アースカラー(自定義)Tシャツばかりになってしまった

夏の普段着はTシャツが多い。自粛太りもあって、もう着られなくなったTシャツとかよれよれになったTシャツとかまとめてごっそり廃棄した。その結果残ったTシャツが以下の写真。

2020ラフTシャツコレクション
2020ラフTシャツコレクション

写真は明るめにとれているけれども、実際はもっと薄暗くて地味で色濃い目でお世辞にもきれいな色とは言えないものばかりが残ってしまった(すべて無地)。ちょっとこのパッとしなさ加減にうんざり。せめて「アースカラー」だと強がってみようかと思ったけれども、アースカラーってもっと緑系とか青系とかきれいな色が含まれているんだね。(これではただの土色とか枯葉色だよ)

wikipediaの「アースカラー」の項
アースカラーのカラーチャート

まぁこのご時世外に出る機会はほぼないし、家の普段着だったら、まぁいいか。気分は明るくならないけど。あ、でもたまにでも外に出るときはこのTシャツ着ていかなければならないのか。あんまり自分の気に入っていない服を着るっていうのも精神衛生的によくないのかもね。新しいTシャツ買った方がいいか。

読了:おむすびでやせる本[小澤 幸治]

おむすびでやせる本

おむすびでやせる本

  • 作者:小澤 幸治
  • 出版社:自由国民社
  • 発売日: 2016年11月25日

やっぱりご飯が好き!なあなたにーおむすびは最高のダイエット食です。女子ボクシング世界チャンピオンを育成した減量のプロが、21日間お米を食べてやせる方法をやさしく教えます。

第1章 やせたいなら米を食べよう(あなたを待ちかまえる糖質ダイエットの「落とし穴」/ダイエットの大原則はやっぱりカロリー理論! ほか)/第2章 おむすびはダイエット食(日本人の理想的な栄養バランスをご存じですか?/なぜ「米」がベストなのか? ほか)/第3章 「21日間プログラム」おむすびダイエット(医師もアスリートも実践する21日間生活改善プログラム「おむすびダイエット」/RULE1 女性は1500キロカロリー男性は1800キロカロリー ほか)/第4章 6つの簡単エクササイズ(あわせてやりたい!日常生活でできるエクササイズ/パンチを打たなくてもボクサー体型!5秒で効く内またひねり運動 ほか)

いわゆるダイエット本。世間の例にもれず籠り太りで身体が重いったらありゃしない。なんとかしたい、でも運動はしたくないし、つらい摂食制限とかしんどいのは嫌。というわけでふと目についた本書を手に取ってみた。元プロボクサー、現在はボクシングやジムのトレーナーをしている著者による、日本人に合った健康的でストレスをためないダイエット方法の実践方法。

流行りの低炭水化物、糖質制限ダイエットは確かに痩せるかもしれないけれども、効果は一時的になりがちで、肉体的精神的な面ではほぼ苦行であることから述べはじめる。食べてはいけないとか、おいしくないものを食べ続けるとか、食べる順序に気をつけるといった面倒な約束のあるダイエット方法は、苦行が好きな人にしか勧められない。空腹のつらさは元プロボクサーだけにストレスが強烈なことが実感として伝わってくる。

というわけで、面倒な手順や理論ではなく、原点に立ち返ったカロリー計算のみによるダイエット方法だ。要するに摂取カロリーを消費カロリーより抑えればいい。日本人にとって炊き立ての白米というのは特別な満足感を得ることのできる優れた食材なので、これを食べやすく個数で管理しやすいおむすびという形でうまくいかすのだ。方法は簡単。まずBMI値から1日のだいたいの消費カロリーを求める。それの9割を上限摂取カロリーとする。そしてその摂取カロリーのうち8割をおむすびにして、残りの2割は何を食べてもOK。例えば、身長172cm体重80kgのサラリーマン男性なら、1755キロカロリーが上限摂取カロリー。このうち1404キロカロリー分をおむすびで摂取(だいたいおむすび7個分)。残り351キロカロリーは、好きな食べ物で摂取。ビールを1本飲むときは、おにぎりの個数を1個減らすとかの調整も簡単。また急激な血糖値の上下を防ぐために、一日3食ではなく、一日4回以上に分けておにぎりを食べるのがおすすめと。砂糖入りのコーヒーや紅茶もOKとは。あとは、軽い運動(最後のほうにおまけのようにいくつかエクササイズが紹介されている)や、心配ならサプリで補うなどしてもいい(その場合もどういうサプリがいいかも提案されている)。それをとりあえず21日間続ける。そうすると食習慣や体質なども変わって、リバウンドすることもなく健康的な生活をその後も続けていけるよと。このダイエット法を知ったら「なるほど、今度やってみよう」ではなく、いまこの瞬間に「やろう」と決断してくださいと締めくくられる。

サクサク読めて、これなら自分でもできそうとか思っちゃうね(こんなこと言っている時点で「なるほど、今度やってみよう」組)。

おむすびでやせる本[小澤 幸治]

僕はやっぱり英語ができない – 「私は会社を代表する女なのよ!!」

ただ単に「英語を勉強する」ったって何をすればいいのかわからないので、とりあえず TOEIC L&R に向けてぼちぼちやっているわけでありますよ。あいかわらずリスニングは何をおっしゃっているのかわからないことはなはだしい。最初は分からなくても2~3回繰り返し聞いてようやく何の話をしているのか分かってくるくらいにはなったけれども、試験本番は1回で聞き取らないとダメなのよね。それはまだ無理。

瞬発力を要求されるPart2(一言に対する最も適切な応答を選ぶ問題)はほぼお手上げ(このPart2が一番苦手)。Part4(話者が一人のアナウンス系)は、たいてい最初に話者の自己紹介や状況説明から始まるから取り組みやすい。一方でPart3(話者が2~3人。いわゆる会話)は、いきなり話が始まるから状況がしばらく理解できないことが多い。特に第1声が聞き取れたかが勝負になる設問があると、Part2同様全く対応できない。

さて、本日はPart3(会話問題)のある例題に取り組んだ。話の内容はだいたい以下のとおり(詳しいところは端折った日本語によるあらすじ)

男:頼まれていた仕事は終わったよ。ほかに手伝えることない?
女:ありがとう。じゃ、これもやってくれるかしら?
男:もちろん。他にもやることがあるなら、頼んでくれていいからね。
女:大丈夫よ。あなたのおかげで準備はほとんど終わってるから。

「問1:男性が終えたことは何ですか?」もちろん、最初の発言が聞き取れていないので「頼まれていた仕事」が何かわかるわけがない(上のダイジェストには書いていないが元の英会話では当然何を終えたか言っている。でないと問題になるわけがない)。

設問にはなっていなかったけれども面食らったのは最後の発言。「I’m almost done with the preparations.」だったのだが、自分にはこう聞こえたのだ「I’m a woman ウニョウニョ ウニョration.」。「私は女性よ」?そんなこと言うシチュエーションだったか?とか動揺している間に直後は聞き取れなくなって、なんとか拾った文末「ウニョration」を、職場の話だからきっと「corporation」とかに違いない。うん、そうするときっと「私は会社を代表する(くらいできる)女なのよ」とかいうことを言っているんだろうなぁ、直前に「大丈夫よ」とかも言っているし。さすが自己主張の強い欧米圏の人だとか思ったわけ(直前の「あなたのおかげで」なんて発言はすっかり忘れている)。中途半端に聞き取れなかった時は、それを補おうとしてこういう突拍子もない妄想大爆発だよ。

それにしてもこの男性、隙あらば女性に「手伝えることは他にない?」と執拗に繰り返すなぁ、同僚に対するもの以上の特別な好意でも持っているのか?(ラフが冷たいだけ?)

読了:Javaによる関数型プログラミング[ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社]

Javaによる関数型プログラミング

Javaによる関数型プログラミング

  • 作者:ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社
  • 出版社:オライリー・ジャパン
  • 発売日: 2014年10月

Java 8新機能のラムダ式や、Stream APIの特徴を、コンパクトに解説!考え方、API、設計、そして遅延評価や再帰を詳述。

1章 Hello、ラムダ式!/2章 コレクションの使用/3章 文字列、コンパレータ、フィルタ/4章 ラムダ式で設計する/5章 外部リソースを扱う/6章 「遅延させる」ということ/7章 再帰の最適化/8章 ラムダ式で合成/9章 すべてをまとめて/付録

あんまり仕事関係の本は記録に残していないんだけれども。プログラミング言語としてJavaを使う開発現場から遠ざかってかなりたつ(たまにちょい使い程度はあったけど)。ちょっと自分の中の情報をアップデートしておかなければならないと思って、Javaの勉強を。現場から離れる直前にリリースされたのがJava5だった。そこから今やJava13だって?すっかり置いていかれちまっているぜ。この間でもっとも変わったのはJava8なんだろうな。Java8で導入されたラムダ式を見て、そうかJavaも関数型を使えるようになっていたのかとは思ったものの、「なんとなくこんなもんか」程度ですませていた。ところが、どうやらラムダ式はStreamと一緒に使うとステキなことが多いらしくて、それなのに自分にはこのStreamというものがいったい何者なのかが全く分からない。コードを見ても何をするものなのかが今一つよくわからない。というわけで、そのものずばりが副題に付いている分かりやすそうな本を見つけたので読んでみた。

本自体は薄いんだけれども、実際にどれだけ強力な武器をJavaは手に入れていたのかがよくわかった。ある課題をこれまでの(Java7までの)手続き型で組むとこうなるよねというコードがまず示される(自分もこう実装するはずだ)。で、そこからラムダ式とStreamを使ってリファクタリングをしていく過程をコードとともに示していく。おぉ、なるほど、活用できればシンプルでエレガントに表現できるかも。確かにこれはJavaに対する世界観が変わるな。何年も前から世の中そんなことになっていたとは……(この本が2014年だもんね)。

Javaによる関数型プログラミング[ヴェンカット・サブラマニアム/プログラミングシステム社]

読了:専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

  • 作者:トム・ニコルズ/高里ひろ
  • 出版社:みすず書房
  • 発売日: 2019年07月11日

もはや健全な懐疑心ではない、ゆがんだ反知性主義である。民主主義には正しい情報に基づく熟議が欠かせない。その礎を支えるのは各分野の専門家が蓄積してきた専門知だ。ところが今、専門知が蔑ろにされてフェイクがまかり通り、好みの情報だけを取り入れてその正誤を顧みない、という風潮が高まっている。何が起きているのか、これを放置するとどうなるのか。大反響を呼んだブログ発、専門家からの愛ある反撃。

序論/第1章 専門家と市民/第2章 なぜ会話は、こんなに疲れるようになったのか/第3章 高等教育ーお客さまは神さま/第4章 ちょっとググってみますねー無制限の情報が我々を愚かにする/第5章 「新しい」ニュージャーナリズム、はびこる/第6章 専門家が間違うとき/結論ー専門家と民主主義

アメリカにおいて専門知が重要視されなくなったのはいつからか、それはまたなぜなのか?専門知の役割とは?それらを専門知を担う専門家の立場から解説する。非常にわかりやすく読みやすい。注目すべき興味深い例や調査が取り上げられ、また端的でわかりやすく核心に迫る表現も多く、久々に気になった箇所に引いている下線だらけの読後状態になってしまっていた。ただし専門知を担う側からの論なので、著者の書きっぷりは読み手によっては不遜傲慢に感じる部分もあるかもしれない。

平均的アメリカ人の基本的な知識のレベルはあまりにも低下し、「知識が足りない」の床を突きやぶり、「誤った知識をもつ」を通り越して、さらに下の「積極的に間違っている」まで落ちている。

この手の話となるとお約束なのだが、やはりダニング=クルーガー効果の話から入っていく(wikipediaの「ダニング=クルーガー効果」の項)。ヒトは自分が何でも知っていると簡単に思い込んでしまう。ましてや今日インターネットでググれば知りたい情報はすぐ答え(らしきもの)が得られる。しかしそれは本当に正しく適した情報なのか?実際には、ヒトは情報と思われるもののなかから、自分の考えに合わないものは無視して(意図的であったり無意識であったり)、自分の考えや主張に適合するものだけを情報として取り込んでしまう。そして、その偏った知識でもって「そのことに関して私は知っている」と主張する。

またメディアはうそをついている、メディアは信用ならないという。自分がインターネットで調べて得た情報(もちろん自分の考えに合わないものは情報ではないとされている)が正しい、それ以外を主張しているメディアは信用できないと。つまり実際は「人々は本当にメディアを嫌っているわけではない。自分の気に入らないニュースを報じたり、自分とは異なる意見を発したりするメディアを嫌っているだけだ」。

忘れないでほしい。ニュースを視聴して理解するのは、練習することによって上達するスキルのひとつだということを。ニュースの賢い消費者になるためのいちばんの方法は、定期的にニュースを消費することだ。

それでは専門家と呼ばれる人々は何者なのか?

専門家は政策立案者ではないということを知っておくべきだ。専門家は国家の指導者に助言し、その言葉は一般の人々の言葉より大きな影響力をもつが、専門家が最終決定をすることはない。

専門家に約束できるのは、そうした間違いを減らすルールや手順を設けて、一般の人々がする場合よりも大幅に間違いを減らすということだけだ。

専門家の目的は説明することで、予測することではない。ところが専門家自身が簡単に予測(予想)することに飛びついてしまう。そして専門家の予測が外れるたびに、「専門知は役に立たない」と判断されてしまう一因になってしまっている。著者の専門はUSSR(旧ソ連)だが、ソ連が崩壊するとはだれも予測できなかった。専門家としては痛い失敗ではあるが、だからといって専門知が役に立たないというわけではない。

最後の「結論-専門家と民主主義」が著者の考える専門知の役割を端的にとらえている。
まず専門家が民主主義において果たさなければならない役割と責任について。

専門家がしなければならないのは、自分の助言の責任を認め、同業者どうしでも責任を課し合うことだ。いくつかの理由――学位の過剰供給、世間の関心の欠如、情報化時代の知識の生産についていく能力不足など――から、専門家たちはこれまで、社会がその特権的な立場に求める誠実さでその義務を果たしてこなかった。もっとがんばるべきだ。たとえその努力が、たいていは気づかれずに終わるとしても。

専門家にできるのは選択肢を提示することだ。価値判断を行うことはできない。専門家は問題を説明することはできるが、人々にその問題をどのように解決するべきかを指示することはできない。たとえその問題の性質上、幅広く合意が存在していたとしてもだめだ。

では、それを踏まえての有権者の役割は?

専門家は、どうなるかという可能性を提示することはできるが、その問題に関わり、自分たちが優先させるものを明確にして何をなすべきかを決めるのは、有権者の仕事だ。(引用者補足:地球温暖化によって)ボストンが海に沈むのはわたしの希望する結果ではないが、人々が専門家の助言を無視してその結果を招くのなら、それは専門知の失敗ではない。むしろ市民の関与の失敗だ。

両者(専門家と有権者)の信頼の上に民主主義が築かれる。

トランプの専門家に対する嘲笑は、昔からアメリカ人が抱いている、専門家や知識人は一般の人々の生活に口を出し、しかもそれがひどく下手くそだという確信に上手く働きかけた。(中略)しかし最終的にトランプが当選したことは、もっとも最近の――もっとも高らかに響く――トランペットの音であることは間違いなく、それは迫り来る専門知の死の先触れだ。

専門家と市民の関係は、民主主義国家のほとんどすべての関係と同様に、信頼という土台の上に築かれている。信頼が崩壊すれば、専門家と一般の人々の対立が生じる。そして民主主義自体が死のスパイラルに突入し、たちまち衆愚政治か、エリート支配によるテクノクラシーに陥りかねない。いずれも権威主義的な結末であり、現在のアメリカにはその両方の影が忍びよっている。

一般の人々は忘れがちだが、共和政体は、(中略)本来、知識をもつ選挙民――ここでのキーワードは「知識をもつ」だ――が、自分たちの代表者を選び、その人間が選んだ人々に代わって意思決定をする手段だった。

専門家は常に、おのれは民主主義社会と共和政府の主人ではなく僕であるということを肝に銘じておかなければならない。一方、主人となるべき市民は、みずから学ぶのはもちろんのこと、自分の国の運営に関わりつづける公徳心のようなものを身につける必要がある。一般の人々は専門家なしでやっていくことはできない。この現実をわだかまりなく受け入れるべきだ。同時に専門家たちも、自分たちにとっては自明の理に思えるような助言でも、彼らと同じものに価値を認めない民主主義においては、かならずしも受け入れられるわけではないことを納得しておく必要がある。さもなければ、民主主義とは、根拠のない意見に対して労せずして得る敬意を際限なく要求する制度として理解されるようになり、民主主義および共和政府それ自体の終焉を含めて、何が起きてもおかしくない。

引用ばかりになってしまった。全体を通して内容的には「あぁ確かにそうだよな」ってことばかりでセンセーショナルなことはないのだが、その書きっぷりが刺激的で痛快な本ではあった。

最後に、主要ではないが納得してしまった箇所をおまけで引用しておく。

リベラルアーツをけなす人々は、実際には、大学を職業訓練校にしろと主張していることが多い。

検索ウインドウに言葉を打ち込むことはリサーチではない。

たとえば、一人の科学者が遺伝子組み換え生物(GMO)は安全だと言い、一人の活動家が危険だというトークショーは、一見「バランスがとれている」ように見える。しかし現実には、それは馬鹿馬鹿しいほど偏っている。なぜなら科学者の一〇人に九人はGMOを食べても安全だと考えているからだ。

専門知は、もういらないのか[トム・ニコルズ/高里ひろ]
専門知は、もういらないのかーー無知礼賛と民主主義(専門知は、もういらないのかーー無知礼賛と民主主義)[トム・ニコルズ]【電子書籍】

僕はやっぱり英語ができない – [a-z]*venue

venue(会場)とavenue(通り)とrevenue(収益:費用を引く前の収入のことらしい。収益から費用を引いたものが利益profitとか言われても……)が綴りが似ていて嫌。avenueはまだ耳目に触れるのでいいけど、venueとrevenueは出会うたびにいつも迷いが生じる(英語のできる人にとっては全然違うんじゃんかと突っ込むのだろうが)。venueはplaceじゃダメなのか?とか思う。revenueなんて日本語でさえビジネス関係の話題でもないと使わんぞ。社会人として経営会計の基本くらいは知っておくべきなんだろうけれども、ラフはその方面ではポンコツなので実務の言葉は(日本語であっても)ひどく苦手なのだ。

「annual revenue」とか出てきても、「(神社とかの)例大祭会場?」とか思っているうちに「何言ってんだ?」状態に陥っている。(年収とか歳入の意味だってさ)

venueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
avenueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
revenueの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

読了:ギリシア人の物語3 新しき力[塩野 七生]

夢見るように、炎のようにー永遠の青春を駆け抜けたアレクサンダー大王。32年の短くも烈しい生涯に肉薄した、塩野七生最後の歴史長編。

第1部 都市国家ギリシアの終焉(アテネの凋落/脱皮できないスパルタ/テーベの限界)/第2部 新しき力(父・フィリッポス/息子・アレクサンドロス/ヘレニズム世界)/十七歳の夏ー読者に

塩野は歴史長編に関してはこの作品で最後にすると宣言(誤解のないように言っておくとまだ存命です)。最後はどうしてもアレクサンダー大王を書きたかったんだな。塩野は「自分の好みの男性像」というのが結構はっきりしていて(彼女のエッセイにも「男はこうあって欲しい」というのがよくあって、スマートにずるがしこい男が好きらしい)、中でもカエサルとアレクサンダー大王は常に別格扱い(ローマ人の物語全15巻もそのうちの2巻をカエサルにあてるほど)。

ギリシア人の物語1と2の感想は以下参照。

読了:ギリシア人の物語(1)[塩野七生]

読了:ギリシア人の物語2 民主政の成熟と崩壊[塩野 七生]

ギリシア人の物語の最後は、ペロポネソス戦争後から。ペロポネソス戦争に負けたアテネを盟主とするデロス同盟は崩壊し、アテネは見るも無残に凋落。とはいっても、哲学の分野に関してはソクラテスが、そして弟子のプラトン(アテネ郊外にアカデメイアを)、さらにはアレクサンダー大王の家庭教師になるアリストテレス(この人はマケドニア人だが、アテネ郊外にリュケイオンを)と続いている。ペルシアからの経済的支援を受けていたスパルタはペロポネソス戦争で勝ったとはいえ、スパルタは独自の路線を貫き孤立していく。都市国家のテーベなどが一時的に興隆するものの、その後に台頭したのはオリンポス山の北側に位置したために同じギリシア人からも半バルバロイと呼ばれてきたマケドニア王国(都市国家ではないうえに、古代オリンピアにも長らく参加を認められてこなかった)。

マケドニア王フィリッポスによりスパルタを除くギリシアはもう一度まとめられていき、その息子アレクサンダーによりペルシア遠征がはじまる(アレクサンダーはこの遠征を第1巻で述べられたギリシア本土で戦われたペルシア戦役の延長ととらえていたようだ)。ギリシア対岸の小アジアだけでなく、シリア、エジプト、そしてペルシアの中枢メソポタミアを制し、アケメネス朝ペルシアは滅亡、さらにはペルシアの後背地であるインダス川まで進む。このアレクサンダー大王の東征と戦闘(戦争ではない)の描写がべらぼうに読ませる(塩野のアレクサンダー愛はすさまじい)。そして若くしてアレクサンダー大王が亡くなってしまうと、その後彼の部下やその息子たちによる混乱により、ギリシアおよびアレクサンダーにより征服された地域は、セレウコスのシリア、プトレマイオスのエジプト(エジプト最後の王朝はエジプト人ではなくギリシア人の王朝なのだ。「クレオパトラ」という名もギリシア上流階級の女性に多い名前)、そしてアンティゴノス一族のマケドニアを中心として分割されてしまう。しかしこの時代にはヘレニズム文化が花開く。

アレクサンダー大王が画策したペルシア人との民族融和政策は途絶え、これを多民族融和政策として継承し成功を収め大帝国を築いたのは後のローマ人だったのだ。

ギリシア人の物語3 新しき力[塩野 七生]
ギリシア人の物語III 新しき力(ギリシア人の物語)[塩野七生]【電子書籍】

読了:偶然仕掛け人[ヨアブ・ブルーム/高里 ひろ]

指令に基づき、偶然の出来事が自然に引き起こされるよう暗躍する秘密の存在、「偶然仕掛け人」。新米偶然仕掛け人のガイは、同期生のエミリー、エリックと共に日々業務をこなしていた。しかし、ある日何とも困惑する指令が届く…。もしもあの時の出会いが偶然じゃなかったら?もしも誰かが自分の人生を操っていたとしたら?そんな“もしも”を物語にした、イスラエル発のベストセラー作品。

去年の初夏に、邦訳が出て話題になったときに買ったものの積読にしていた本。ようやく読んだよ。すごくおもしろかった。邦訳が出て1年の現在楽天ブックスでは取り扱いがなくなってしまっている。買っておいてよかった。(楽天の他のショップではまだ扱っているところはあった。Amazonでも一時在庫切れ。英語版はKindle版を含め手に入るよ。The Coincidence Makers: A Novel (English Edition))

日常生活で起こる様々な出来事は、偶然仕掛け人という存在によってすべて導かれているとしたら?3人の若い偶然仕掛け人同期生の仕事ぶりと交流を軸に、主人公の一人ガイの忘れられない恋や、ある暗殺者の人生などを絡めて展開される。

世の偶然は実は仕組まれているという発想はありきたりかもしれないけれども、結構面白くまとめてある。「偶然仕掛け人に対しても偶然を仕掛ける別の偶然仕掛け人がいるのか?」という疑問を持って途中で退場してしまうエミリーも含め(=実はこれがカギだった)、最後にはすべての話が収束していきハッピーエンドに。若干最後は輪廻転生スピリチュアル系に走った甘ったるい恋愛ものに陥ってしまったけれども、それでもなかなか楽しい小説だった。

偶然仕掛け人[ヨアブ・ブルーム/高里 ひろ]

読了:家庭用事件(市立高校シリーズ)[似鳥鶏]

こんなはずじゃなかった!?
事件に満ちた葉山君の学校生活を描く、〈市立高校シリーズ〉短編集。
市立高校に入学した頃は、こんなにも不可思議な事件に巻き込まれ、波瀾万丈な学校生活を送ることになるとは、僕は想像だにしていなかったーー。『理由あって冬に出る』の出来事以前に、映研とパソ研との間で起こった柳瀬さん取りあい騒動を描く「不正指令電磁的なんとか」。葉山君の自宅マンションで起こった怪事件「家庭用事件」。葉山君の妹・亜理紗の学校の友人が遭遇した不可解な引ったくり事件から、葉山家の秘密が垣間見られる「優しくないし健気でもない」など、全五編。

不正指令電磁的なんとか/的を外れる矢のごとく/家庭用事件/お届け先には不思議を添えて/優しくないし健気でもない

市立高校シリーズの最初「理由あって冬に出る」の初版が2007年10月31日。で今回読んだ「家庭用事件」の初版は2016年4月28日。なんだかんだと10年ほどで7冊続いたシリーズで(今後も続く予定とあとがきには書いてあった)、一応季節(年月)は進んではいるんだけれども、主人公の高校生葉山君が1年生の冬頃から始まって1年にも満たない期間じゃないかなぁ(話によっては必要に応じて過去だったり1年先だったりするけれども、本筋の進行としてはそのくらいしか進んでいない)。今回は、その間をカバーする期間に起こった小さめ事件の短編集。「家庭用事件」っていう短編タイトルを代表させたように、出てくる事件がどれもちっせぇよ、しょぼいよ(現実ならびっくりなのに強制的に小さくまとめてしまっている感のある事件もあるが)。いわゆる北村薫的・加納朋子的な「日常ミステリー」ではなく、あくまでも日常で起こった出来事を事件として取り上げることにこだわったためかどことなくちぐはぐ感。

wikipediaの「日常の謎」の項

基本的に、このシリーズの主人公の葉山君はワトソン博士的立ち位置で、シャーロックホームズは伊神さんという先輩なのだ(第1作で大学受験直前の3年生で第2作目で高校は卒業して、以後は大学生になっていて事件解決のために母校を訪ねてくる)。そして今作でも葉山君の親友三野君が相変わらず誰かのために黙って余計なおせっかいをすることで犯人になっちゃってることが多い。最後の話では、シリーズ中にもしばしば顔を出していた葉山君の妹が「実は……だった」というのは衝撃的。このシリーズのどっかに伏線あったか?(言わなかっただけで嘘はついていないってやつか……)

あとがきでは、相変わらず好き勝手に妄想ぶっこいてますが、困ったらトイレットペーパーを買い占めてしまう日本人への言及は、2016年の時点で書かれたことを思うと「予言か」と(もっとも、著者は震災を踏まえて書いているのだが)。

家庭用事件 (創元推理文庫) [ 似鳥鶏 ]
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演奏会映えする変態ピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」

ピアノソロの場合であっても、右手と左手が交差する箇所がある曲というのは見栄えが豪華になる(その曲の持つ芸術性とは別にパフォーマンスとして)。今日はローゼンブラットという作曲家の(ピアノ弾きの中では)有名なピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」を紹介しよう。

その前に、連弾とは何ぞや。日本語で「連弾」という場合、1台のピアノの鍵盤を前に、二人の奏者が並んで演奏するアンサンブル形式を指す。高音担当(鍵盤に向かって右側)をPrimo(イタリア語で第1奏者)、低音担当(鍵盤に向かって左側)をSecondo(イタリア語で第2奏者)と呼ぶ。ちなみに英語では連弾は「for 4 hands」と表記される(4本の手のための)。概して連弾はPrimoは旋律担当、Secondoが伴奏担当になってしまうことが多くなるのだが、どちらが技術的に難しいかというとほぼSecondo。音楽の土台を作り曲を支配するのはほぼSecondoの役割として与えられることが多いのだ(ちなみにペダルの操作も通常はSecondoが担当)。よって、多くのピアノ教室の発表会では、先生がSecondoを担当し、生徒がPrimoを担当するという形式がしばしばみられる。まぁ中にはラフマニノフの「6つの小品」のようにPrimoの譜面の方が真っ黒という作品もあるが。

さらに、もうちょっと先に進むよ。1台のピアノの前に3人の奏者が並んで演奏する場合これを「6手連弾」と呼ぶ。1台の前に3人が並ぶとかなり狭いしそれぞれにかなり演奏しにくくなる。この形式でもっとも有名なのはラフマニノフの2つの小品であろう(ピアノ協奏曲第2番を思わせるというか酷似箇所あり)。英語表記では「for 6 hands」。

一方で、1台のピアノは独りで担当するのだが、それを2台のピアノでやる演奏形式がある。この場合適当な和訳語がないためか明確に「2台のピアノのための」と表記される(略して「2台ピアノ」)。英語で「for 2 pianos」といえばこの形式。当然、ピアノを3台以上使う形式も考えられるけれども、ピアノを一度にたくさん用意するのは大変だし、演奏スペースもとるしで、3台以上の作品はあまりない(あるにはある)。

また、連弾と2台ピアノの組み合わせとして、通常の1台4手連弾を2台のピアノでやる演奏形式というのもあって、これを「2台8手(for 2 pianos 8 hands)」と呼ぶ(つまりピアノ2台に奏者が4人)。

(連弾と2台ピアノとどちらがどのように面白いのかという話はまた別の機会があれば述べようかと思う。ラフは20代のある時期、ソロよりもピアノだけのアンサンブルばっかりやっていた)

通常、楽器は個人持ちの楽器を演奏会場まで自分で運んで個人の楽器を演奏するものだが、ピアノは通常個人持ちの楽器をホールに持って行って演奏するということはまずない(どんなプロ奏者であっても。強いて言うなら自分専属の調律師を連れて行く)。ピアノの場合通常は会場付帯の楽器を使うのだ。どこのホールでもちゃんとしたホールであれば、最低2台はピアノ庫にピアノがしまわれている(少なくともそのうち1台はスタインウェイが望ましい)。

さて、ローゼンブラット作曲のピアノ連弾曲「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」。ピアノデュオ作品による第5回作曲コンクール(1999-2000)(このコンクールはピアノデュオでも活躍された児玉夫妻がはじめた、日本で開催される国際コンクールで、作曲部門と演奏部門が隔年で開催され、作曲部門で受賞した曲が翌年の演奏部門での課題曲になる)において、ローゼンブラットが特別賞・毎日新聞社賞を受賞した作品。有名なロシア民謡の「カリンカ」(テトリスの音楽だ!)と「モスクワ郊外の夕べ」を組み合わせた、ジャズ的要素も多分に含む、ヴィルトゥオーゾ作品。日本では「二人羽織」とも呼ばれる見ていても楽しい曲。ピアノ連弾の演奏会向け「映え」レパートリーとして重宝されている。いくつか演奏動画を紹介しておこう(二人羽織の見られるところのタイムも)。


6:36あたりから、primoがsecondoを後ろからまたいで演奏する。


5:57あたりから、secondoがprimoを後ろからまたいで演奏して、やがてsecondoがprimo担当に役割交代する。


6:00あたりから、secondoがprimoを後ろからまたいで演奏して、やがてsecondoがprimo担当に役割交代する。ラフ個人的にはこの演奏が一番エキサイティングで好み。

最後に作曲家ローゼンブラットご本人自らの演奏もご紹介しておきます(動画のsecondo担当がローゼンブラット)

ローゼンブラット / Rosenblatt, Alexander – ピティナ・ピアノ曲事典

また、2台8手のための「日本の主題による幻想曲」というものも作曲している。
A. Rosenblatt. Fantasia on Japanese Themes for 2 pianos 8 hands.