読了:小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]

 ちょいと「フランス革命」の復習をしたいと思って手にしたのが、この「小説フランス革命」全18巻。三部会の招集(1789)からテルミドールのクーデター(1794)(かつて授業では「テルミドールの反動」って習ったけれども、今は「クーデター」って言うんだね)までのおよそ5年間を扱った群像劇。1巻あたりだいたい40章ちょいで構成され(なので1章は数ページでサクサク読み進められる)、それぞれの章の主人公の視点で時系列にイベントが進行する。戦争には興味はあっても、戦闘にはあまり興味がわかないラフは、蜂起がおこるたびにその展開に対して興味が持てず読むのを何度か投げ出し、結局半年くらいかかってようやく読み終えた(全巻まとめてでなく、1巻読み終えるごとに感想を書いていればよかったと今更ながらに思う)。

wikipediaの「フランス革命」の項
wikipediaの「テルミドールのクーデター」の項

各巻のタイトル

  1. 革命のライオン
  2. パリの蜂起
  3. バスティーユの陥落
  4. 聖者の戦い
  5. 議会の迷走
  6. シスマの危機
  7. 王の逃亡
  8. フイヤン派の野望
  9. 戦争の足音
  10. ジロンド派の興亡
  11. 八月の蜂起
  12. 共和政の樹立
  13. サン・キュロットの暴走
  14. ジャコバン派の独裁
  15. 粛清の嵐
  16. 徳の政治
  17. ダントン派の処刑
  18. 革命の終焉

まとまった感想が書きにくいので、箇条書きメモにしておく。

・小説が扱うのはたかだか5年の期間だけれども、社会は激変し続ける。政体はアンシャン・レジーム下の絶対王政、立憲王政、共和制と変わる。第3身分から生まれた国民議会も、憲法制定国民議会、立法議会、国民公会と変わっていく。まったく別の憲法が2回制定されている(2つ目は制定はされたものの施行は停止)。

・議会の右側に相対保守派、左側に相対革新派が席を占めたことから、今に言うところの右派(右翼)、左派(左翼)という言葉が生まれている。また、メートル法の制定もこの時期。フランス国旗が定着するのもこの時期。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ(マルセイユ野郎たち)」もマルセーユ出身の兵に歌われて広まったもの。

・革命の主体となった派閥はジャコバン派だけれども、中心人物ロベスピエールのやり方に反発する集団がしょっちゅう内部分裂し、これが相対保守派となり実権を握るもののすぐに失脚していく(立憲王政を目指したフイヤン派、穏健共和制を目指したジロンド派など)。やがてジャコバン派は革命の理想を実現するために恐怖政治(テルール、テロの語源)を敷き、政敵を反革命分子として次々と断頭台に送る。

・読み始めて最初に衝撃を受けたのが、ヴェルサイユ宮殿がパリ市内にはないってこと。てっきりパリ市内にあるものだと(ルーブル宮やチュイルリー宮みたいに)思い込んでいたよ。ヴェルサイユはパリ郊外にあって、小説の記述によると、パリ市内から馬車で半日、徒歩で6時間くらいらしい。っていうか、小説にも出てくるヴェルサイユ行進(困窮にあえぐパリの女性たちがヴェルサイユにいる王に訴えに行き、そのまま王一家をパリのチュイルリー宮に移動させた(拉致とも)事件)の時に習ったような気がするのにすっかり忘れていたよ。
wikipediaの「ヴェルサイユ」の項
wikipediaの「ヴェルサイユ行進」の項

・この時期を扱うからには、軸となるのはジャコバン派のロベスピエールだけれども、この小説に出てくるロベスピエールの人物像には共感できず。小柄メガネの理想主義者、言論の力を信じ、革命を本気で遂行するために自己を犠牲にする男ではあるんだけれども、自身の理想に対して時々弱気になる。いや、弱気になったっていいんだよ。実は苦悩する指導者だったとして描けばいいじゃないかと。ところが、悩んだり弱気になったりもするけれども、唐突にやっぱり革命の理想に生きると強気になったり、ジェットコースターのように揺らぎまくって、なぜそういう風に思い直した?と彼の心情を慮るには中途半端で展開の必然性が弱いため、読者(少なくともラフは)置いてきぼり状態をしばしば食らった。終盤では、もはや「何、この人?」状態。処刑直前のダントンのセリフによって、ロベスピエールは革命の理想を押し付けられた犠牲者だと説明されることで、ロベスピエールの不可解な点はある程度納得。それでも、盟友デムーランが逮捕されているときに彼の妻リュシルに想いを告白するシーンは謎の嵐。ロベスピエールはなんでずっと独身なの?とか思うところはあったけれども、伏線もなく終盤にいきなりなんてことを言いだすんだ?(このあとデムーランに続きリュシルも断頭台送りになる)。さらにサン・ジュスト(美貌の男)にロベスピエールが唇を奪われるシーンはなんじゃこりゃ?ショッキングなシーンなはずなのにロベスピエールはそんなに動揺していない(あくまでも大事なのは革命を続けることらしい)。小説だからこそもっと明確に人間ロベスピエールの性格を定めてよかったのではなかろうか?
wikipediaの「マクシミリアン・ロベスピエール」の項

・大物に、ミラボー(1791年病死)、デムーラン(ミラボーにそそのかされて1789年のバスティーユ襲撃の中心人物となる)がいるのに、不勉強なラフはこの二人全くのノーマークだったよ(小説を読むまで存在さえ知らなかった)。そうは言っても、この小説で一番共感できた人物はデムーランだ。子供っぽくて後先考えずに突っ走る情熱家でありながら、しょっちゅう考え込んでは勝手にへこんでしまうインテリ。放っておけない愛おしさにあふれている。
wikipediaの「オノーレ・ミラボー」の項
wikipediaの「カミーユ・デムーラン」の項

・女性も多く登場し活躍するのだが、男に比べると今ひとつ格下扱いされている登場人物が多いかなぁという印象を受けてしまうのは時代のせい?小説の最後の章は女性の時代の到来を予感させる終わり方になってはいるんだけれども……。

・一番面白く読めたのは、ルイ16世一家が国外逃亡を企てたヴァレンヌ事件(ヴァレンヌなのにばれちゃった事件)のくだり。国境手前のヴァレンヌまで逃げたのだがここで捕まる。この事件がルイ16世の視点で描かれる。(文庫第7巻)
wikipediaの「ヴァレンヌ事件」の項

・小説的に面白かったのは、断頭台に送られる直前のダントンとロベスピエールの対峙、ダントンがデムーランに語るロベスピエール評(文庫第17巻)。

・共和制が樹立すると、キリスト教との関係が深いグレゴリオ暦(いわゆる西暦)が廃され、共和暦が採用される(採用されるのは1793年11月24日だが、さかのぼって王政が廃止された翌日1792年9月22日を共和暦元年元日とする)。歴史小説なので日付が結構出てくるのだけれども、共和暦というのがどうしても重要になってくるので、本文中も日付は「それは熱月六日あるいは七月二十四日、つまりは昨日の話だった」(熱月と書いてテルミドールと読む)というように記される。共和暦の日付が出てくるたびに「あるいは」以下で西暦日付が併記され大変くどくなる。ところがおもしろいことに、読者だけでなく、当のパリ市民も共和暦にはちょっと困惑していたようだ。パリ市民にとって記念すべき日であるバスティーユ襲撃の日(7月14日、現在のパリ祭の日)が、共和暦の導入によりパリ市民にもわかりにくくなってしまったという旨が小説内にあり。
wikipediaの「フランス革命暦」の項

この小説はテルミドールのクーデターでロベスピエールが断頭台に送られたところで終わる。フランスの政体は19世紀も安定しない。このあと、総裁政府~総統政府(ナポレオンの表舞台への登場)~第1帝政(ナポレオンが皇帝に)~王政復古~帝政(ナポレオンの百日天下)~(第2期)王政復古~七月王政~第2共和制~第2帝政(ナポレオン三世)~第3共和制と目まぐるしく変わっていく。20世紀は第二次世界大戦でナチスの傀儡政権ヴィシー政府の後、戦後から現在まで続く第4共和制に至る。

小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]
【合本版】小説フランス革命(全18巻)(【合本版】小説フランス革命(全18巻))[佐藤賢一]【電子書籍】


著者の佐藤賢一は大学で西洋史学を専攻した直木賞作家。内容や文体の好き嫌いは個人的な好みなどがあるから問わないが、作家にしては言葉の扱いが甘いように思える。先日の日記で「汚名挽回」を指摘した(読了:ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ])。今回は何度か「姑息」という言葉が出てくるんだけれども、どうやら「卑怯」という意味で使っているようなのだ。確かに現代の多くの日本人が「姑息」を「卑怯」と間違えているという調査はある。しかし「姑息」は「一時しのぎ、その場しのぎ、場当たり的」という意味だ。つまりその場を切り抜けるための、とりあえずの(熟考していない)回避だ。一方「卑怯」は考えたうえでのこざかしさを思わせる。対象に対して、考えていないのか、考えたのかの違いはラフの言語感覚では大きいように思われる。プロの物書きであるならば、こういう間違えやすいとされている語の使い方はきちんとしてほしいとラフは考える。多くの人が間違えている言葉をあえて(逆手にとって)間違った用法で使うのであれば、意図的にそうしていることがわかるようにしたほうがいいだろう。そうでないなら、誤解を避けるためにも、別の語を使うなどの方法をとったほうがいいのではないか。出版社を通した商業用ルートに乗ったものなのに、ちゃんとチェックする人はいなかったのだろうか?

wikipediaの「佐藤賢一」の項
姑息 – 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)
姑息(こそく)について : 日本語、どうでしょう?

読了:ホモ・デウス 上・下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。『サピエンス全史』の著者が描く衝撃の未来。生物はただのアルゴリズムであり、コンピュータがあなたのすべてを把握する。生体工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。人類はどこへ向かうのか?

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラーになった前著「サピエンス全史」に続く、人類の行く末の考察。人類の行く末の考察といっても、本著の基本となっているのは歴史的なイデオロギー(宗教)の変遷と、未来の人類の行く末を決定づけるであろう現代科学(バイオテクノロジーとAI)。歴史書というよりも、学術風人類史エッセイ。前著「サピエンス全史」の最後は、人類は有機生命体を脱して電脳空間へと意識のみを移す進化を遂げる可能性があるというびっくりのSF着地だった。さて、今度はどうなるか。ちなみに「サピエンス全史」を読んだ時の感想文はこちら。

読了:サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]

 ユヴァル・ノア・ハラリって功成り名遂げた学者かと勝手に思っていたけれども、1976年生まれだというから、ラフより年下だったのね。歴史学者だけれども、進化生物学者的な科学的視点も多くあるところがおもしろい。

 現生人類(ホモ・サピエンス)はホモ・デウス(「デウス」は神の意)に進化するのか、2001年宇宙の旅のスターチャイルドみたいななにかに?(表紙の絵から連想)なんて読み始める前は勝手に思っていたけれども、違いました。

 現時点(21世紀初頭)で人類が克服したものとして「飢饉」「疫病」「戦争」が挙げられる。すっかり解決できたわけではないものの、対処可能な課題に変わったのだ。そして、これからの人類は「不死と至福と神性を目指して進む」のだろうという仮定のもとにストーリーは進む。

 さて、人類も動物であるのだが、なにが人類と他の動物を異なるものとしているのかという点から始まる。動物にも意思(事態の予測さえ可能)と思しきものを持つ種もいるのだ。ただ人類は、実在しないものである概念(神(宗教)、国家、貨幣価値、企業)、そしてそれを他者と共有し協力することが可能で(ん?なんかそういう本を最近読んだぞ?)、これが人類を特別な存在にしたのである。また時間空間を超えて伝える手段である書字さえ身に着けたのだ。

 原始的なアニミズムからやがて体系だった宗教というものを生み出した。人は「神」(あるいは神の意志を伝える権威をもった教皇や皇帝、王など)が命ずるからそれを自身の生きる指針とした時代が科学革命の時代まで続く。そして啓蒙主義の時代に入り、誰もが個別に持っている個人の意思というものが重視される人類至上主義の時代に変わる。「神は死ん」で、「私がそう思う(感じる、考える)からだ」ということを明言する時代になったのだ。そして20世紀に自由主義というものが主流になるのであるが、ここにおいて人類至上主義の極端な進化形である「ファシズム」と「共産主義」も生み出された(ただし既知のようにこれらは失敗している。なぜ失敗したかの考察もされているが、失敗したのに「進化」という点に注目)。

 現在、科学界を席巻している技術は生物学(本著では主に進化学と脳科学をさしているようだ)と人工知能(いわゆるAI)である。これらの研究により、私たちが「意識」と呼んでいるものの存在が科学的に研究されるようになってきた。人類至上主義、自由主義の根拠となっていた「自己」の「自由意志」というものの正体はなんなのか?最近の研究によると生物はアルゴリズムにより動いているに過ぎないのだと。そのアルゴリズムから生まれるのが「自己」という意識であって、つまりは「自己もまた想像上の物語」ということもいわれるようになった。生命現象(事実)としてそうなのであって倫理的にどうかということは問題ではないのである。

 こうして時代は人類至上主義から情報(データ)至上主義の時代へと移行を始めている。ネットワーク(インターネット)上に自分の情報をどんどんアップロードすることにより(もちろんプライバシーを提供することに同意することが前提だが)、自分よりも自分のことを知っていて、より適切に自分の人生の指針(結婚相手や仕事など)を判断して示してくれるアルゴリズム(システム)が登場するだろう(現にSNSの時代とはこういうものじゃないか?)。それで十分幸せな人生が送れるのであれば「プログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?」。システムにとっては、人類は情報の提供をするだけの存在であり、翻ってそういう人類に人生の指針を与えるというシステムの存在の意味はなんなのか?人類はそういうものを作り出すことを目指しているのか?

 こういう未来展望にひっかかる読者がいれば、これでいいのかどうか、ぜひ考えてほしい。それが本書の意義であるという締めくくりであった。

 ホモ・デウスとは結局何なのか。ラフがどうとらえたかというと、人類を人類たらしめた要素は未来においてシステム(本書でいうところのアルゴリズム)に代替されうる、このシステムこそがホモ・デウスではないのか(ホモ・サピエンス自らのアップデートではなさそうだよ。つまり人類の進化的後継ではない)。

 脳科学の研究を踏まえた「生物はアルゴリズムであり自己なんてものは幻想」という考察はちょっと強引な気がする。確かに脳の活動原理が電気信号と化学物質による情報伝達でありそれが複雑なネットワークを形成しているということはわかっている。でも、どういう情報(刺激)によって、何がどのように作用して出力(行動や意識)が生み出されるのかの仕組みはまったくわかっていないのだ(こういう刺激により脳のこの部分が活動しているからおそらくこの部分が関わっているだろうという程度のことは推測されている)。このわかっていない部分こそが著者の言うアルゴリズムじゃないの?それは全然明らかになっていないし、それを人類が理解できる言語化つまりロジックにするのは現段階では不可能。ここの展開を読んでいて思ったのは「シュレーディンガーの猫」っぽいなぁってこと。ミクロレベルの量子力学の話を、マクロの物理学に持ってくると、おかしな事態になるっていうたとえ話が「シュレーディンガーの猫」なんだけれども、これの脳科学版を読んでいる気もするのだ。レベルの違うことをアルゴリズムという語で強引に引き寄せて結んでしまい論展開が飛躍している。かつて一世を風靡した「生命機械論」を彷彿とさせる面もあるなぁ。

 まぁ、本著でもAIのシンギュラリティーはやってくるって前提で話が進んでいるんだけれども、ラフが思うに現状の科学の延長上にはシンギュラリティーはやってきそうにないよ。当分どころかずっとね。シンギュラリティーがやってくるとしたら、まったく異なるとんでもない発想の転換とイノベーションが必要だろうねぇ。

ホモ・デウス 上[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
ホモ・デウス 下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

以下のような記事もありましたので(以前retweet済み)、紹介しておきます。

読了:科学 vs. キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]

「天地創造」は6000年前、アダムはすべての人類の祖…「常識」は、いかに覆されたか?知の大転換のプロセスをスリリングに描く!

聖書(主に旧約聖書の創世記)に縛られた普遍史(聖書的時間)から科学的歴史へと歴史観が変わっていく様子を、ニュートンの時代(科学革命の時代)から概説する。ヨーロッパが囚われていた聖書の呪縛がいかに強力であったかがわかる。

まずはデカルト、ニュートンの時代(科学革命の時代とされるが)。それまでは世界(宇宙)は神によって作られ、神自らによってあまねく制御されていると考えられてきた。しかしここにおいて世界は神によって作られたが、その後万物は神によって作られた自然法則によってなる世界にリリースされたのだという考え方が登場した。自然法則を明らかにするということは神の作った法則を明らかにするという発想。ニュートンがまとめた運動の法則や万有引力(重力)も神の法則を明らかにしたもので、ニュートン自身は天地創造を疑っていなかった。なにしろ世界は天地創造から約6000年と考えられていたのだ。

次に分類学の祖リンネ。神が作りたもうた完全なる世界(創世記にあるようにすでに生物はすべて完成している)の生物を分類しようという試み。新世界の知見が広く知られるようになり、それをいかに分類するか。とりわけ人類の分類。ヒトに近いサルと、サルに近いヒト、世界各地に伝わる伝説の生き物、これらをどう分類していくのか。

続いて啓蒙主義の時代。ここにおいて聖書時間に支配された普遍史(聖書の記述に基づいた歴史)から人文科学としての世界史の成立。年代表記も創世紀元からキリスト紀元へ。天地創造の時期と人類の誕生の時期の分離。信憑性のありそうなエジプトや中国の古代史が聖書の記述では説明できないことが分かってきたのだ。聖書に対する追随的合理化から批判的合理化の始まり。

そして、19世紀に登場したダーウィンの進化論や地質年代の研究により、実は地球の歴史はもっと古かったのでは?どうしても絶対的な長い時間が必要になるのだ(少なくとも数億年)。しかし当時の権威とされるケルビン卿(熱力学第2法則をまとめたり、絶対温度の単位に名を遺す)により最大1億年(数千万年程度が妥当と)という枠に縛られる。

第2次大戦後になってようやく放射性同位体を使った正確な地質年代が求められたのである。地球の年齢は46億年と。

科学vs.キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]
科学vs.キリスト教 世界史の転換[岡崎勝世]【電子書籍】

読了:知ってるつもり 無知の科学[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]

インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。

上の紹介には「ノンフィクション」とあるけれども、どちらかというと認知科学者による「集団認知」に関する科学啓蒙書(ただしとても分かりやすく読みやすい)。認知科学に基づいた調査(バカみたいなメディアによる世論調査とは一線を画す)実験・研究を踏まえた内容。人はいかにものを知っているつもりになっているかを明らかにした調査報告や、なぜ人は物事を知っているつもりになってしまうかを人類の進化を交えて考察する前半。その結果現代人が直面している科学・政治・生き方においてどういう有様になっているかを紹介し、「集団認知」(コミュニティとして持つ知恵)をどういかしていけばいいのかを示唆する後半。

人類は自分だけの知識でなく、他人の知識をも共有し、それをシームレスに活用して集団生活(コミュニティ)できるように進化してきたとも言える。生きていくうえで必要な世界にある情報はあまりにも多すぎて個人レベルではどうにもならない。だから様々な分野の専門家をうまく頼り(ただし騙されないように)、またそのためには集団内に多様な人材をそろえておいたほうがいいよねって感じ。同質な人間ばかりが集まると集団浅慮ということも起こることがわかっているしね。とかいう話が具体的な調査や例で報告されるので読んでいて面白い(いわゆるイタい話がてんこ盛り)。

「個人の無知を知ったうえで集団としてうまく生きていく」と、そういうまとめで終わるんだけれども、実はあとがきでちょっとブレる。著者のうちの一人が、自分の2人の娘の話をするのだが、そこで一人の娘はそういうことを知っているような沈着冷静でキチンと物事を見据える傾向にあるが、もう一人の娘はそうではなく自由奔放活発で思ったままに行動すると。でどっちがいいのか?当然どっちもいいんだ。前者は本著で述べたようにもちろん好ましいのだが、後者は後者でこれこそが人らしい点でもあり、このことが人類を進歩させてきた原動力ともいえるのだとか言い出す。なんだ、じゃ結局どっちでもいいんじゃん(自分の無知に自覚的であろうと無自覚であろうと)とか思ってしまった(ここはラフの読みが甘いだけかもしれないが)。まぁそうはいっても内容はなかなか面白かったんだけれどもね。

知ってるつもり[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]
知ってるつもり 無知の科学[スティーブン スローマン/フィリップ ファーンバック]【電子書籍】

読了:戦争を演じた神々たち[全][大原まり子]【電子書籍】

破壊する創造者、堕落した王妃、不死の恐竜伯爵、男から女への進化、完全なる神話学的生態系、等々。生命をめぐるグロテスクで寓意に満ちたイメージが、幻視者、大原まり子のゴージャスかつシンプルな文体で、見えざる逆説と循環の物語として紡ぎあげられた。現代SF史上もっとも美しくもっとも禍々しい創造と破壊の神話群。第15回日本SF大賞受賞作とその続篇を、著者自ら再編成しておくる、華麗で残酷な幻惑の輪舞。

とても読みやすいのに、技巧もしっかり施してあるSF短編集。地球はすでに滅亡しているらしい宇宙を舞台にしたとんでもなく未来の話らしい。コミカルで軽妙洒脱なものから、神話を思わせる重厚なものまで、まるで夢の世界を描いたような不思議な非現実感と美しさを伴った文章はどれも読ませる。読み初めの思い込みを裏切る仕掛けのある話も面白い。概してどの物語も情景描写が巧みでSFながらの不思議な設定ととてもあっている。大人のための寓話。

戦争を演じた神々たち[全][大原まり子]【電子書籍】

読了:青のフラッグ 6 (ジャンプコミックス) [ KAITO ]

6巻は秋の文化祭が中心舞台。高校3年生、近づく受験の悩み、恋と友情。太一と二葉の交際は初々しくも順調に進む。二葉の親友真澄は普通じゃない人を好きになってしまうことをトーマの義理の姉に告白する、そしてトーマは秘めていた太一への思いを告白する。ラストは胸の中に腕を突っ込まれて心臓をぎゅっとされるくらいに痛くて苦しかった。好きな人に「ごめんな」というのを聞くのはやっぱりつらいもんだよ。

それにしても、話の運び方とカット割りがすごくうまい。

青のフラッグ 6 (ジャンプコミックス) [ KAITO ]

絶対おすすめ!次世代青春マンガ『青のフラッグ』の魅力を徹底解説してみた。【ゲイは読むべし】|ライ麦畑のがけ近く

wikipediaの「青のフラッグ」の項

読了:文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ]

原題は「Why Is Sex Fun?」。日本語訳された時の邦題は「セックスはなぜ楽しいか」。文庫化されるにあったって今回の邦題に変更された。堂々と講義の副読本にも使えると後書きにあり。

刺激的なタイトルではあるけれども、ジャレド・ダイアモンドの人間の性にまつわる基本的にはまじめ、でも軽妙洒脱な科学エッセイ。内容は目次を追うと「なぜ男は授乳しないのか?」「セックスはなぜ楽しいか?」「男はなんの役に立つか?」「少なく産めば、たくさん育つ」「セックスアピールの真実」とヒトの性の不思議を進化論的にどういう説明ができるのかを試みていく。個人的には女性が閉経するのはなぜかというのがおもしろかった。人間の性の不思議を議論するために、ほかの生物ではどうなっているのかなど興味深い知見や仮説が盛りだくさん。

ジャレド・ダイアモンドの著書っておもしろいんだけれども、ちょっと読みにくい。内容はそれほどむつかしいことを言っていないのだが、前提の話や仮説の紹介が数ページにわたることもあって、今何のためにこの話をしていてどこに向かっているのかを見失ってしまいがちになる。それと厳密に読んでいくと「おや?」と思うところも多い。なんで違うカテゴリーのAとBを比較できるの?さっき疑問を呈した考えを今度は積極的に採用するの?とか思う。著者が指摘するように、ラフは分子生物学的思考をしがちなので、進化の考え方と相性が悪いのかもね。

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ]

読了:ゲイだけど質問ある? [ 鈴掛 真 ]

オープンリーゲイ歌人の鈴掛真さんが、若い世代を対象にLGBTについて答えるエッセイ。オープンリーとしての覚悟と責任を持ってできるかぎり真摯に答えようとしている態度は好感が持てる。ゲイとして自分がどんなことに苦悩してきたかということも具体的に告白して、オープンリーとして生きていくことを決心したこと、そしてこれからの社会をこうしていきたいという意志と行動と呼びかけもきちんとしている。

鈴掛さんの他の短歌を読んだことがまだないんだけれども、本書の話題ごとに挟まれる短歌はどれも今ひとつ。若さと情熱と感傷は感じられるけれども、言葉が上滑りしているというか伝わってくるものが弱い。

ゲイだけど質問ある? [ 鈴掛 真 ]

読了:早朝始発の殺風景 [ 青崎 有吾 ]

千葉県のどこかと思しき街が舞台。オムニバス形式の高校生たちによる日常推理小説。とりわけ表題作「早朝始発の殺風景」は素晴らしい。シチュエーションとキャラクター設定が秀逸なのだ。それに比べるとほかの話は、いまひとつ。というのも、登場人物のすべてが全員同じようななぞ解きの発想をし、同じような手順を踏むのだ。ちょっとこれにはびっくり。性格はそれぞれ描き分けられているのに、なぞ解きの仕方がみんな一緒。確かに、前言やシチュエーションから謎を解いていく(伏線を回収する)ロジックは読んでいてすっきりとして気持ちがいいけれども、え、その人もそういう発想するの?え、そんなそんなこと思う?とかちょっと腑に落ちない状況があるのだ。この手のなぞ解き方法がもっともしっくり来たのが、「早朝始発の殺風景」の登場人物だったというだけかも。

書き下ろしのエピローグは必要?「早朝始発の殺風景」の後日譚なんだけれども、各ストーリーの登場人物も総登場。だからといって、そのことが効果的かというとそうでもない。「早朝始発の殺風景」は本編の終わり方のままであった方が、ゾッとして良かったのになぁ。ないほうが作品として面白かったのでは?同じ街の出来事であることを説明するための後付けのようで、またとって付けたような青春ものにしなくてもよかったのではと思う。エピローグを付けるなら、伊坂幸太郎や加納朋子みたいな「うわぁやられた!!」くらいのものを期待しちゃうよ。

早朝始発の殺風景 [ 青崎 有吾 ]

読了:島はぼくらと (講談社文庫) [ 辻村 深月 ]

吉川英治文学新人賞、直木賞と輝かしい経歴を持つ著者。瀬戸内海の島に住む4人の高校生が、大人の世界の現実と向き合いながら成長する青春劇とでもいうか。すごく取材や下調べしたんだろうなということは分かる。とにかく話を面白くするはずの仕掛けがたくさん盛り込まれているのだ。なのに盛り込まれすぎているというか、結局テーマは何?伝えたいことは何?訴えてくるものがすごく希薄なのだ。これだけの仕掛けを用意しておきながら、それぞれの出来事もなんらかの伏線になっていたわけでもなく。いろいろしがらみがある現実を描きたかっただけ?後半からラストにかけてテンポだけはいいものの鼻白むばかりの展開には辟易。このご都合主義はなんだ?素人の作品か?なのにこの作品の評価はどうもそれほど悪くないようだ。俺の読解力のなさの問題なのか?

島はぼくらと (講談社文庫) [ 辻村 深月 ]