読了:穴の町[ショーン・プレスコット/北田 絵里子]

『ニューサウスウェールズ中西部の消えゆく町々』という本を執筆中の「ぼく」。取材のためにとある町を訪れ、スーパーマーケットで商品陳列係をしながら住人に話を聞いていく。寂れたバーで淡々と働くウェイトレスや乗客のいない循環バスの運転手、誰も聴かないコミュニティラジオで送り主不明の音楽テープを流し続けるDJらと交流するうち、いつの間にか「ぼく」は町の閉塞感になじみ、本の執筆をやめようとしていた。そんなある日、突如として地面に大穴が空き、町は文字通り消滅し始める…カフカ、カルヴィーノ、安部公房の系譜を継ぐ、滑稽で不気味な黙示録。

 描かれている出来事や人物はどことなく現実から浮いている。でも描写はやたら具体的でマクドナルドとかサブウェイとか郊外型のチェーン店なんかも登場しているし、町を通る幹線道路は先には都市へ続いているだろうし、通過する車も多い。つまり現実から完全に隔離された町ではない。この不思議な感覚が魅力的な小説。

 オーストラリア、ニューサウスウェールズ中西部のある町にやってきた僕。「消えゆく町」に関する本を書いているので、この町の調査をしてみるが、その町がいつできて、どう発展してきたのかという過去の歴史がまったく不明で図書館にも資料はなく、また町の人も過去のことは知らないというか興味さえない。町の人は今を生きているだけで、その町には今という現状だけが流れているのだ。町で仲良くなった女の子とつるんでいるうちに、いつしか僕も日常に埋没していき、本を書き続ける気力を喪失し始める。ところがある日を境に町の地面に唐突に謎の穴があき始める。この不思議な現象に町の人たちは最初こそ騒ぎ出すが、すぐさまその現実を受け入れ、そういうものだとして生活を続ける。消滅し始める町を女の子と抜け出し、なんらかの希望をもって都市へ移り住んだ僕は、都市もまた町と変わらない満たされないものだったことに気付く。

 自分は何なのか、なんのために存在しているのかということを求めたいと思う根源的な人の性は感じているんだけれども、そのためにどうしたらいいのかわからない、とにかくなんとかしたいと思って行動もしてみた、でもどうにもならないかもしれない、だからといって差し迫った問題があるわけでもないが、どことなく落ち着かない……。自分を知りたいという思いを、町の存在意義を調べるという行動で表現している。「滑稽で不気味な黙示録」かというと、そうでもない気がするなぁ。読後感はもっと軽くて乾いた感じで、隔靴掻痒の感とでもいうか。

この町には何も特別なところがないということを。町の外のだれかの注意を引くほどのことは起こったためしがない。

消えた町々でぼくが探していたものは、記憶にとどめられている歴史だった。

 町に歴史がない、特別なところがない、ひいては自分自身も特別ではないということを突き付けられる。

彼らは消えた町の人々と同じ症状に苦しんでいるように思える。自分は何者なのかというその考えは過去に属するもので、本で読むか、歌や映画の中でまれに要約されているのを見つけるしかない。

 「彼ら」とは都市に住む人たち。過去にこそ自分の出自があると思うのだが、オーストラリアというのは、蓄積された過去(歴史)というものが豊かでない。

ホステルの談話室で冗談を言い合っているビーチサンダルをはいた英国人は、まぎれもなく英国人で、そんな難問とは無縁だ。彼らには揃っている──一連の史実と、立証できる真の全盛期が。

 結局、町で満たされなかった思いは都市でも満たされなかったのだ。オーストラリア人である限りこの心もとなさからは逃れられないのだ。じゃぁ、オーストラリアを脱すれば思いは満たされるのかというと、おそらくそれもまたノーであろう。

穴の町[ショーン・プレスコット/北田 絵里子]
穴の町[ショーン プレスコット]【電子書籍】

読了:進化の意外な順序[アントニオ・ダマシオ/高橋洋(翻訳家)]

脳と心の理解を主導してきた世界的神経科学者がその理論をさらに深化させ、文化の誕生に至る進化を読み解く独創的な論考。

第1部 生命活動とその調節(ホメオスタシス)
第1章 人間の本性
第2章 比類なき領域
第3章 ホメオスタシス
第4章 単細胞生物から神経系と心へ

第2部 文化的な心の構築
第5章 心の起源
第6章 拡張する心
第7章 アフェクト
第8章 感情の構築
第9章 意識

第3部 文化的な心の働き
第10章 文化について
第11章 医学、不死、そしてアルゴリズム
第12章 人間の本性の今
第13章 進化の意外な順序

神経科学者アントニオ・ダマシオの集大成ともいえる作品らしいが、科学的な見地からまとめられたものではなく、科学の言葉を使った彼の思索である。読んでひどくがっかり。後半の文化文明論と結び付けたあたりは比較的おもしろかったが、でもそれならユヴァル・ノア・ハラリ読む方がいいかな。とにかくやたらと難解な表現に走っていて(わざと?)、「言い換えると」とかいいながらふわっとした気取った文学的表現で例えていてますますわかりにくくなっていたり、「なんじゃこりゃ!!」の連続。

自分のおつむがポンコツなんだろうが、前半で彼が言いたいのはこういうことらしい(自分が何とかくみ取ったのは以下)。

感情や意識といったものは高等な生物である人間にしかないものと思われている。生物進化的に考えてみると、そもそも生物は自己を維持するための代謝活動としてホメオスタシスという機構を太古の細菌の頃から備えている。生命を維持するためには内部環境の異常や外界からの刺激を検知する必要があり、それらに対してホメオスタシスは発動され、刺激物から身を守ったり、原因を避けたり逃げたりという運動を起こす。やがて、生命を脅かすものに対しては不快、生存に適した刺激には快といった、将来的に感情につながるものの萌芽を持つようになる。神経系が発達してくると、自己の内外環境を、統合されたイメージ(視覚情報とは限らない)として知覚するようになり、その認識が意識となる。

「こういう科学的知見があるからこういう仮説を立てられる」とかいう話ではなく、断片的に切り取られた一場面の現象のみを羅列して思索を積み上げていくだけ。うーん、これは科学ではないな。

とにかく一読しただけでは「何をおっしゃっているのかしら?」な難解な表現てんこもりの本書から、とりわけ狼狽した個所の引用をいくつか行ってみる。(それはあくまでもラフの読解力が足りないだけというのは承知の上だ)

治療Aと治療Bによって痛みに対処する場合、あなたは、どちらの治療が痛みをより効果的に緩和するのか、完全に静められるのか、それとも効果がないのかを、感情に基づいて判断するはずだ。感情は、問題への対処を促す動機として、そしてその対処の成功、失敗を追跡する監視役として機能する。

酷暑に対する賢明な文化的反応は、おそらくは木陰で過ごすことから生まれ、それからうちわを生み出し、やがてはエアコンを発明するに至った。これは、ホメオスタシスに駆り立てられたテクノロジーの発展の好例と見なせよう。

その結果に基づいて脳が生体の変化した幾何学を表わす表象を構築すると、私たちはその変化を感知し、それに関するイメージを形成することができる。

え?なんだ?そうか?そうなのか?の連続をお楽しみいただけただろうか?

私がここで言いたいのは、文化的反応の形成に不可欠な一連の行動戦略から構成される社会性は、ホメオスタシスが備える道具の一つだということである。社会性は、アフェクトに導かれて人間の文化的な心に入って来るのだ。

「言いたい」ことらしいけれども分かった?何かを「言いたい」のは最初にそう宣言しているからわかったが、何を言いたかったのかは理解できなかったよ。

過去の成功は別として、文明的な努力が今日成功する見込みはどれくらいあるのだろうか? 考えられるシナリオの一つでは、個人、家族、独自の文化的アイデンティティを持つ集団、大規模な社会組織など、次元を異にする集団の構成単位の間でホメオスタシスの目的が異なるせいで、感情と理性の複雑な相互作用という、文化的なソリューションの発明を可能にしたまさにその道具の基盤がなし崩しにされ、文明的な努力は結局失敗に終わる。このケースでは、おりに触れて生じる文化の崩壊は、私たちの行動や心的特徴には人類以前の生物学的起源にさかのぼるものがあるがゆえに、言い換えると人間同士の争いを解決するための方法やその適用を阻害する、拭い去ることのできない原罪のようなものが人類には刻印されているがゆえに引き起こされる。

この長い引用はたったの3文しかない。最初の1文は短いが、続く2文は長すぎ。一読目は頭から読んでいくが、とにかくどれがどこにかかっていて、どれが主語でそれに対応する文末はこれであっているんだっけ?とかいうのがちっとも入ってこない。結局一通り目を通した後に再度一文ごと、日本語の構造から分析しなければならない。まぁ日本語の文の構造がなんとか分かっても、言っていることはやはり分かりにくいのだが。これは日本語訳の問題も結構大きいかも(一応それなりの翻訳プロによるものなのだが)。

かつて受験生だったころの自分が、英文和訳において、内容がさっぱり理解できないんだけれどもとにかく知ってる単語の訳を並べてなんとか書きなぐった逐語訳風の拙い答案を読み返している気分だったよ。

進化の意外な順序[アントニオ・ダマシオ/高橋洋(翻訳家)]
進化の意外な順序[アントニオ・ダマシオ/高橋洋]【電子書籍】

読了:ギリシア人の物語(1)[塩野七生]

古代ギリシアの民主政はいかにして生れたのか。そしていかに有効活用され、機能したのか。その背後には少ない兵力で強大なペルシア帝国と戦わねばならない、苛酷きわまる戦争があったーー。累計2000万部突破のベストセラー『ローマ人の物語』の塩野七生が、それ以前の世界を描く驚異の三部作第一弾!

第1章 ギリシア人て、誰?(オリンピック/神々の世界 ほか)
第2章 それぞれの国づくり(スパルターリクルゴス「憲法」/アテネーソロンの改革 ほか)
第3章 侵略者ペルシアに抗して(ペルシア帝国/第一次ペルシア戦役 ほか)
第4章 ペルシア戦役以降(アテネ・ピレウス一体化/スパルタの若き将軍 ほか)

古代において、ギリシアという領土型の国があったわけではない。それでは「ギリシア人」というのは何者か?
1:ギリシア語を話す人々であること
2:ギリシアの神々を信仰する人々であること
という文化的バックグラウンドを共有している人を指すそうだ。ギリシアはいわゆる都市国家(ポリス)群からなるもので、ギリシア人というのは独立心が強く、議論好き、戦争ばかりしている民族だ。だからたまには争いを一時停止するためのイベントとして生まれたのがオリンピック。

さて、古代ギリシャとはいえ、この書が扱うのはいわゆる歴史時代に入ってからのギリシアだ(「古典ギリシア」時代)。どのくらいの時期かというと紀元前700年代くらいから。ギリシア神話やトロイ戦争はもっと大昔の話で、その後いわゆる「ギリシアの中世」というのがやってくる(「アルカイックなギリシア」時代)。実はこの時代がギリシアの植民活動の時代で、多くの都市国家が地中海世界に広がっていった。ここまでの状況があってからあとの時代がこの書では扱われるのだ。

この時代は都市国家スパルタとアテネが2台巨頭。前半では、この2都市国家の制度改革が描かれる。まずはスパルタでリクルゴスの改革(一般に「改革」とされているが、その後のスパルタを金科玉条のように縛っていくことになるがゆえに憲法制定という位置づけの方がふさわしいと塩野は述べている)。その後150年ほど遅れてアテネのソロンの改革が始まる。アテネの民主政への道のりはソロン、ペイシストラトス、クレイステネス、テミストクレス、ペリクレスとリレーのように受け継がれていく。そして後半に描かれるのは、この時代最大の出来事ペルシア戦役。専制国家ペルシアがギリシアに攻めてきて、日ごろ仲違いをしている都市国家群のギリシアがどう対応したのか。なぜ強大国ペルシアは惨敗したのか?

サラミス海戦のアテネの勝将テミストクレスは、のちに陶片追放(政敵排除の仕組みとして使われたが、別に刑罰ではない)され、さらには指名手配されて、かつての敵ペルシアにまで逃亡する。戦役当時のペルシア王クセルクセスの息子で王位を継いでいたアルタ・クセルクセスは、彼を顧問として迎える。この時の、アルタ・クセルクセスの気持ちを塩野は次のように推測して記述している。

「テミストクレスが来ちゃった、ランランラン。来ちゃった、来ちゃった、ランランラン」

塩野はたまにこういうお茶目さんになる。

それにしてもローマ人の名前はなんとか覚えられるが、ギリシア人の名前はなじみがなくて覚えにくい。ソロン、ペイシストラトス、クレイステネス、テミストクレス、ペリクレスの5人を覚えるより、五賢帝の名前(ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)を覚えるほうがはるかに簡単だよ(ラフには)。

次の巻ではアテネの民主政完成期ペリクレスの時代と、その後の崩壊が描かれるようだ。

ギリシア人の物語(1)[塩野七生]
ギリシア人の物語I 民主政のはじまり(ギリシア人の物語)[塩野七生]【電子書籍】

読了:1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 人物編[デイヴィッド・S・キダー/ノア・D・オッペンハイム]

36万部突破、2018年1番売れた翻訳ビジネス書『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』の待望の第2弾!365人分の人生の知恵が1冊ニ!過去の成功と失敗から、明日を生きるヒントが見つかる。

1日1ページ(実はページ数は1日2~3ページ)で、世界の教養に触れられるという雑学本の第2弾は人物編だ。第1弾の感想雑記は以下を参照ください。

読了:1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 [ デイヴィッド・S・キダー ]

今回は人物編ということで、各曜日ごとのテーマは次の通り。
 月曜日:指導者
 火曜日:哲学者・思想家
 水曜日:革新者
 木曜日:悪人
 金曜日:文筆家・芸術家
 土曜日:反逆者・改革者
 日曜日:伝道者・預言者(前作に続き日曜日は宗教の日)

前作同様、広く浅く人物紹介(超簡単な伝記)がなされるので、これで興味を持ったら、さらに本を探していろいろ読んでみてくださいねというあくまでも教養入門本。人物の著書などは主に書名のみの羅列で、なぜその時代にそういう作品が生まれたのかなどの考察はあまりされない。中にはこれでどうやって興味を持てるんだよというくらい浅い取り上げ方をされている人物がいるのもご愛敬。各トピックの最後についてくる「豆知識」は相変わらずほぼゴシップ。とりわけその人物がわき役だったとしても取り上げられた映画は誰が演じたかまで紹介されている。

取り上げられる人物は今回もアメリカ(あるいはイギリス)が中心なのは微笑ましい(やっぱり建国の父たちや南北戦争は手厚い)。伝道者の日曜日にはいわゆるアメリカの宗教伝道者が多く、モルモン教からサイエントロジーまで幅広く取り揃えております。悪人の木曜日にはフォックス姉妹(wikipediaのページ)(19世紀のアメリカでラップ現象をねつ造した姉妹)も登場。さすがに前作で取り上げた人物は避けられているけれども、著名人を取り上げているとはいえ365人もいると、日本人のラフからすると「誰やねん」という人物がまれに登場してきたりもして興味深い(アメリカではこういう人物を押さえておくのが教養なのね)。科学者や哲学者の選択はわりと堅実で(大事なところを押さえている)、彼らのトピックは興味深く読めた。また女性が多く取り上げられていたのも特徴か。1冊読めば、先人が積み上げてきた業績(ひいてはそれが人類の歩み)に感嘆の念を抱くこと間違いなし。ちなみに日本人で取り上げられていたのは紫式部と西郷隆盛。

ちょっと読みにくいかなと思った点は、各曜日ごとに独立してテーマに沿った人物を過去から現在に向けて並べているので、普通に前から順番に読んでいると中ほどでは1日ごとに時代が前に行ったり後に行ったり、時には300年近く飛んだりする。歴史上の今どのくらいの時点の話を読んでるんだっけ?というのを見失いがちになる。時には親子がそれぞれ別のカテゴリーで扱われているため、子が先に登場し、しばらく読んでいくと後になって別の曜日で親が登場したりということもある。王位の継承順とか混乱する。

読了してなによりも思ったこと:「結構な数の人物が『亡命』を経験しているもんだなぁ」(日本の歴史ではあまり出てこない言葉だよね)

1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 人物編[デイヴィッド・S・キダー/ノア・D・オッペンハイム]
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 人物編(1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 人物編)[デイヴィッド・S・キダー/ノア・D・オッペンハイム]【電子書籍】

読了:食べたくなる本[三浦哲哉]

小田原のサバ、ファッションフード、福島のスローフード、ジャンクフードの叙情、一汁一菜、蒸したカリフラワーのピュレ、アサリ二キロのスパゲッティ、マルフーガの揚げもの、どんぶりの味、怪食、快食、絶倫食、庄内のワラサ、エル・ブリと新スペイン料理、水のごとき酒…。美味い料理、美味い酒には目がない気鋭の映画批評家が、料理本や料理エッセイを批評的に読む。食の素材、味、調理法、さらには食文化のあり方をめぐる、驚きと発見に満ちた考察。

 料理本・食文化本(レシピ本を含む)の批評エッセイなんだけれども、これがべらぼうにおもしろかった。生きるためには食べなければならないがゆえに「生きるとは何か」というテーマに直結するのが食であり料理である。ゆえに料理本というものは著者の生きざまが反映されずにはいられないものなのだ。それをくみ取り愛でて楽しむのが本書。

 凡人には足元にも及ばないような変態的なこだわりを持つ料理人もいれば、非科学的な理論さえ根拠にしてしまう食の研究人もいる。しかしそこには彼らの食へのこだわり(時には愛ゆえの滑稽ささえ感じる)が垣間見える。そしてそういうところに人間が人間たる所以を見出し、愛情豊かな視点で三浦は批評していく。

 三浦哲哉氏とラフはほぼ同年代なので、食文化に関する思い出話などは共感できる部分も多かった。

 いろんな本が登場するが、もっともインパクトのあった料理本タイトルは「小林カツ代と栗原はるみ」。この二人の名前を並べてそのまんまタイトルにしてしまう発想がすばらしい。

食べたくなる本[三浦哲哉]
食べたくなる本(食べたくなる本)[三浦哲哉]【電子書籍】

読了:最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室(文春文庫)[林 真理子]

中島ハルコ、52歳。本音で生きる会社経営者。金持ちなのにドケチで、口の悪さは天下一品。嫌われても仕方がないほど自分勝手な性格なのに、なぜか悩み事を抱えた人間が寄ってくる。高学歴ゆえに結婚できない、不倫相手がお金を返してくれないといった相談を、歯に衣着せぬ物言いで鮮やかに解決していく痛快エンタテインメント!

 林真理子お得意の女性がメインの痛快娯楽小説。何にも頭使わずにさくっと気晴らしで読める。

 狂言回しはフードライターの菊池いづみ。パリの高級ホテルで出会って以来、何かと中島ハルコとつるんでいる。この中島ハルコという女性、もう本当に自分の好きなように生きていて、他人にも自分の思っていることをずけずけと口にする。それなのに、関わった周りの人々はそういう中島ハルコを慕っているという憎めないオバサン。副題に「恋愛相談室」という言葉が付いているけれども、中島ハルコが相談されることは別に恋愛に限らない。いろんな身の上話だ。そして別に相談に乗っているというわけでもない。毎回いろんな人が出てきては身の上を話をして、それに対して中島ハルコが勝手に思ったことを好き勝手に述べて、時々菊池いづみが突っ込んでいるって感じ。問題解決まで描かれることもあれば、ない場合もある。中島ハルコ自身が別に深くものは考えてなさそうで、思ったこと感じたことをすぐ口に出しているだけな感じ。彼女の言動に人生の深みは期待しない。

 中島ハルコというキャラクターは、ある意味これがオバサン(中年女性)だから許されるってところを林真理子は明らかに狙っているな。楽しく読めればそれでいいか。

最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室(文春文庫)[林 真理子]
最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室[林真理子]【電子書籍】

読了:古代ローマ人の24時間(河出文庫)[アルベルト・アンジェラ/関口英子]

さあ、2000年前のローマ帝国の首都に住んでみよう。タイムスリップさながら、臨場感たっぷりに再現された古代ローマの驚きの“1日”を体験できる一冊。食事、服装、住宅、買い物、学校…公共浴場、闘技場、夜の饗宴など、庶民の暮らしを鮮やかに再現したベストセラー、待望の文庫化。

西暦115年のある一日(夜明けから深夜まで)に、世界の首都と呼ばれたローマ(人口100万人を超えている巨大都市)の街中を散策しながら当時の人々の生活を観察するスタイルで描かれている風俗書。西暦115年というのは、五賢帝の二人目トライアヌス帝によるダキア併合(西暦109年)によりローマ帝国が最大版図となった直後で、ローマ帝国が最も繁栄した時期の一つ。市井の人々の暮らしぶりが目に浮かび、すこぶるおもしろい。

ローマ市民の生活は酒池肉林におぼれた怠惰な饗宴の日々というイメージがあるそうなのだが、ほとんどは後世になってキリスト教の思想により否定的に広められたもの。有名な「パンとサーカス」も市民の堕落を表現したものではなく、福祉政策の一環を評した言葉である。

ローマ人は主だった仕事は午前中にすませ、午後は余暇というのが基本スタイル。よって、夜明けから午前中は主に仕事や商売、子どもたちにとっては学校などの様子が描かれる。午後は、ローマ浴場やコロッセウムでの見世物(午前中からコロッセウムでは見世物ははじまっているのだが、猛獣との戦い、犯罪人の公開処刑などから始まり、人気の剣闘士試合は午後からとなる)。そして夜は上流階級では饗宴。

当時のローマの雰囲気をわかりやすく理解するために、現代だとどういう感じかというのが記述されるのだが、東南アジアに例えられることが多い。以下のような感じ。

東南アジアのラオス、東南アジアの市場で僧侶の行列が通り過ぎるのを見ているようだ。

現代でもインドや東南アジアの諸国に行くと、路上で代筆屋をする人は数多く、このような光景がそのまま見られることがある。

現代の価値観から、当時の生活習慣や思想を断じてしまっている箇所がしばしば見られ、そのたびに興醒め。コロッセウムの猛獣に対する現代的動物愛護観が述べられている次の記述はかなり違和感を感じる。

ヒョウの生まれつきの攻撃性が調教師によって大きく歪められ、見世物のために利用される。まさに「殺戮機械」に改造されてしまった動物なのだ。

それなのに、別の個所では次のような表現をいけしゃあしゃあと述べてしまう厚顔無恥さ。

彼らの生活様式を正当化するのではなく、理解することが肝要なのだ。

だったら当時のローマ人を理解するためのもっと寄り添った記述をしようよと突っ込まずにはいられない。

イタリア人(著者)や西欧人にとってローマの歴史はある程度常識とされている部分はあるだろう。ただ一般的な日本人にとっては、ヴェルギリウスやオヴィディウス、タキトゥスにキケロやセネカ、コンスタンティヌス帝といった人物名、あるいはポエニ戦役などの歴史的イベントが出てきても、何をした誰なのか、何なのか、そして西暦115年と同時代なのか、それとも前の時代なのか後の時代なのか、説明なしではわからないだろう(まったく知らない人がこの本を手に取るとも思えないが)。

例えば、以下コロッセウムに関する説明箇所。

コロッセウムができてからはまだ三五年しか経っていない。たとえばカエサルはコロッセウムを見たことがなかったし、アウグストゥス帝の時代にも、ティベリウス帝の時代にも、クラウディウス帝の時代にも、ネロ帝の時代にも、コロッセウムはなかった。この壮大な建造物を作らせたのはウェスパシアヌス帝である。

多くの日本人にとっては「ウェスパシアヌス帝って誰だよ」だろう。ローマが共和制から帝政に移行するのはだいたい西暦が紀元後に変わるころだと思っておけば遠くない。最初に帝国へのグランドデザインを描いたのがローマが生んだ天才ユリウス・カエサル。そしてその養子であるアウグストゥスが初代皇帝。(上記引用部分はアウグストゥス帝からネロ帝までのユリウス・クラウディウス朝の皇帝名がただ一人を除いて順番に並んでいるんだけれども、第3代皇帝カリギュラが抜けているのはなぜだろうか?若くして失脚した暴君だったから?)ネロの自殺後に1年間に3人の皇帝(ガルバ、オトー、ヴィテリウス)が次々変わるという危機があったのちに帝位についたのがウェスパシアヌス帝。コロッセウムを作らせたのはこのウェスパシアヌス。そして長男ティトゥスが次に帝位を継ぎ、コロッセウムが実際に完成したのは彼の時代(ちなみに本書に何度も出てくるポンペイの町がヴェスヴィオ火山の噴火で灰に埋まったのもティトゥス帝の時)。そのあと弟のドミティアヌスの治世があったのちに登場するのが五賢帝最初の皇帝ネルヴァ(この人は老齢で実際に帝位についていたのは1年とちょっと)。そしてその次がトライアヌス帝。こういう時代的関係がおぼろげながらでも頭に入っていないと何でわざわざこういうことを述べているのか理解しづらい記述が結構ある。ま、知らなければ読み飛ばせばいいんだし、そのことでこの本の面白さがまったくなくなってしまうわけではないんでいいんだけれどもね。

コロッセウムと並ぶ娯楽施設がローマ浴場であろう。おそらく一番よく知られているローマ浴場といえば「カラカラ浴場」だろうが、カラカラ帝の登場は時代的にはもっと後。当時最大の浴場はトライアヌス浴場。

勃起したペニスはローマ人にとって幸運のシンボルなのだ。(略)いくつもの青銅製のファルス(引用者注:男根)を細い鎖で束にしてつなぎ、揺れて鈴のような音が鳴るように家や商店の入口に吊るしたものまである。ローマ人は、これをティンティンナーブラ(「鈴」、「ベル」の意)と呼んでいた。下を通るたびに触れたり、鳴らしたりすると縁起が良いとされていた。

たんたん狸の~♪を思わず口ずさんでしまったラフ。「ティンティンナーブラ」ですか。

著者がイタリア人だなぁと思った箇所をいくつか紹介。

ダンテの『神曲』に描かれている地獄の環だろう。

満員のコロッセウム(収容人数およそ5万人)の様子を描写するのに「神曲」を出してくるところ。

つまり、ローマ人的な考え方からすれば、たとえばクリントン元大統領と愛人のルインスキーのスキャンダルは、とくに騒ぐ必要もないということになる。二人はたんにウェヌスの贈り物に身を委ねただけなのだ(権力者の側にある男性が、自分よりも目下の、ましてや女性と関係を持ったにすぎないのだから、社会的なルールにも準じている)。もし世論の批判を浴びるとしたら、ビル・クリントンではなく、能動的な役割を担ったモニカ・ルインスキーのほうなのだ。

ローマ人の性関係を、現代の事例になぞらえた部分だが、若干アメリカ人に対する悪意を感じる(この程度はラテンの民には問題になるほうが不思議みたいな)。

(フランス料理は、パスタやリゾットなどの料理が存在せず、調理にほとんどバターばかり使用するため、多様性という面でも、胃にもたれないという意味からも、イタリア料理には太刀打ちできない)。

イタリア料理がローマ時代のやりかたを踏襲していることに対する誇りを感じるが、フランス料理をこうこき下ろしてしまうところがステキ。

すこぶる面白かったのだが、惜しむらくは、当時のローマ市街の地図が載っていないこと。ローマの街を一日かけてあちこち散策しているのだが、登場する主要建物の位置関係とか、どの通りを抜けていったのかとか、文章だけでは伝えきれていない。地図があるだけで都市の規模感の理解が全然違うんだけれどもなぁ(当時の地図を再現する情報が分かってないということはないのだから)。

古代ローマ人の24時間(河出文庫)[アルベルト・アンジェラ/関口英子]
古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活(古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活)[アルベルト・アンジェラ]【電子書籍】

読了:三体[劉 慈欣/大森 望]

物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪森(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体“科学フロンティア”への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象“ゴースト・カウントダウン”が襲う。そして汪森が入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?本書に始まる“三体”三部作は、本国版が合計2100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。

今巷で話題の中国発SF大作。中国のSFかぁ、どことなく前時代的な硬派のSFなんだろうなぁという先入観を持って読みはじめたのだが、全然違っていてすこぶる現代的なエンターテイメント性にあふれたジェットコースター小説で、やたらめったら面白かった。なるほどヒットするのもうなずける。

※ネタバレしないようにという配慮はしないので、以下を読む方はお気を付けください。

物理学の世界に「三体問題(three-body problem)」というものがある。1つあるいは2つの物体の関係は運動方程式で明らかにすることができるが(ニュートンによる)、3つの物体の運動を数学的に解くことはできない。もし太陽が3つある星に文明があればどうなるか(3つの太陽の動きは計算ではわからない)というのが著者の発想のスタート地点だったそうだ。

三体問題(さんたいもんだい)とは – コトバンク

前半は主人公の一人葉文潔の半生や、著名な理論物理学者の相次ぐ自殺や、正体不明の団体や集団、もう一人の主人公汪森にふりかかった不思議な現象(「ゴースト・カウントダウン」のくだりは「リング」っぽくてむしろオカルトだ)、謎のVRゲーム「三体」の世界観などが描かれる。後半では、これらが何なのか、どう関係しているのかが明らかになってくる。簡単に言うとこの作品は異星人地球侵略型のSFなんだけれども、作中では最後まで地球人は異星人とは直接対峙していない。それどころかこの宇宙からの侵略者が地球にやってくるのは、なんと450年後なのだ(本作は三部作の第1部)。光速は有限で宇宙は広いんだけれども、なんだこのリアル設定は。

技術跳躍が生じる可能性が最も高い分野は以下のとおり。
(一)物理学:【略】
(二)生物学:【略】
(三)コンピュータ科学:【略】
(四)地球外知的生命体の探査(SETI):

これらの科学知見がコアになったSF作品であるが、物理学と地球外知的生命体探索はもちろん重要。生物学に関しては環境生態学に関する話題が出てくる(今のところ遺伝子とか生殖とかは表立って出てきていない)。コンピュータ科学に関してはVRゲーム「三体」の中の一シーン(秦の始皇帝)や、三体人(異星人)の科学技術描写でAIが出てくる。とにかく科学のテクニカルタームがわんさか出てくるけれども、知っていれば「なるほどね」とニヤっとできるが、知らなくてもまぁ問題なく読み進められるだろう(知っていなければ筋が追えないということはない)。主人公の一人葉文潔を天体物理学の基礎科学(理論)研究者とし、もう一人の主人公汪森をナノテク素材の応用科学研究者としているところがおもしろい。

エンターテイメントとしては一級だが、作品としては穴が目立つ。捨てキャラ(ほぼ一度限りの登場で物語の本質に影響を与えるほどの役目は担っていない人物)の扱いが笑っちゃうほど適当。なぜか退場後に死までの後日譚まで丁寧に述べられる人物がいる一方で、大事そうに登場したのにその後一切放ったらかしの人物(汪森の家族とか)がいたりする(だったら汪森は独身でも良くね?)。著名な物理学者の相次ぐ自殺の原因も、「え?そんなことで命を絶ったの?科学者だったらむしろそのことを追求しようとしないか?」となぜの嵐。またラスト近くに出てくる三体人が、どうしようもなく地球人似の発想と感情(見た目ではなく)に支配されているのも変。三体人がなぜ地球人とほぼ同じ道徳的価値観を持つのか(科学技術では三体人の方がはるかに進んでいるが)説得力ある説明が欲しい。というか、回収した三体人からのメッセージの存在整合性は物語的に破綻していないか?(ラフにはどういうことなのかよくわからなかった)

ん~~、結局はケチをつけているみたいな書き方になってしまったなぁ。いや娯楽小説としては抜群におもしろいよ。著者の発想のすごさに舌を巻く。ぜひ読んでみて。

三体[劉 慈欣/大森 望]
三体[劉 慈欣]【電子書籍】

原語(もちろん中国語)でチャレンジしてみたいという方はこちらをどうぞ。三部作すべて刊行済み。

近現代の中国を舞台にした作品には頻繁に登場するものの、ラフにとっては今一つ正体がわかっていない出来事が「文化大革命」だなぁ。だから見るたびに、どう位置付けて評価するものなのか悩む。
wikipediaの「文化大革命」の項
「ラストエンペラー」の最後にも出てきたよね。個人的に深く印象に残っているのは「レッド・ヴァイオリン」の上海のシーン。
wikipediaの「Category:文化大革命を題材とした作品」の項

読了:『罪と罰』を読まない(文春文庫)[岸本 佐知子/三浦 しをん]

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことのない4人が試みた、前代未聞の「読まずに読む」読書会!前半では小説の断片から内容をあれこれ推理し、後半は感想と推しキャラを語り合う。ラスコ(-リニコフ)、スベ(スヴィドリガイロフ)、カテリーナ…溢れるドスト愛。「読む」愉しさが詰まった一冊。解説マンガ・矢部太郎。

 Classic : A book which people praise and don’t read.
 「古典とは、人々が賞賛するが、読みはしない本のことだ」(マーク・トウェイン)

 というわけで、ドストエフスキーの「罪と罰」。もちろん世界的に有名な文学作品で、あらすじは何となく知っているけれども、実は読んだことがないんだよねという作家4人の座談会。

 前半は、自分たちが知っている知識を総動員して、ちゃんと読んだことがないけれども「罪と罰」はこんな話なのではないかとあれこれ推測する。後半は「罪と罰」を実際に読んでから後日再度集まって、感想や意見を交わす。「罪と罰」未読の読者のために、前半と後半の間に「罪と罰」の登場人物紹介(ロシア人の名前覚えられない……)とあらすじが載っているので安心。

 ラフもまだ「罪と罰」は読んだことがない。主人公の青年が老婆を殺害する話だということは知っているが、それ以外には何も知らないということでは、座談会メンバーとほぼ同じ状態。

 知らない話を自由奔放に想像することっておもしろいんだけれども、前半で最初に与えられる情報は、最初の1ページと最後の1ページを英語版から日本語にメンバーの一人岸本氏が訳したもの。当然ドストエフスキーはロシア語で書いているのだが、ロシア語専門家はいないので、英語翻訳を生業としている岸本氏が英語版から訳出。しかし原作を知らないでごく一部を訳すので正しく意図が伝えられているかは不明。この状態で長い長い中間部を自由気ままに想像する(とはいえ彼らは作家なので作品とするならこうだろうという意見はある)。おそらく、この本「罪と罰を読まない」の面白さはこの前半にあるんだと思うんだけれども、ラフには今一つだった。座談会を進めるにあたり、あまりにも突拍子のないことにならないようにだろうが、「罪と罰」の一部分(1ページ程度)をモデレータ(進行役:この人は読破しているそうだ)がところどころ朗読して情報を小出しにし、途中では登場人物紹介が配られたり、本物の「罪と罰」に寄せることが正解みたいな推理ものになってしまっている。「だったら最初から素直に読めばいいじゃん」と思ってしまった。

 でもまぁ、後半の「読んでみたら、私たちが想像したよりずっと面白かった」という結論が生きるのは、この前半があるからなんだよね。

三浦 小説として変ですよね。でも、そこがやっぱり面白い。そして、恐れていたほど重厚ではなかった。
浩美 うん、意外にね。
三浦 エンタメでしたね。
篤弘 これから読みたいと思っている、とりわけ若い人たちにお薦めしますか?
三浦 私はお薦めしますね。わりとぐんぐん読めて、登場人物もみんな変で面白いよ、って。

 立ちはだかる長編古典文芸大作だけに、興味はあっても手を出せずにいたんだけれども、だったら読んでみようかなという気にはなった。座談会でも指摘されているように「罪と罰」の問題は「長いだけ」のようだし。

『罪と罰』を読まない(文春文庫)[岸本 佐知子/三浦 しをん]
『罪と罰』を読まない[岸本佐知子/三浦しをん/吉田篤弘]【電子書籍】

読了:ルポ 人は科学が苦手(光文社新書)[三井誠]

子どものころから科学が好きだった著者は、新聞社の科学記者として科学を伝える仕事をしてきた。そして二〇一五年、科学の新たな地平を切り開いてきたアメリカで、特派員として心躍る科学取材を始めた。米航空宇宙局(NASA)の宇宙開発など、科学技術の最先端に触れることはできたものの、そこで実感したのは、意外なほどに広がる「科学への不信」だった。「人は科学的に考えることがもともと苦手なのではないか」-。全米各地に取材に出かけ、人々の声に耳を傾けていくと、地球温暖化への根強い疑問や信仰に基づく進化論への反発の声があちこちで聞かれた。その背景に何があるのか。先進各国に共通する「科学と社会を巡る不協和音」という課題を描く。

トランプ大統領の誕生によって生まれた「もう一つの事実(alternative facts)」という意味不明な言い回しにより、事実や科学的見解が退けられることが顕著になったアメリカ。本作品で中心的に取り上げている話題は2つ。地球温暖化問題と創造論。科学的とはいい難い発想について、かつては「正しい知識がないから、科学的に振る舞えない」といった考え方が主流だったが、現在はそればかりとは限らないとされる。知識の有無に関係なくむしろ所属する(共感する)集団の考え方を受け入れやすいのだ。ヒトは直感的にわかりやすい経験に基づくものの見方に馴染むが、常に合理的な考え方をする(受け入れる)わけではないということなのだ。各種調査報告や、創造論を信じる人々や科学が衰退することに危機感を抱く人々へのインタビューを交えてアメリカの現状を描く。

「創造論を信じるのは個人の自由だが、学校の理科教育は科学を教えるのが目的だ。(略)理科の授業で創造論を教えるべきではない。」

創造論を信じる人たちは別に狂信者というわけではなく、ごくごく普通な感じの人たちだということがわかる。またトランプ大統領を支持する人たちも、熱狂的支持者というわけではなく、それぞれの生活基盤の状況から支持した普通の人たちだということがわかる。無知蒙昧な民でもないし、狂信的熱狂者というわけでもないのだ。これが伝わってくるインタビューにこそこの本の価値があるのかも。

科学に対して現在のアメリカの市井の人が何を考えどう対処しているのかという状況を知る入門用としては分かりやすいが、とはいえ、特に新しい話が出てくるわけではないし浅い。ジャーナリストとして各方面でインタビューを真摯に行っている点は素晴らしいと思うけれども、新書というわかりやすさと量の制限からか一言コメント並みの紹介しかできていないのは残念。

ルポ 人は科学が苦手(光文社新書)[三井誠]
ルポ 人は科学が苦手〜アメリカ「科学不信」の現場から〜(ルポ 人は科学が苦手~アメリカ「科学不信」の現場から~)[三井誠]【電子書籍】