たちは知らないかも)。歌の冒頭に「卯の花」とあるように卯月(陰暦の四月、現在の五月ころ)の歌だが、陰暦だと四月五月六月が夏なので、陰暦四月に「夏が来たよ!」ってよろこびを歌っている。夏至だと夏の盛りだから、今日この歌を取り上げるのはちょっと遅いか。

wikipediaの「夏は来ぬ」の項

 「夏が来たよ!」っていう歌なんだけれども、歌詞が(文語調)なので最後の「ぬ」を否定の意味にとってしまい「夏が来ない」と勘違いしてしまう人もいるだろう。上記wikipediaでも解説されているように、「来(き)ぬ」の部分を品詞分解(高校古典でやったよね)すると、カ行変格活用動詞「来(く)」の連用形に、完了の助動詞「ぬ」の終止形なので現代語だと意味が「来た」なのだ。

 ちなみにプラスアルファとして押さえておくならば、カ行変格活用動詞は「来(く)」の一語のみ(現代口語だと「来る」)。「来(く)」が連用形になっているのは、続く助動詞「ぬ」が連用形接続助動詞であるからで、また「夏は」の「は」は終止形を取る係助詞なので、最後の助動詞「ぬ」は終止形である。

 「来ぬ」を「来ない」という意味だと勘違いしてしまった人は、否定の助動詞「ず」の連体形の「ぬ」だと思ったからだろう。完了の助動詞「ぬ」の終止形と打消の助動詞「ず」の連体形はどちらも「ぬ」だがこの識別は試験(大学入試を含む)の定番。

 じゃ発展としてここからは試験には出ない古語作文。まず間違えてしまった人向けに打消の助動詞「ず」を使った「夏」が来るか来ないか問題は文語ではどうなるか。否定の助動詞「ず」は未然形接続助動詞なのでカ行変格活用動詞「来」の読みは「こ」になる。否定の助動詞「ず」が「ぬ」になるのは連体形なので、これで終わるならば係り結びの法則で連体形終止をとる係助詞があるはず。連体形終止をとる係助詞は強調の「ぞ」「なむ」に、疑問・反語の「や」「か」。

「夏来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏なむ来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

であろうか。

 ちなみに、元に戻って完了の助動詞「ぬ」を係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」と使うなら助動詞「ぬ」の連体形は「ぬる」。

「夏来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏なむ来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

 もっともそういう風に文法で決まっているからこういう解釈や意味だとするのは現代人のための手立てであって、本来的には「夏は来ぬ」で昔の人は文法なんて関係なく十分に意味が取れていたのだ。そういういろんな言い回しを系統だててまとめてみた後付けの体系が文法。

 参考までに強調の係助詞「こそ」を使う場合は已然形で結ぶので、完了の「ぬ」、打消の「ず」は次のようになる。

「夏こそ来(き)ぬれ」((まさに)夏が来た!)
「夏こそ来(こ)ね」((まさに)夏が来ない!)

本文中で「古文」「古典」「文語」、「現代文」「口語」という言葉を結構適当に使っているので、気が向いたら後で整理しよう。また文語作文の正確性は未検証。


「夏は来ぬ」をネットで機械英訳させてみた。

Google 翻訳

Summer will not come

「来ないよ」って未来の否定になっている。

Weblio 翻訳

I do not come in the summer

主語が自分になってる。「私は夏には来ない(行かない)」って感じか。

文脈なしの文語調日本語なので正確に訳せるとは思わないけれども、どちらにせよAI的にはやっぱり「来(こ)ぬ」と読んで、意味は「来(こ)ない」なんだなぁ。

「夏が来た」にして英訳させると

  • Summer came.
  • The summer is in.
  • Summer has come.

このあたり。唱歌のタイトルとしての「夏は来ぬ」だと3番目あたりがいいかな。

フォント大き目

最近スマホのTwitterアプリの文字が小さくて読みづらいなぁと思っていたんだけれども、アプリの設定でフォントサイズを大きくしてみた。スクロールせずに一画面に入る情報量は減ったけれども、ずっと快適に読めるようになったのだ(ひょっとしてこれは老眼とかいうやつか?)。ほんのちょっとした変更だったんだけれども、すっかりライフをハックした気になって調子づいている。

降り早まる

 今朝の通勤時に電車を降り早まってしまった。なんかボーっとしていて、職場の最寄り駅の1駅手前で思わず降りてしまったのだ。ホームに降りてしまってから「おや?」とか思う始末。そもそも、この駅と目的の駅とでは車両のドアが開くのは反対なのになぜ気が付かなかったのだろう。俺ってばうっかりさん。

明け方にベッドの上でぼくは凍死したくないと思いたかった

 6月になったことだし、睡眠時の掛布団を夏用の薄いものに変えたんだけれども、いかんせん最近ちょっと肌寒い日々。明け方あまりにも寒くてこのまま凍死するんじゃないかと思いながら、でも更なる上掛けか布団は天袋にあるから出すのは面倒くさいなぁとそのまま強引に寝続ける。いや、凍死するんじゃないかと命の危機を覚えて、しかも何をすべきかわかっているのであれば、行動しろよ。ラフは、あぁこのまま死んでいくのかなぁと思ったら、死にゆくのにまかせてしまうタイプかもしれない。「死んじゃう」なんていうと、また彼氏に怒られるけど。

夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった[谷川俊太郎]

ざんねんないきものとざんねんな進化認識

 「生物は生き延びるために進化する」という表現は生物学的にはおかしい。「生き延びる」というのが意思ではなく「生存」という事実のことを言っているとしてもだ。生物は「生存するために進化する」わけではないのである。「新たに生じた表現型が淘汰圧にさらされ結果として滅びなかったものが生き残った」(その時の環境でマイナス要因を抱えていたものがいなくなっただけで、有利なものだけが生き残るのではなく、有利でも不利でもないものも淘汰圧の影響を逃れているので生き残る)というのが結果としての「進化」である。

 最近「ざんねんないきもの事典」というタイトルの児童書が流行った。でも「ざんねん」とはあくまでも人間から見たら「なんでそうなってるの?」っていう興味を引くためのきっかけとしてその語がタイトルに使われているだけで、「ざんねん」といっても生物学的にその種が「失敗」だということを意味しているわけではない。少なくとも生き残っているわけだから(あるいはティラノサウルスだったら当時存在していたわけだから)、当時の環境による淘汰圧の大きなマイナス影響を受けずに生存できたってことは種としては生物的にはむしろ「成功」なんじゃないの?(形態学的に人間から見たら「ざんねん」だとしても)

wikipediaの「ざんねんないきもの事典」の項

 進化論の話で出てくる有名なたとえ、「眼鏡の鼻パッドを乗せやすいように、人類の鼻の形は進化した」っていうのは明らかにおかしいってわかるでしょ?語が抽象的になったとたんに、この手の誤解や珍論が進化論にはついて回る。

 だからといって、例えば文学作品(たとえばSF)で「生き延びるために進化する」という考えを据えて話を作るということには反対はしない。あえてそういう設定にすることでその作品に価値が生まれるのであればね。

曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い

前回は「過剰(あるいは極端)な物言い」を挙げたが、今回は仕事の件で耳にした「曖昧過ぎて失笑しちゃった物言い」をご賞味ください。


なんとなく洗い出した

「洗い出す」というきつめの縛りがある行為に対して、全くそぐわない「なんとなく」という語がかぶさっている気持ち悪さ。


(要件あるいは仕様を伝える際に)~と、ひそかに考えている

ということは、まだ決まりではないのか?しかもこの方は結構このフレーズを好んで使う(口癖だろう)。あなたの「ひそか」な心の内をそんなしょっちゅう明らかにしてよいのか?もはやそれは「ひそか」ではないのでは?あなたの「ひそか」にラフは興味はないのだが。


話は変わるが、タイトルにある「失笑」の意味を「笑いも出ないくらいあきれる」という意味で使う人が増えているらしい。「失笑」というのはおかしくて笑ってしまっているのだ。あきれているのではない。

国語に関する世論調査 | 文化庁

平成23年度の結果に「失笑する」に関する調査結果が載っている。

失笑する 例文:彼の行為を見て失笑した。
(ア)こらえ切れず吹き出して笑う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27.7%
(イ)笑いも出ないくらいあきれる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60.4%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2.7%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.1%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.2%

同じ「失」の使い方としては、「うっかり言ってしまう(口を滑らす)」の「失言」なんかがある。

過剰(あるいは極端)な物言い

ベスト

「これよりもこっちのほうがいいよね」っていうだけなのに「ベストなのは」とか「~な方がベストだよね」とか言う。ベストではなくベターだよ。


最悪の場合

「こういう場合はこういうことで困る(問題になる)」と言えばいいところを全部ひっくるめて「最悪の場合」と言ってしまう。仕事であればせめてもうちょっと分析してから具体的に言及しよう。


謳う

意味は「はっきりと示す、明文化してある」である。「謳う」は理想や願いなどに対して使うことが多いため、「敢えて書くことでポジティブに強調する」という感じがラフにはある。何でもかんでも「文章で書いておくこと」を「謳う」といわれると、大げさすぎておかしい。ここぞという時に使ってこそ効果のある言葉だろう。注意書き程度のことにまで「謳う」と言われたら、聞いているこっちが恥ずかしい。


警鐘を鳴らす

何らかの問題を提起する場合に、「警鐘を鳴らす」と表現する。これ自体は問題ではないが、何か問題を指摘するたびにしょっちゅう使っているのを見ると「警鐘鳴らしすぎ」である。ここまで鳴らされると、鐘を鳴らすのは「あなた」だけでよいと突っ込みたくなってしまう(小坂明子のほうではない)。

wikipediaの「あの鐘を鳴らすのはあなた」の項
wikipediaの「あなた (小坂明子の曲)」の項

ソナタといひて夜も眠れず

■ソナタ形式(1つの曲における楽曲構成形式)

 ソナタ形式は三部形式の一形態で、形式を重んじる古典派の時代において確立した。基本は「主題提示部」「展開部」「主題再現部」の三部から構成される。さらに細かく見ると「主題提示部」には第1主題と第2主題が含まれ、2つの主題は主題再現部で再度登場する。調性については第1主題は主調(その曲のメインとなる調)で、第2主題は属調(主調の完全5度上の調、主調がハ長調であれば属調はト長調)が原則。「主題再現部」では第1主題は提示部と同じく主調で、第2主題も主調。

・主題提示部(第1主題(主調)、第2主題(属調))
・展開部
・主題再現部(第1主題(主調)、第2主題(主調))

 ただし、これは原則であって、必ずしもこれに従うもののみがソナタ形式というわけではない。主題提示部の第2主題が下属調(完全5度下の調。ハ長調に対してはヘ長調)などの属調以外の近親調(場合によっては遠隔調もあり)が選ばれる場合もある、主題再現部も主調とは異なった調ではじる場合もある。さらに始まる前に序奏がついたり、最後にコーダ(エンディング)が追加されたりもする。

■ソナタ(ソナタ形式の楽章を含む複数楽章からなる器楽曲に与えられる代表的な命名)

 さて、器楽曲の形式の一つに「ソナタ」というものがある(漢字だと「奏鳴曲」。かつて流行った韓流ドラマ「冬のソナタ」は「冬の奏鳴曲」である。やかましそうな印象に早変わり)。これは通常3ないし4楽章形式で(器楽曲としてのソナタは前者が多い)でその中にソナタ形式の楽章を含むもの(たいがいは第1楽章)に名づける。ただしモーツァルトの有名なピアノソナタ第11番 イ長調 K. 331 (300i)、いわゆる「トルコ行進曲付き」は、ソナタ形式の楽章を含まないのにソナタと名付けられている。(形式ではなく規模的にソナタ程度の複数楽章からなる器楽曲という意図であろうか)

wikipediaの「ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)」の項

 また、複数楽章というのも時代が下って来ると縛りがゆるくなってきて、ベートヴェンのピアノソナタ第32番(最後のピアノソナタ)ではもはや2楽章しかない。

wikipediaの「ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)」の項

 スクリャービンはピアノソナタ第4番で間をあけずに連続して演奏される2楽章形式に、第5番以降は単一楽章でソナタを書いている。プロコフィエフなどはピアノソナタ第1番(しかも作品番号も1)からして単一楽章である。

wikipediaの「ピアノソナタ第1番 (プロコフィエフ)」の項

 ちなみに「ソナチネ」は「小さいソナタ」という意味。「ソナチネ」アルバムとか小学生などがよく習わされる古典派の「ソナチネ」を集めた曲集が有名。ただし「小さい」かどうかという基準は、その作品の規模感や技術的難易度、意図したことなど作曲者がその都度の基準で自由に決めてよい。ラヴェルのソナチネなんかは求められる音楽的表現力も技術的難易度も小学生なんかが弾くには相当むつかしい。

wikipediaの「ソナチネ (ラヴェル)」の項

会社が斡旋している生命保険における同性パートナーの扱い

 ラフの職場では明確な同性パートナーに関する定め(あるいは提言や今後の方針とかも含めて)はない。とはいえ流行りの○○ハラの防止に関してはCSRを明確に宣言している。

 さて、会社が斡旋している生命保険がある。今年から、その案内に同性パートナーに関する事項が追記されていた。保険に本人に加えて配偶者も加入ができるんだけれども、この配偶者には「生計を一に」していれば同性パートナーが認められるとのこと。さらに保険金の受取人にも同性のパートナーを指定することもできる。もちろん別途関係を証明する書類が必要となるようだが(何の書類を指しているのだろう?)。

 時代は変わっていくね。うちは割とホワイト企業だよ(制度的にはね)。

読了:科学 vs. キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]

「天地創造」は6000年前、アダムはすべての人類の祖…「常識」は、いかに覆されたか?知の大転換のプロセスをスリリングに描く!

聖書(主に旧約聖書の創世記)に縛られた普遍史(聖書的時間)から科学的歴史へと歴史観が変わっていく様子を、ニュートンの時代(科学革命の時代)から概説する。ヨーロッパが囚われていた聖書の呪縛がいかに強力であったかがわかる。

まずはデカルト、ニュートンの時代(科学革命の時代とされるが)。それまでは世界(宇宙)は神によって作られ、神自らによってあまねく制御されていると考えられてきた。しかしここにおいて世界は神によって作られたが、その後万物は神によって作られた自然法則によってなる世界にリリースされたのだという考え方が登場した。自然法則を明らかにするということは神の作った法則を明らかにするという発想。ニュートンがまとめた運動の法則や万有引力(重力)も神の法則を明らかにしたもので、ニュートン自身は天地創造を疑っていなかった。なにしろ世界は天地創造から約6000年と考えられていたのだ。

次に分類学の祖リンネ。神が作りたもうた完全なる世界(創世記にあるようにすでに生物はすべて完成している)の生物を分類しようという試み。新世界の知見が広く知られるようになり、それをいかに分類するか。とりわけ人類の分類。ヒトに近いサルと、サルに近いヒト、世界各地に伝わる伝説の生き物、これらをどう分類していくのか。

続いて啓蒙主義の時代。ここにおいて聖書時間に支配された普遍史(聖書の記述に基づいた歴史)から人文科学としての世界史の成立。年代表記も創世紀元からキリスト紀元へ。天地創造の時期と人類の誕生の時期の分離。信憑性のありそうなエジプトや中国の古代史が聖書の記述では説明できないことが分かってきたのだ。聖書に対する追随的合理化から批判的合理化の始まり。

そして、19世紀に登場したダーウィンの進化論や地質年代の研究により、実は地球の歴史はもっと古かったのでは?どうしても絶対的な長い時間が必要になるのだ(少なくとも数億年)。しかし当時の権威とされるケルビン卿(熱力学第2法則をまとめたり、絶対温度の単位に名を遺す)により最大1億年(数千万年程度が妥当と)という枠に縛られる。

第2次大戦後になってようやく放射性同位体を使った正確な地質年代が求められたのである。地球の年齢は46億年と。

科学vs.キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]
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