すごいなぁ、ふるさと納税、1,400,000-。ビール1848缶って途方もないなぁ。どんな人が注文するのだろうか。
読了:愛なき世界(単行本)[三浦しをん]
タイトルは殺伐としているけれども、内容は優しい愛情にあふれた作品。東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻植物学関係の研究室の人々と、そこにふとしたきっかけで出入りするようになった、本郷通りの赤門前あたりをちょっと入ったところの洋食屋で働く青年との交流が描かれる。ま、もっとも主人公は藤丸青年というより、彼が好きになった博士課程大学院生の本村さん。彼女の研究生活を軸にしておよそ1年の出来事が描かれる。
植物の研究って何してるの?という方は読んでみると面白いかも。本村さんは、アラビドプシス(シロイヌナズナ)を材料として、植物の葉が一定の大きさに制御されている仕組みを研究している。葉の大きさを制御している特定の遺伝子を4つ壊せば(<ちょっと科学的には不正確な表現だけれども)、制御が効かなくなって野生株よりも大きな葉が生じるのではないか?という仮定で研究を進めている。この4重変異株を作るのに彼女は苦労している。
おそらく、科学や基礎研究になじみがない人にとっては、それの何が楽しいの?何の役に立つの?ってところなんだろうけれども、なぜそうなっているのかを知りたいという知的探求心(それはもう渇望と呼んでもよい)が基礎研究に携わる人の原動力なのだということが、読んでもらえばわかってもらえるかと。自然科学系の大学院生・研究者がどんな生活をしているのかを垣間見ることもできるので、そういう点でもおもしろいかと。
登場人物がみな一風変わった変人の類なんだけれども、この小説ではとてもマイルドで優しい描かれ方をしている。基本的にみんないい人なのだ。実際の研究者はクセの強いもっと筋金入りの変人が多いと思う。概して植物を扱う研究者はのんびりとしたところはあるけれども、それでももっととんがった部分もあったよというのが、かつて生物学研究者の端くれとして研究室に所属していた自分の感想。まぁ新聞小説だからこのくらい優しい話でいいんだろうけど。
日帰り京滋の旅
実家の両親ともに入院中(同じ病院に)。見舞いがてらに日帰りで京都大津の旅。東京と横浜を合わせて「京浜」とか、京都と大阪を合わせて「京阪」とかいうように、京都と滋賀を合わせて「京滋(けいじ)」といういい方があるのだ。
新幹線で京都駅に。いやはやこの外国人観光客の多さはすごいなぁ。とりあえず、午前中は京都で一番好きな場所「京都府立植物園」に向かう。京都駅から市営地下鉄で北山駅まで向かう。北山駅出口が植物園の北山門(実は裏門)に直結している。
■ 京都府立植物園 Kyoto Botanical Gardens/京都府ホームページ
園内に入ると、セミの声。あぁ、そうだ子供のころから夏休みの音って言えばこの音だったよと懐かしく思い出した(東日本とはセミの生態系が異なる)。
それにしても、午前中だというのに、京都の夏は風が吹かずじりじりとひたすら暑い。
食虫植物展、朝顔展、鴨川の帰化植物展と堪能。帰化植物展は写真パネル展示だったんだけれども、職員と思しき年配の女性が京都弁で解説していてはんなり。
それから大津へ移動。昼ご飯は、ちゃんぽん亭総本家のちゃんぽん。この近江ちゃんぽんというものは、いわゆる長崎ちゃんぽんとは別物。魚介だしのあっさりやさしい中華麺とでもいいましょうか。
自分がまだ実家にいたころ(かれこれ四半世紀前)は大津にはまだ店舗展開していなかったので知らなかったんだけれども、最近Rとテレビ番組を見て知った次第。
■ ちゃんぽん亭総本家 | 創業昭和三十八年の近江ちゃんぽん専門店
それから両親が入院している病院へ見舞いに。病院は実家のすぐ近所なので、実家まで郵便物を取りに帰ったり、両親のための買い出しをしたり、それから母からの説教を聞き流したり。それにしても、自分が実家を出たときに比べると両親ともどもすっかり年老いたなぁ、なんかもうそうとうに老人になってしまったんだなって思わずにはいられなかった。
読了:小さな習慣[スティーヴン・ガイズ/田口 未和]
新しく習慣を身に着けるにはどうすればいいのか、脳の仕組み(癖)を踏まえた、また著者の体験に基づいたハウツー本。以下に著者の主張をまとめる。
これまでの本を見ると、ある行動を習慣化するにはどうすればいいのかは、モチベーションが保てるかという話に帰着することが多いのだが、人間の脳の癖を考慮すると報酬なしでモチベーションを保つというのは実は難しい。モチベーションよりも意志の力による方がよい。ただし、最初のハードルが高いと毎日意志の力に頼るというのも続かない。「1日30分は運動をする」というのは、運動をする機会のない人にとってはあまりにも高すぎるハードルだ。というわけで、実行するのに苦労をしない程度まで小さくした習慣から始めよう。どのくらい小さいかというと、「1日1回腕立て伏せをする」くらい。習慣にするにはばかばかしいと思えるくらい小さいほうが良い。こんな程度なら、どんなに疲れていたとしても1分もかからないからすぐできる、やらないほうがどうかしてるというハードルの低さにしておく。これでも無理なら、「ヨガマットを引く」「うつぶせになる」くらいにまで下げてもいいそうだ。要は、できない、しない理由にならないくらい小さくしておく。一度始めたら、ひょっとしたらもっとやりたくなって10回腕立て伏せをするかもしれない。それならそれでOK。また一日1回でも腕立て伏せができれば、その日の目標はクリアしたという肯定感が生まれる。これが続けば、脳はそのうちこの習慣に対する抵抗がなくなり、気づいた時にはきっと習慣化しているだろう。
著者はほかに「1日50words以上の文章を書く」「1日2ページ以上本を読む」とかを習慣化させたそうだ(あくまでも最低ラインで実際にはこれ以上の行動をしていることの方が多いそうだ)。なるほど、やることを小さく具体的にすることで、意志の力を引き出しやすくするのだね。実践方法、注意点なども載っていて、目標を立てるものの何度も挫折している自分には参考になるところ多し。試してみようかな。
閑話休題
さるネット記事を読んでいて、愕然とした。記事の本題に入る前に「その前に閑話休題。」と書かれているのだ。そして雑談が始まる。ちょっと待て「閑話休題」は「それはさておき本題に戻ると」という意味だよ。「雑談はここまでにして」という時に使うわけで、「ちょっとこれから雑談しますね」では断じてない。匿名素人ブログとかで見たのであれば、「あぁこの人は間違って覚えちゃってるんだね」と読み流すんだけれども、いかんせんジャーナリスト(その他に翻訳などの言葉に関する仕事もするプロフェッショナル)を自称するライターと思しき人の記事だったのだよ。こういう知性を疑われるような間違いをするとライターとしての信用にかかわるのではないのかね?本人が間違えて覚えているんだろうけれども、知的に見せようとして墓穴を掘った感じ。間違った使い方をするくらいなら、こんな日常では使わない言葉をあえて用いることないのに。まぁ本人は間違っていると思っていないから堂々と使ったんだろうな。せめて公になる前に関係者の誰かがチェックしてあげなよ。言葉のプロともあろう人が、こうも堂々と使うとむしろあっぱれな気もしてくるけどさ。
■ 22.時折間違えて使われる「閑話休題」 – 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) – カクヨム
上記記事中にあるように、多くの日本人が意味を間違えている言葉だそうな。というか、そんな言葉があることさえ知らない人が多いらしい。というくらい日常で使われる言葉ではないだけに、誤った用法が市民権を得るのは当分なかろうと思われる。
「~してあげる」
本日受講のセミナーにて、システムの操作説明をする講師が、「~してあげてください」「~してあげると」を連発。身の毛がよだつほど気持ち悪いことこの上なかった。
例:「このボタンをクリックしてあげてください」
なんにでも「~してあげる」というのは、いい大人が使う言葉ではないと思うのだが、それは俺が古い人間だからなのか?
■ 「~してあげる」? | ことば(放送用語) – 最近気になる放送用語 | NHK放送文化研究所
■ 「~してあげる」という言い方にイラっとくる私の心はやはり狭いのか | わるくないすよ
■ 第33回「~してあげる」はだれからだれへ? | web日本語
ラフの感覚を述べると、まず単純な動詞としての「やる」と「あげる」の違いについては、「あげる」というのは人以外や物に対しては使わない。「花に水をやる」だし「犬に餌をやる」だ。小さな子どもに話すときに「花に水をあげる」とか「犬にえさをあげる」という対象を擬人化した場合の表現はまぁ許容範囲ではあるが、大人が大人に話す場合には「花に水をあげる」とは言わない。大人に「あげる」を使うと、相手を子ども扱いしている感じがする。
動作に付して丁寧な表現とするような「~してあげる」は、まだ世間的に認められた使い方とは思えない。「~してあげる」という表現は、人に対して使うと、上から目線と感じる人も多いようだ。「わざわざ、あなたのために」という言外の意味が加わる感じがあるからなのであろう。おそらくは、相手を下に見ている、つまり子ども扱いしているからなのではなかろうかと推測される。「~してあげる」に遭遇すると、丁寧というより過剰すぎて慇懃無礼な印象だし、また話者が自身の無知をさらしているようにも思え(知性を疑う)、聞いているこっちのほうが身もだえしたくなるほどにこっぱずかしくなる。赤ちゃん言葉で話しかけられている気がして、相当恥ずかしいのだ。すくなくともビジネスの場では「~してあげる」は使わないほうが良い表現だろう。
おそらく「~してあげる」という言葉を使う人は、自身は丁寧な言葉遣いをしているだけで、奇妙に感じる人がいるとはつゆとも思っていないのであろうなぁ。
読了:イニシエーション・ラブ(文春文庫)[乾 くるみ]
目次は次の通り(カセットテープに懐かしの歌謡曲という体裁か)。
side-A
- 揺れるまなざし
- 君は1000%
- YES-NO
- Lucky Chanceをもう一度
- 愛のメモリー
- 君だけに
side-B
- 木綿のハンカチーフ
- DANCE
- 夏をあきらめて
- 心の色
- ルビーの指輪
- SHOW ME
side-Aを、なんだか伸び切ったパンツのゴムのような80年代バブル臭に満ちた若者風俗小説だなぁと思ってダラダラと読んでいたんだけれども、side-Bに入ると「あれ?ちょっと設定が微妙に変わった?パラレルワールド?」とか思いながらも「まぁいいか」と気にせず読み進めていく。しかし最後に向かって、ん?ん?とちょこっとずつ疑問が大きくなっていく。そしてラストのセリフで募ってきた違和感の理由が明らかになる。おぉ、そういう仕掛けだったのかと。すぐさまside-Aをもう一度読み直したよ。ミステリー小説だとは思わずに読んでいたから、ガツンとやられました。一番怖いのはお前だったか……。
読了:小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]
ちょいと「フランス革命」の復習をしたいと思って手にしたのが、この「小説フランス革命」全18巻。三部会の招集(1789)からテルミドールのクーデター(1794)(かつて授業では「テルミドールの反動」って習ったけれども、今は「クーデター」って言うんだね)までのおよそ5年間を扱った群像劇。1巻あたりだいたい40章ちょいで構成され(なので1章は数ページでサクサク読み進められる)、それぞれの章の主人公の視点で時系列にイベントが進行する。戦争には興味はあっても、戦闘にはあまり興味がわかないラフは、蜂起がおこるたびにその展開に対して興味が持てず読むのを何度か投げ出し、結局半年くらいかかってようやく読み終えた(全巻まとめてでなく、1巻読み終えるごとに感想を書いていればよかったと今更ながらに思う)。
■ wikipediaの「フランス革命」の項
■ wikipediaの「テルミドールのクーデター」の項
各巻のタイトル
- 革命のライオン
- パリの蜂起
- バスティーユの陥落
- 聖者の戦い
- 議会の迷走
- シスマの危機
- 王の逃亡
- フイヤン派の野望
- 戦争の足音
- ジロンド派の興亡
- 八月の蜂起
- 共和政の樹立
- サン・キュロットの暴走
- ジャコバン派の独裁
- 粛清の嵐
- 徳の政治
- ダントン派の処刑
- 革命の終焉
まとまった感想が書きにくいので、箇条書きメモにしておく。
・小説が扱うのはたかだか5年の期間だけれども、社会は激変し続ける。政体はアンシャン・レジーム下の絶対王政、立憲王政、共和制と変わる。第3身分から生まれた国民議会も、憲法制定国民議会、立法議会、国民公会と変わっていく。まったく別の憲法が2回制定されている(2つ目は制定はされたものの施行は停止)。
・議会の右側に相対保守派、左側に相対革新派が席を占めたことから、今に言うところの右派(右翼)、左派(左翼)という言葉が生まれている。また、メートル法の制定もこの時期。フランス国旗が定着するのもこの時期。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ(マルセイユ野郎たち)」もマルセーユ出身の兵に歌われて広まったもの。
・革命の主体となった派閥はジャコバン派だけれども、中心人物ロベスピエールのやり方に反発する集団がしょっちゅう内部分裂し、これが相対保守派となり実権を握るもののすぐに失脚していく(立憲王政を目指したフイヤン派、穏健共和制を目指したジロンド派など)。やがてジャコバン派は革命の理想を実現するために恐怖政治(テルール、テロの語源)を敷き、政敵を反革命分子として次々と断頭台に送る。
・読み始めて最初に衝撃を受けたのが、ヴェルサイユ宮殿がパリ市内にはないってこと。てっきりパリ市内にあるものだと(ルーブル宮やチュイルリー宮みたいに)思い込んでいたよ。ヴェルサイユはパリ郊外にあって、小説の記述によると、パリ市内から馬車で半日、徒歩で6時間くらいらしい。っていうか、小説にも出てくるヴェルサイユ行進(困窮にあえぐパリの女性たちがヴェルサイユにいる王に訴えに行き、そのまま王一家をパリのチュイルリー宮に移動させた(拉致とも)事件)の時に習ったような気がするのにすっかり忘れていたよ。
■ wikipediaの「ヴェルサイユ」の項
■ wikipediaの「ヴェルサイユ行進」の項
・この時期を扱うからには、軸となるのはジャコバン派のロベスピエールだけれども、この小説に出てくるロベスピエールの人物像には共感できず。小柄メガネの理想主義者、言論の力を信じ、革命を本気で遂行するために自己を犠牲にする男ではあるんだけれども、自身の理想に対して時々弱気になる。いや、弱気になったっていいんだよ。実は苦悩する指導者だったとして描けばいいじゃないかと。ところが、悩んだり弱気になったりもするけれども、唐突にやっぱり革命の理想に生きると強気になったり、ジェットコースターのように揺らぎまくって、なぜそういう風に思い直した?と彼の心情を慮るには中途半端で展開の必然性が弱いため、読者(少なくともラフは)置いてきぼり状態をしばしば食らった。終盤では、もはや「何、この人?」状態。処刑直前のダントンのセリフによって、ロベスピエールは革命の理想を押し付けられた犠牲者だと説明されることで、ロベスピエールの不可解な点はある程度納得。それでも、盟友デムーランが逮捕されているときに彼の妻リュシルに想いを告白するシーンは謎の嵐。ロベスピエールはなんでずっと独身なの?とか思うところはあったけれども、伏線もなく終盤にいきなりなんてことを言いだすんだ?(このあとデムーランに続きリュシルも断頭台送りになる)。さらにサン・ジュスト(美貌の男)にロベスピエールが唇を奪われるシーンはなんじゃこりゃ?ショッキングなシーンなはずなのにロベスピエールはそんなに動揺していない(あくまでも大事なのは革命を続けることらしい)。小説だからこそもっと明確に人間ロベスピエールの性格を定めてよかったのではなかろうか?
■ wikipediaの「マクシミリアン・ロベスピエール」の項
・大物に、ミラボー(1791年病死)、デムーラン(ミラボーにそそのかされて1789年のバスティーユ襲撃の中心人物となる)がいるのに、不勉強なラフはこの二人全くのノーマークだったよ(小説を読むまで存在さえ知らなかった)。そうは言っても、この小説で一番共感できた人物はデムーランだ。子供っぽくて後先考えずに突っ走る情熱家でありながら、しょっちゅう考え込んでは勝手にへこんでしまうインテリ。放っておけない愛おしさにあふれている。
■ wikipediaの「オノーレ・ミラボー」の項
■ wikipediaの「カミーユ・デムーラン」の項
・女性も多く登場し活躍するのだが、男に比べると今ひとつ格下扱いされている登場人物が多いかなぁという印象を受けてしまうのは時代のせい?小説の最後の章は女性の時代の到来を予感させる終わり方になってはいるんだけれども……。
・一番面白く読めたのは、ルイ16世一家が国外逃亡を企てたヴァレンヌ事件(ヴァレンヌなのにばれちゃった事件)のくだり。国境手前のヴァレンヌまで逃げたのだがここで捕まる。この事件がルイ16世の視点で描かれる。(文庫第7巻)
■ wikipediaの「ヴァレンヌ事件」の項
・小説的に面白かったのは、断頭台に送られる直前のダントンとロベスピエールの対峙、ダントンがデムーランに語るロベスピエール評(文庫第17巻)。
・共和制が樹立すると、キリスト教との関係が深いグレゴリオ暦(いわゆる西暦)が廃され、共和暦が採用される(採用されるのは1793年11月24日だが、さかのぼって王政が廃止された翌日1792年9月22日を共和暦元年元日とする)。歴史小説なので日付が結構出てくるのだけれども、共和暦というのがどうしても重要になってくるので、本文中も日付は「それは熱月六日あるいは七月二十四日、つまりは昨日の話だった」(熱月と書いてテルミドールと読む)というように記される。共和暦の日付が出てくるたびに「あるいは」以下で西暦日付が併記され大変くどくなる。ところがおもしろいことに、読者だけでなく、当のパリ市民も共和暦にはちょっと困惑していたようだ。パリ市民にとって記念すべき日であるバスティーユ襲撃の日(7月14日、現在のパリ祭の日)が、共和暦の導入によりパリ市民にもわかりにくくなってしまったという旨が小説内にあり。
■ wikipediaの「フランス革命暦」の項
この小説はテルミドールのクーデターでロベスピエールが断頭台に送られたところで終わる。フランスの政体は19世紀も安定しない。このあと、総裁政府~総統政府(ナポレオンの表舞台への登場)~第1帝政(ナポレオンが皇帝に)~王政復古~帝政(ナポレオンの百日天下)~(第2期)王政復古~七月王政~第2共和制~第2帝政(ナポレオン三世)~第3共和制と目まぐるしく変わっていく。20世紀は第二次世界大戦でナチスの傀儡政権ヴィシー政府の後、戦後から現在まで続く第4共和制に至る。
■ 小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]
■ 【合本版】小説フランス革命(全18巻)(【合本版】小説フランス革命(全18巻))[佐藤賢一]【電子書籍】
著者の佐藤賢一は大学で西洋史学を専攻した直木賞作家。内容や文体の好き嫌いは個人的な好みなどがあるから問わないが、作家にしては言葉の扱いが甘いように思える。先日の日記で「汚名挽回」を指摘した(読了:ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ])。今回は何度か「姑息」という言葉が出てくるんだけれども、どうやら「卑怯」という意味で使っているようなのだ。確かに現代の多くの日本人が「姑息」を「卑怯」と間違えているという調査はある。しかし「姑息」は「一時しのぎ、その場しのぎ、場当たり的」という意味だ。つまりその場を切り抜けるための、とりあえずの(熟考していない)回避だ。一方「卑怯」は考えたうえでのこざかしさを思わせる。対象に対して、考えていないのか、考えたのかの違いはラフの言語感覚では大きいように思われる。プロの物書きであるならば、こういう間違えやすいとされている語の使い方はきちんとしてほしいとラフは考える。多くの人が間違えている言葉をあえて(逆手にとって)間違った用法で使うのであれば、意図的にそうしていることがわかるようにしたほうがいいだろう。そうでないなら、誤解を避けるためにも、別の語を使うなどの方法をとったほうがいいのではないか。出版社を通した商業用ルートに乗ったものなのに、ちゃんとチェックする人はいなかったのだろうか?
■ wikipediaの「佐藤賢一」の項
■ 姑息 – 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)
■ 姑息(こそく)について : 日本語、どうでしょう?
ナショナル・ミュージアムへ散歩
ぶらぶらと散歩に出かけ、しばらく歩いたのちに、ふと行先も考えずに都バスに乗って(今「天気の子」とコラボレーションしてるんだね)「さて、どこまで行こう」と考える。不忍通りを通るバスだから、根津(言問通りと交差する所)で降りて上野の国立博物館まで歩いてみようと(徒歩15分くらい)。
国立博物館は日本に4館ある(東京(上野)、京都、奈良、九州(大宰府))。上野の国立博物館は東京国立博物館(愛称:トーハク)。上野公園にある一群の博物館、美術館、動物園の中では一番好き。アニメ映画「時をかける少女」にも主要な場所として登場した施設。
■ 東京国立博物館 – トーハク https://www.tnm.jp/
URLがシンプル(シンプルすぎて知らないと本当に公式サイトなのかさえわからない)。tnm は Tokyo National Museum ね。参考までに各国立博物館のトップページへのリンクを載せておきます。
■ 京都国立博物館 https://www.kyohaku.go.jp/jp/
■ 奈良国立博物館 https://www.narahaku.go.jp/
■ 九州国立博物館 https://www.kyuhaku.jp/
kyohaku, narahaku, kyuhaku なのに、東京だけ tnm 。京都と奈良は「go」(government 政府の略、日本政府の機関や省庁の所管する研究所、国立研究開発法人などに対して割り当てられる)を外さないところに、正統性へのこだわりを垣間見るような思いがする。
一番新しい平成館で、特別展「三国志展」をやっていたので、のぞいてみる。本館に外国人が多かった(半分くらいは外人だったのでは?)のに比べると、こちらはほぼ日本人だけでごった返していた。そりゃ日本に来る外国人観光客がわざわざ中国をテーマにした展示を好き好んで見に来ることはないよなぁとおもいながらも、「日本人って本当に三国志好きなんだなぁ」と改めて実感。
中国の正史って、皇帝が歴史家に命じて、前王朝の歴史を書かせるというおもしろい仕組みなんだけれども、これは中国では王朝の交代のことを「革命」と呼び(易姓革命)、王朝の正統性を主張するために前王朝がなぜ滅んだのかを記すということになっているのだ。
「三国志」は正史二十四史の一つなんだけれども、日本で一番有名な「三国志」はおそらく横山光輝のマンガ「三国志」であろう。ちなみに横山マンガは「三国志演義」(明代に成立したエンターテイメント歴史小説)をベースにしている。ところどころに横山マンガの原稿が展示してあるのがほほえましい。ちなみに展示自体は「三国志」をもとにした、最近の考古学的知見の展示。
■ 『三国志演義』とは?正史『三国志』と何が違う?中国で呂布は美男子だと!? – BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
「三国志」は正史だけれども、「史」ではなく「志」である。学生のみんなは筆記テストで間違えないようにしよう。「日本書紀」が「記」じゃないのと同様ね(「古事記」は「記」)。
■ 三国志の「志」はなぜ「史」ではないのでしょうか。 – 二十四史の中で志にな… – Yahoo!知恵袋
ほかにも今回の展示は結構凝っていて、有名な「赤壁の戦い」に一室を当てており、天井から奥の壁に向かって大量の矢が放たれている状況を再現した意匠は圧巻。
(今回の展示は写真撮影OKなのです)
ふらっと寄っただけだったのに、意図せず素敵な展示を見ることができました。
それと、ミュージアムショップって楽しいよね。仏像写真のクリアフォルダ、仕事で使うとなるとかなりシュール。埴輪の縮小レプリカとか買う人いるのかね?とか思いながらも、心惹かれる(買おうとまでは思わないけれども)。
読了:ホモ・デウス 上・下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラーになった前著「サピエンス全史」に続く、人類の行く末の考察。人類の行く末の考察といっても、本著の基本となっているのは歴史的なイデオロギー(宗教)の変遷と、未来の人類の行く末を決定づけるであろう現代科学(バイオテクノロジーとAI)。歴史書というよりも、学術風人類史エッセイ。前著「サピエンス全史」の最後は、人類は有機生命体を脱して電脳空間へと意識のみを移す進化を遂げる可能性があるというびっくりのSF着地だった。さて、今度はどうなるか。ちなみに「サピエンス全史」を読んだ時の感想文はこちら。
ユヴァル・ノア・ハラリって功成り名遂げた学者かと勝手に思っていたけれども、1976年生まれだというから、ラフより年下だったのね。歴史学者だけれども、進化生物学者的な科学的視点も多くあるところがおもしろい。
現生人類(ホモ・サピエンス)はホモ・デウス(「デウス」は神の意)に進化するのか、2001年宇宙の旅のスターチャイルドみたいななにかに?(表紙の絵から連想)なんて読み始める前は勝手に思っていたけれども、違いました。
現時点(21世紀初頭)で人類が克服したものとして「飢饉」「疫病」「戦争」が挙げられる。すっかり解決できたわけではないものの、対処可能な課題に変わったのだ。そして、これからの人類は「不死と至福と神性を目指して進む」のだろうという仮定のもとにストーリーは進む。
さて、人類も動物であるのだが、なにが人類と他の動物を異なるものとしているのかという点から始まる。動物にも意思(事態の予測さえ可能)と思しきものを持つ種もいるのだ。ただ人類は、実在しないものである概念(神(宗教)、国家、貨幣価値、企業)、そしてそれを他者と共有し協力することが可能で(ん?なんかそういう本を最近読んだぞ?)、これが人類を特別な存在にしたのである。また時間空間を超えて伝える手段である書字さえ身に着けたのだ。
原始的なアニミズムからやがて体系だった宗教というものを生み出した。人は「神」(あるいは神の意志を伝える権威をもった教皇や皇帝、王など)が命ずるからそれを自身の生きる指針とした時代が科学革命の時代まで続く。そして啓蒙主義の時代に入り、誰もが個別に持っている個人の意思というものが重視される人類至上主義の時代に変わる。「神は死ん」で、「私がそう思う(感じる、考える)からだ」ということを明言する時代になったのだ。そして20世紀に自由主義というものが主流になるのであるが、ここにおいて人類至上主義の極端な進化形である「ファシズム」と「共産主義」も生み出された(ただし既知のようにこれらは失敗している。なぜ失敗したかの考察もされているが、失敗したのに「進化」という点に注目)。
現在、科学界を席巻している技術は生物学(本著では主に進化学と脳科学をさしているようだ)と人工知能(いわゆるAI)である。これらの研究により、私たちが「意識」と呼んでいるものの存在が科学的に研究されるようになってきた。人類至上主義、自由主義の根拠となっていた「自己」の「自由意志」というものの正体はなんなのか?最近の研究によると生物はアルゴリズムにより動いているに過ぎないのだと。そのアルゴリズムから生まれるのが「自己」という意識であって、つまりは「自己もまた想像上の物語」ということもいわれるようになった。生命現象(事実)としてそうなのであって倫理的にどうかということは問題ではないのである。
こうして時代は人類至上主義から情報(データ)至上主義の時代へと移行を始めている。ネットワーク(インターネット)上に自分の情報をどんどんアップロードすることにより(もちろんプライバシーを提供することに同意することが前提だが)、自分よりも自分のことを知っていて、より適切に自分の人生の指針(結婚相手や仕事など)を判断して示してくれるアルゴリズム(システム)が登場するだろう(現にSNSの時代とはこういうものじゃないか?)。それで十分幸せな人生が送れるのであれば「プログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?」。システムにとっては、人類は情報の提供をするだけの存在であり、翻ってそういう人類に人生の指針を与えるというシステムの存在の意味はなんなのか?人類はそういうものを作り出すことを目指しているのか?
こういう未来展望にひっかかる読者がいれば、これでいいのかどうか、ぜひ考えてほしい。それが本書の意義であるという締めくくりであった。
ホモ・デウスとは結局何なのか。ラフがどうとらえたかというと、人類を人類たらしめた要素は未来においてシステム(本書でいうところのアルゴリズム)に代替されうる、このシステムこそがホモ・デウスではないのか(ホモ・サピエンス自らのアップデートではなさそうだよ。つまり人類の進化的後継ではない)。
脳科学の研究を踏まえた「生物はアルゴリズムであり自己なんてものは幻想」という考察はちょっと強引な気がする。確かに脳の活動原理が電気信号と化学物質による情報伝達でありそれが複雑なネットワークを形成しているということはわかっている。でも、どういう情報(刺激)によって、何がどのように作用して出力(行動や意識)が生み出されるのかの仕組みはまったくわかっていないのだ(こういう刺激により脳のこの部分が活動しているからおそらくこの部分が関わっているだろうという程度のことは推測されている)。このわかっていない部分こそが著者の言うアルゴリズムじゃないの?それは全然明らかになっていないし、それを人類が理解できる言語化つまりロジックにするのは現段階では不可能。ここの展開を読んでいて思ったのは「シュレーディンガーの猫」っぽいなぁってこと。ミクロレベルの量子力学の話を、マクロの物理学に持ってくると、おかしな事態になるっていうたとえ話が「シュレーディンガーの猫」なんだけれども、これの脳科学版を読んでいる気もするのだ。レベルの違うことをアルゴリズムという語で強引に引き寄せて結んでしまい論展開が飛躍している。かつて一世を風靡した「生命機械論」を彷彿とさせる面もあるなぁ。
まぁ、本著でもAIのシンギュラリティーはやってくるって前提で話が進んでいるんだけれども、ラフが思うに現状の科学の延長上にはシンギュラリティーはやってきそうにないよ。当分どころかずっとね。シンギュラリティーがやってくるとしたら、まったく異なるとんでもない発想の転換とイノベーションが必要だろうねぇ。
■ ホモ・デウス 上[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
■ ホモ・デウス 下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
以下のような記事もありましたので(以前retweet済み)、紹介しておきます。
『ホモ・デウス』は現代人に生の意味を与える「宗教書」かもしれない : https://t.co/P5qQy0ad1h #現代ビジネス
— 現代ビジネス (@gendai_biz) 2019年6月20日