読了:ブルボン朝 フランス王朝史3(講談社現代新書)[佐藤 賢一]

3つの王朝中、最も華やかな時代を描く。長い宗教戦争の時代を克服し、ヨーロッパ最強国、そしてヨーロッパ最高の文明国となったブルボン朝フランス王国。個性豊かな王たちー稀代の策士にして稀代の艶福家、王朝の創設者アンリ4世。「正義王」ルイ13世、「踊る太陽王」ルイ14世。「最愛王」ルイ15世。革命により断頭台の露と消えたルイ16世。マントノン夫人、ポンパドール夫人など宮廷を華やかに彩った寵姫たちと、リシュリュー、マザラン、フーケ、コルベールなど政治を司った宰相、大臣たち。そしてヴェルサイユ宮を造ったル・ノートルを始めとする芸術家。さらには、大革命とナポレオンの時代を経て復活したルイ18世、シャルル10世の復古王政から、オルレアン家による7月王政とその終焉まで。「ブルボンの血」による王権の始まりから終わりまで、すべてを描ききった超力作。

カペー朝、ヴァロワ朝と続いてきたカペーの一族の物語も、佳境のブルボン朝に。これまでの感想文は以下。

読了:カペー朝ーフランス王朝史1 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ]

読了:ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ]

時代も近代に入ってきて肖像画や宮殿など今に残る資料が多くなってきて具体的にイメージしやすい。そりゃブルボン朝が一番面白いのは当然だよ。さてユグノー戦争とヴァロワの直系が途絶えるところが前作の最後だったわけだけれども、今度は同時期をブルボンの視点から再度描き直すところから始まる。あいかわらずフランス王家の人物名は、ルイ、アンリ、シャルルだらけ。

ナバラ王アンリはフランス王アンリに手紙の返事を書いた。

ここで「フランス王アンリ」がヴァロワ朝の最後の王アンリ三世。「ナバラ王アンリ」が後に即位するブルボン朝最初のフランス王アンリ四世。
とりわけブルボン朝はルイてんこ盛り(別名ルイ王朝)。即位すればルイX世と呼ばれるけれども、即位前はみんな王太子ルイ。

その一六四三年五月十四日は、王太子ルイが「フランス王にしてナバラ王」に即位した日でもある。フランス王としてはルイ十四世、ナバラ王としては「ルイス三世」を称したが、(以下略)

国際的関係は突出した強国が出現しないように各国が牽制しあう時代。フランスはヴェルサイユを中心とした文化大国へと変わっていく。ポンパドゥール夫人が登場した時には「待ってました!」と思ったよ。

たとえ王政の否定に通じるものであっても、それが優れた文化として光を放つなら、フランス王家は受け入れなければならなかった。

やがて大革命がはじまり、ルイ16世は断頭台に送られ、フランス王家は国を追われる。ナポレオンの失脚後に王政復古でルイ16世の弟二人が、ルイ18世、シャルル10世と即位し、その後傍系のルイ・フィリップが即位したもののこれらは短命に終わる。フランスが王国になることはその後二度となかった。(ちなみに現スペイン王家はブルボン朝の傍系)

今回もミス発見。1753年を1653年と100年間違っちゃっている箇所がある。仮にも歴史を扱っているんだから、世に出る前にちゃんとチェックされなかったのだろうか?

ブルボン朝 フランス王朝史3(講談社現代新書)[佐藤 賢一]
ブルボン朝 フランス王朝史3(フランス王朝史)[佐藤賢一]【電子書籍】

読了:6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む(ハーパーBOOKS 111)[ジャン=ポール・ディディエローラン/夏目 大]

パリ郊外の断裁工場で働くギレンは、大好きな本を“死”へと追いやる毎日にジレンマを抱えていた。生き延びたページを持ち帰っては翌朝の通勤電車で朗読して“往生”させるのが日課。心の拠り所は飼っている金魚だ。そんなある朝、ギレンはいつもの電車で、持ち主不明の日記を拾う。その日から彼の憂鬱な日々は少しずつ変わり始めー人生の悲哀と葛藤、希望を描いた、フランス発ベストセラー。

 本の裁断工場で働く主人公のギレンは本が大好きなおとなし目のまじめ青年(30代)。職場で裁断機(大量の本を裁断してパルプの原料となる液状にまでする機械)内に残った本の断片ページを拾っては、翌朝の通勤電車でそのページを朗読する(そして同乗する客はそれを楽しみにしている)という、現実に遭遇したらかなり変な人物とシチュエーションがしれっと描かれる。うわ、シュールなコメディはめちゃフランスものだよ(たとえば映画「アメリ」なんかを想像してもらえるとわかりやすいかと)。

 その青年をとりまく人々が描かれる前半。年配の元同僚は、事故で裁断機に両足を切断されてしまったが、その足を含む再生紙(事故のあった日に出た原料)から刷られた本(すべて同じタイトルの園芸本)を集めている。また朝の通勤電車で朗読するギレンに声をかけ、老人ホームでも同じような朗読会を依頼する老婦人。老人ホームの朗読会で私もやってみたいと言い出したかつて小学校教師だった堅物女性が読み始めたものが濃厚官能小説だったから慌てるギレンと色めき立つ老人たち。

 後半では、ある日ギレンはUSBメモリーを拾う。中にはある女性が書いたと思われる日記が70ファイル近く入っていた。それを読むと、どうやら彼女は大型ショッピングモールのトイレ掃除に従事しているらしい。ギレンは独特の個性が光る彼女にひかれていき……。

6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む(ハーパーBOOKS 111)[ジャン=ポール・ディディエローラン/夏目 大]
6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む(ハーパーコリンズ・フィクション)[ジャン=ポール・ディディエローラン]【電子書籍】

読了:夢の本(河出文庫)[ホルヘ・ルイス・ボルヘス/堀内 研二]

神の訪れ、王の夢、魂と夢と現実、死の宣告…。『ギルガメシュ叙事詩』『聖書』『千夜一夜物語』『紅楼夢』から、ニーチェ、カフカなど、無限、鏡、虎、迷宮といったモチーフも楽しい113篇の夢のアンソロジー。

ボルヘスはいくつかアンソロジーも編んでいるんだけれども、そのうちの一つ。「夢」(寝ているときに見る方)にまつわるエピソードが取り上げられているのだけれども、ボルヘスの思想を色濃く反映した幻想的なセレクションが特色(編者がどういう意図をもってそれらを選んだかというものが垣間見れてこそアンソロジーを編む意味がある)。見た夢、夢の解釈、夢を使ったトリック、そもそも夢とは何かといった古今東西の様々な「夢」の話(まさに夢幻の世界)。ボルヘス自身の著述も何篇か登場するのだが、これがまた秀逸。

夢の本(河出文庫)[ホルヘ・ルイス・ボルヘス/堀内 研二]
夢の本(夢の本)[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]【電子書籍】

wikipediaの「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の項

読了:ウンベルト・エーコの世界文明講義[ウンベルト・エーコ/和田 忠彦]

知の巨人が読み解く文明の謎。カラー図版130点以上!!!現代人は古代・中世・近代より進歩しているのか。見えないもの、聖なるもの、美と醜、絶対と相対、パラドックス、嘘、秘密、陰謀論…。ベストセラー『薔薇の名前』の著者最後の贈り物。

 小説「薔薇の名前」の作者ウンベルト・エーコが、10数年にわたって行った講演録。邦題は「世界文明」と題しているが、基本的にはいわゆる西洋の話題(2例ほど東洋の話も出てくるが、そのうちの一つは谷崎潤一郎)。

目次(扱っているテーマ)は次の通り

  • 巨人の肩に乗って
  • 美しさ
  • 醜さ
  • 絶対と相対
  • 炎は美しい
  • 見えないもの
  • パラドックスとアフォリズム
  • 間違いを言うこと、嘘をつくこと、偽造すること
  • 芸術における不完全のかたちについて
  • 秘密についてのいくらかの啓示
  • 陰謀
  • 聖なるものの表象

 小説家であると同時に記号論学者でもあるので、抽象的なテーマでもそこに具体的な事例を結び付けて、豊富な例とともに紹介してくれる。テーマは美学芸術文学哲学の歴史を踏まえたものだが、講義中に出てくる例は映画やエンターテイメント小説にまでおよび、飽きることがない。話に関連する絵画や彫刻の写真がふんだんに盛り込まれ(実際の講義ではスライドで映し出されたのだろうか?)、言葉だけではわかりにくい説明も可視化されて非常に興味深い。

 こういう知的で丁寧な論の運びに触れることができるととても安心する。

ウンベルト・エーコの世界文明講義[ウンベルト・エーコ/和田 忠彦]
ウンベルト・エーコの世界文明講義(ウンベルト・エーコの世界文明講義)[ウンベルト・エーコ/和田忠彦]【電子書籍】

参考
wikipediaの「薔薇の名前」の項

読了:学校では教えてくれない世界史の授業[佐藤 賢一]

西洋歴史小説の第一人者が西世界・東世界・イスラム世界による覇権志向で読み解く。アレクサンドロスから冷戦の終結まで、約2500年の歴史ストーリーを描き出す!

 「学校では教えてくれない~」シリーズの1冊。高校で習う世界史はあまりにも範囲が広すぎて覚えることばかり多くて結局よくわからなかったという人が対象。高校世界史をとりあえず履修したという前提がないと、たくさん出てくる出来事名が何なのかわからないと思う。丸腰や世界史入門だと思って手を付けてもまったくついていけないだろう。かといって、世界史を自分なりに整理して学習したものにとってはあまりにも物足りない(結局はかなり圧縮した世界史ダイジェスト。これで物足りない人はマクニールの「世界史」に挑戦してみると面白いと思う)。まとめに著者自身が書いているように、あくまでこれは著者の世界史観に基づいたまとめ方なので、これが決定的な世界史の理解・整理方法ではない。著者にとっての世界史とは「歴史の中に自らをどう位置づけるか」というとらえ方をしているので、現在からみたらあの出来事は結果的にこういうことだったという解釈の累積、つまりは現代における価値観(現代を生きる著者の解釈)で判断した結果論の羅列に感じてしまった。「学校では教えてくれない」というのも、実はこういう裏話もあるよ的なものではなく、学校ではこういう歴史の整理の仕方までは教えてくれなかったでしょ?ってところか。

 世界史の定義から説き起こすのだが、著者のとらえ方は世界史はワールド・ヒストリーである前にユニヴァーサル・ヒストリー(普遍史)であるとする。そして著者にとってユニヴァーサルを構成するものは、
・世界征服の意思
・それを治める帝国
・それを支える一神教
とのこと。世界を征服する、世界を統一する、一元的に支配することこそがユニヴァーサル・ヒストリーが目指しているものだ。

 世界征服の意思を最初に示したのがアレクサンドロス大王、そして世界帝国というものを創出したのが古代ローマ、そしてローマ帝国が末期に国教化した一神教であるキリスト教、ここにユニバーサルを構成するものがそろった。そしてローマ帝国は東西分裂し、すぐ後に発生して急拡大したイスラム教世界の登場。これらが東世界史、西世界史、イスラム世界史という三ユニヴァーサル・ヒストリーを構成しており、3つのヒストリーの総体が世界史ワールド・ヒストリーだとする。この3つのヒストリーがローカル・ユニヴァースからグローバル・ユニバースに展開していく様子を歴史の年表に従って現代まで追っていく(出来事・事件名の羅列が多くその個々の中身には深く触れない。個々の知識はあるものとして、この著作ではあくまで世界史の概略をとらえることが目的のため)。

 中国史が入っていないのは、中国は最初から広大な土地と人民を持つ恵まれた国であり、また周辺国を朝貢によって従わせはしたけれども自らが物理的に征服しようとする意志はそれほど強くなかった、そして一神教という支えはなく、著者にとってのユニヴァーサルではないためだ。中国が世界史に巻き込まれるのは、清朝末期になってからだ。

 著者のユニヴァーサル世界史観に合わせるためか、歴史の出来事の解釈が牽強付会に思えてしまうところがあり気になる。巷に流布する世界大戦の説明には「何者かの意図で無理に図式化したものにすぎないのでしょう。」という記述が見られるが、「お前もな」と突っ込まずにはいられなかった。

 この著作は、若者を対象にしているためか文体が語り口調で、親しみやすくはあるけれども、歴史を扱っている割には文章に厳密さがない(ひょっとしたら口述筆記をまとめたものなのではないのかとさえ思われる)。例えば「一三九四年に生まれたポルトガル王ジョアン一世の三番目の王子、いわゆる「エンリケ航海王子」ですね。」(<本当にこういう文体なのだ)という記述がある。さて、この文から判断して、1394年に生まれたのは、ジョアン一世なのか、エンリケ航海王子なのか。大航海時代の話題だから、考えてみればまぁ後者だろうという当然の予想はつくけれども、できるだけ誤解されることのないような初見で読んでも戸惑わずに理解できる記述をして欲しいと思うところが何カ所かある。特殊な効果を狙っているならともかく、でもこれは文学ではなく歴史を扱った啓蒙書なのだろうから、こういう書き方はふさわしくないとラフは考える。(著者自身は自分は歴史学者ではなく作家であるから歴史を扱うのは荷が勝ちすぎると言っているが)

学校では教えてくれない世界史の授業[佐藤 賢一]
学校では教えてくれない世界史の授業[佐藤賢一]【電子書籍】

参考文献(もう一歩先を望む方向け)
世界史(上)(中公文庫)[ウィリアム・H.マクニール/増田義郎]
世界史(下)(中公文庫)[ウィリアム・H.マクニール/増田義郎]

読了:愛なき世界(単行本)[三浦しをん]

恋のライバルは草でした(マジ)。洋食屋の見習い・藤丸陽太は、植物学研究者をめざす本村紗英に恋をした。しかし本村は、三度の飯よりシロイヌナズナ(葉っぱ)の研究が好き。見た目が殺し屋のような教授、イモに惚れ込む老教授、サボテンを巨大化させる後輩男子など、愛おしい変わり者たちに支えられ、地道な研究に情熱を燃やす日々…人生のすべてを植物に捧げる本村に、藤丸は恋の光合成を起こせるのか!?道端の草も人間も、必死に生きている。世界の隅っこが輝きだす傑作長篇。

 タイトルは殺伐としているけれども、内容は優しい愛情にあふれた作品。東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻植物学関係の研究室の人々と、そこにふとしたきっかけで出入りするようになった、本郷通りの赤門前あたりをちょっと入ったところの洋食屋で働く青年との交流が描かれる。ま、もっとも主人公は藤丸青年というより、彼が好きになった博士課程大学院生の本村さん。彼女の研究生活を軸にしておよそ1年の出来事が描かれる。

 植物の研究って何してるの?という方は読んでみると面白いかも。本村さんは、アラビドプシス(シロイヌナズナ)を材料として、植物の葉が一定の大きさに制御されている仕組みを研究している。葉の大きさを制御している特定の遺伝子を4つ壊せば(<ちょっと科学的には不正確な表現だけれども)、制御が効かなくなって野生株よりも大きな葉が生じるのではないか?という仮定で研究を進めている。この4重変異株を作るのに彼女は苦労している。

wikipediaの「シロイヌナズナ」の項

 おそらく、科学や基礎研究になじみがない人にとっては、それの何が楽しいの?何の役に立つの?ってところなんだろうけれども、なぜそうなっているのかを知りたいという知的探求心(それはもう渇望と呼んでもよい)が基礎研究に携わる人の原動力なのだということが、読んでもらえばわかってもらえるかと。自然科学系の大学院生・研究者がどんな生活をしているのかを垣間見ることもできるので、そういう点でもおもしろいかと。

 登場人物がみな一風変わった変人の類なんだけれども、この小説ではとてもマイルドで優しい描かれ方をしている。基本的にみんないい人なのだ。実際の研究者はクセの強いもっと筋金入りの変人が多いと思う。概して植物を扱う研究者はのんびりとしたところはあるけれども、それでももっととんがった部分もあったよというのが、かつて生物学研究者の端くれとして研究室に所属していた自分の感想。まぁ新聞小説だからこのくらい優しい話でいいんだろうけど。

愛なき世界(単行本)[三浦しをん]
愛なき世界(愛なき世界)[三浦しをん]【電子書籍】

読了:小さな習慣[スティーヴン・ガイズ/田口 未和]

小さな習慣とは、毎日これだけはやると決めて必ず実行する、本当にちょっとしたポジティブな行動。この方法を使えば、すべてのことは、習慣化し、目標を達成でき、夢を叶え、人生を変えることができる。何しろ「小さ過ぎて失敗しようがない」のですから。

 新しく習慣を身に着けるにはどうすればいいのか、脳の仕組み(癖)を踏まえた、また著者の体験に基づいたハウツー本。以下に著者の主張をまとめる。

 これまでの本を見ると、ある行動を習慣化するにはどうすればいいのかは、モチベーションが保てるかという話に帰着することが多いのだが、人間の脳の癖を考慮すると報酬なしでモチベーションを保つというのは実は難しい。モチベーションよりも意志の力による方がよい。ただし、最初のハードルが高いと毎日意志の力に頼るというのも続かない。「1日30分は運動をする」というのは、運動をする機会のない人にとってはあまりにも高すぎるハードルだ。というわけで、実行するのに苦労をしない程度まで小さくした習慣から始めよう。どのくらい小さいかというと、「1日1回腕立て伏せをする」くらい。習慣にするにはばかばかしいと思えるくらい小さいほうが良い。こんな程度なら、どんなに疲れていたとしても1分もかからないからすぐできる、やらないほうがどうかしてるというハードルの低さにしておく。これでも無理なら、「ヨガマットを引く」「うつぶせになる」くらいにまで下げてもいいそうだ。要は、できない、しない理由にならないくらい小さくしておく。一度始めたら、ひょっとしたらもっとやりたくなって10回腕立て伏せをするかもしれない。それならそれでOK。また一日1回でも腕立て伏せができれば、その日の目標はクリアしたという肯定感が生まれる。これが続けば、脳はそのうちこの習慣に対する抵抗がなくなり、気づいた時にはきっと習慣化しているだろう。

 著者はほかに「1日50words以上の文章を書く」「1日2ページ以上本を読む」とかを習慣化させたそうだ(あくまでも最低ラインで実際にはこれ以上の行動をしていることの方が多いそうだ)。なるほど、やることを小さく具体的にすることで、意志の力を引き出しやすくするのだね。実践方法、注意点なども載っていて、目標を立てるものの何度も挫折している自分には参考になるところ多し。試してみようかな。

小さな習慣[スティーヴン・ガイズ/田口 未和]
小さな習慣[スティーヴン・ガイズ]【電子書籍】

読了:イニシエーション・ラブ(文春文庫)[乾 くるみ]

僕がマユに出会ったのは、代打で呼ばれた合コンの席。やがて僕らは恋に落ちて…。甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説ーと思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する。「必ず二回読みたくなる」と絶賛された傑作ミステリー。

目次は次の通り(カセットテープに懐かしの歌謡曲という体裁か)。
side-A

  1. 揺れるまなざし
  2. 君は1000%
  3. YES-NO
  4. Lucky Chanceをもう一度
  5. 愛のメモリー
  6. 君だけに

side-B

  1. 木綿のハンカチーフ
  2. DANCE
  3. 夏をあきらめて
  4. 心の色
  5. ルビーの指輪
  6. SHOW ME

side-Aを、なんだか伸び切ったパンツのゴムのような80年代バブル臭に満ちた若者風俗小説だなぁと思ってダラダラと読んでいたんだけれども、side-Bに入ると「あれ?ちょっと設定が微妙に変わった?パラレルワールド?」とか思いながらも「まぁいいか」と気にせず読み進めていく。しかし最後に向かって、ん?ん?とちょこっとずつ疑問が大きくなっていく。そしてラストのセリフで募ってきた違和感の理由が明らかになる。おぉ、そういう仕掛けだったのかと。すぐさまside-Aをもう一度読み直したよ。ミステリー小説だとは思わずに読んでいたから、ガツンとやられました。一番怖いのはお前だったか……。

イニシエーション・ラブ(文春文庫)[乾 くるみ]
イニシエーション・ラブ [乾 くるみ]【電子書籍】

読了:小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]

 ちょいと「フランス革命」の復習をしたいと思って手にしたのが、この「小説フランス革命」全18巻。三部会の招集(1789)からテルミドールのクーデター(1794)(かつて授業では「テルミドールの反動」って習ったけれども、今は「クーデター」って言うんだね)までのおよそ5年間を扱った群像劇。1巻あたりだいたい40章ちょいで構成され(なので1章は数ページでサクサク読み進められる)、それぞれの章の主人公の視点で時系列にイベントが進行する。戦争には興味はあっても、戦闘にはあまり興味がわかないラフは、蜂起がおこるたびにその展開に対して興味が持てず読むのを何度か投げ出し、結局半年くらいかかってようやく読み終えた(全巻まとめてでなく、1巻読み終えるごとに感想を書いていればよかったと今更ながらに思う)。

wikipediaの「フランス革命」の項
wikipediaの「テルミドールのクーデター」の項

各巻のタイトル

  1. 革命のライオン
  2. パリの蜂起
  3. バスティーユの陥落
  4. 聖者の戦い
  5. 議会の迷走
  6. シスマの危機
  7. 王の逃亡
  8. フイヤン派の野望
  9. 戦争の足音
  10. ジロンド派の興亡
  11. 八月の蜂起
  12. 共和政の樹立
  13. サン・キュロットの暴走
  14. ジャコバン派の独裁
  15. 粛清の嵐
  16. 徳の政治
  17. ダントン派の処刑
  18. 革命の終焉

まとまった感想が書きにくいので、箇条書きメモにしておく。

・小説が扱うのはたかだか5年の期間だけれども、社会は激変し続ける。政体はアンシャン・レジーム下の絶対王政、立憲王政、共和制と変わる。第3身分から生まれた国民議会も、憲法制定国民議会、立法議会、国民公会と変わっていく。まったく別の憲法が2回制定されている(2つ目は制定はされたものの施行は停止)。

・議会の右側に相対保守派、左側に相対革新派が席を占めたことから、今に言うところの右派(右翼)、左派(左翼)という言葉が生まれている。また、メートル法の制定もこの時期。フランス国旗が定着するのもこの時期。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ(マルセイユ野郎たち)」もマルセーユ出身の兵に歌われて広まったもの。

・革命の主体となった派閥はジャコバン派だけれども、中心人物ロベスピエールのやり方に反発する集団がしょっちゅう内部分裂し、これが相対保守派となり実権を握るもののすぐに失脚していく(立憲王政を目指したフイヤン派、穏健共和制を目指したジロンド派など)。やがてジャコバン派は革命の理想を実現するために恐怖政治(テルール、テロの語源)を敷き、政敵を反革命分子として次々と断頭台に送る。

・読み始めて最初に衝撃を受けたのが、ヴェルサイユ宮殿がパリ市内にはないってこと。てっきりパリ市内にあるものだと(ルーブル宮やチュイルリー宮みたいに)思い込んでいたよ。ヴェルサイユはパリ郊外にあって、小説の記述によると、パリ市内から馬車で半日、徒歩で6時間くらいらしい。っていうか、小説にも出てくるヴェルサイユ行進(困窮にあえぐパリの女性たちがヴェルサイユにいる王に訴えに行き、そのまま王一家をパリのチュイルリー宮に移動させた(拉致とも)事件)の時に習ったような気がするのにすっかり忘れていたよ。
wikipediaの「ヴェルサイユ」の項
wikipediaの「ヴェルサイユ行進」の項

・この時期を扱うからには、軸となるのはジャコバン派のロベスピエールだけれども、この小説に出てくるロベスピエールの人物像には共感できず。小柄メガネの理想主義者、言論の力を信じ、革命を本気で遂行するために自己を犠牲にする男ではあるんだけれども、自身の理想に対して時々弱気になる。いや、弱気になったっていいんだよ。実は苦悩する指導者だったとして描けばいいじゃないかと。ところが、悩んだり弱気になったりもするけれども、唐突にやっぱり革命の理想に生きると強気になったり、ジェットコースターのように揺らぎまくって、なぜそういう風に思い直した?と彼の心情を慮るには中途半端で展開の必然性が弱いため、読者(少なくともラフは)置いてきぼり状態をしばしば食らった。終盤では、もはや「何、この人?」状態。処刑直前のダントンのセリフによって、ロベスピエールは革命の理想を押し付けられた犠牲者だと説明されることで、ロベスピエールの不可解な点はある程度納得。それでも、盟友デムーランが逮捕されているときに彼の妻リュシルに想いを告白するシーンは謎の嵐。ロベスピエールはなんでずっと独身なの?とか思うところはあったけれども、伏線もなく終盤にいきなりなんてことを言いだすんだ?(このあとデムーランに続きリュシルも断頭台送りになる)。さらにサン・ジュスト(美貌の男)にロベスピエールが唇を奪われるシーンはなんじゃこりゃ?ショッキングなシーンなはずなのにロベスピエールはそんなに動揺していない(あくまでも大事なのは革命を続けることらしい)。小説だからこそもっと明確に人間ロベスピエールの性格を定めてよかったのではなかろうか?
wikipediaの「マクシミリアン・ロベスピエール」の項

・大物に、ミラボー(1791年病死)、デムーラン(ミラボーにそそのかされて1789年のバスティーユ襲撃の中心人物となる)がいるのに、不勉強なラフはこの二人全くのノーマークだったよ(小説を読むまで存在さえ知らなかった)。そうは言っても、この小説で一番共感できた人物はデムーランだ。子供っぽくて後先考えずに突っ走る情熱家でありながら、しょっちゅう考え込んでは勝手にへこんでしまうインテリ。放っておけない愛おしさにあふれている。
wikipediaの「オノーレ・ミラボー」の項
wikipediaの「カミーユ・デムーラン」の項

・女性も多く登場し活躍するのだが、男に比べると今ひとつ格下扱いされている登場人物が多いかなぁという印象を受けてしまうのは時代のせい?小説の最後の章は女性の時代の到来を予感させる終わり方になってはいるんだけれども……。

・一番面白く読めたのは、ルイ16世一家が国外逃亡を企てたヴァレンヌ事件(ヴァレンヌなのにばれちゃった事件)のくだり。国境手前のヴァレンヌまで逃げたのだがここで捕まる。この事件がルイ16世の視点で描かれる。(文庫第7巻)
wikipediaの「ヴァレンヌ事件」の項

・小説的に面白かったのは、断頭台に送られる直前のダントンとロベスピエールの対峙、ダントンがデムーランに語るロベスピエール評(文庫第17巻)。

・共和制が樹立すると、キリスト教との関係が深いグレゴリオ暦(いわゆる西暦)が廃され、共和暦が採用される(採用されるのは1793年11月24日だが、さかのぼって王政が廃止された翌日1792年9月22日を共和暦元年元日とする)。歴史小説なので日付が結構出てくるのだけれども、共和暦というのがどうしても重要になってくるので、本文中も日付は「それは熱月六日あるいは七月二十四日、つまりは昨日の話だった」(熱月と書いてテルミドールと読む)というように記される。共和暦の日付が出てくるたびに「あるいは」以下で西暦日付が併記され大変くどくなる。ところがおもしろいことに、読者だけでなく、当のパリ市民も共和暦にはちょっと困惑していたようだ。パリ市民にとって記念すべき日であるバスティーユ襲撃の日(7月14日、現在のパリ祭の日)が、共和暦の導入によりパリ市民にもわかりにくくなってしまったという旨が小説内にあり。
wikipediaの「フランス革命暦」の項

この小説はテルミドールのクーデターでロベスピエールが断頭台に送られたところで終わる。フランスの政体は19世紀も安定しない。このあと、総裁政府~総統政府(ナポレオンの表舞台への登場)~第1帝政(ナポレオンが皇帝に)~王政復古~帝政(ナポレオンの百日天下)~(第2期)王政復古~七月王政~第2共和制~第2帝政(ナポレオン三世)~第3共和制と目まぐるしく変わっていく。20世紀は第二次世界大戦でナチスの傀儡政権ヴィシー政府の後、戦後から現在まで続く第4共和制に至る。

小説フランス革命 全18巻セット(集英社文庫)(集英社文庫)[佐藤賢一]
【合本版】小説フランス革命(全18巻)(【合本版】小説フランス革命(全18巻))[佐藤賢一]【電子書籍】


著者の佐藤賢一は大学で西洋史学を専攻した直木賞作家。内容や文体の好き嫌いは個人的な好みなどがあるから問わないが、作家にしては言葉の扱いが甘いように思える。先日の日記で「汚名挽回」を指摘した(読了:ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ])。今回は何度か「姑息」という言葉が出てくるんだけれども、どうやら「卑怯」という意味で使っているようなのだ。確かに現代の多くの日本人が「姑息」を「卑怯」と間違えているという調査はある。しかし「姑息」は「一時しのぎ、その場しのぎ、場当たり的」という意味だ。つまりその場を切り抜けるための、とりあえずの(熟考していない)回避だ。一方「卑怯」は考えたうえでのこざかしさを思わせる。対象に対して、考えていないのか、考えたのかの違いはラフの言語感覚では大きいように思われる。プロの物書きであるならば、こういう間違えやすいとされている語の使い方はきちんとしてほしいとラフは考える。多くの人が間違えている言葉をあえて(逆手にとって)間違った用法で使うのであれば、意図的にそうしていることがわかるようにしたほうがいいだろう。そうでないなら、誤解を避けるためにも、別の語を使うなどの方法をとったほうがいいのではないか。出版社を通した商業用ルートに乗ったものなのに、ちゃんとチェックする人はいなかったのだろうか?

wikipediaの「佐藤賢一」の項
姑息 – 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)
姑息(こそく)について : 日本語、どうでしょう?

読了:ホモ・デウス 上・下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。『サピエンス全史』の著者が描く衝撃の未来。生物はただのアルゴリズムであり、コンピュータがあなたのすべてを把握する。生体工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。人類はどこへ向かうのか?

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラーになった前著「サピエンス全史」に続く、人類の行く末の考察。人類の行く末の考察といっても、本著の基本となっているのは歴史的なイデオロギー(宗教)の変遷と、未来の人類の行く末を決定づけるであろう現代科学(バイオテクノロジーとAI)。歴史書というよりも、学術風人類史エッセイ。前著「サピエンス全史」の最後は、人類は有機生命体を脱して電脳空間へと意識のみを移す進化を遂げる可能性があるというびっくりのSF着地だった。さて、今度はどうなるか。ちなみに「サピエンス全史」を読んだ時の感想文はこちら。

読了:サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]

 ユヴァル・ノア・ハラリって功成り名遂げた学者かと勝手に思っていたけれども、1976年生まれだというから、ラフより年下だったのね。歴史学者だけれども、進化生物学者的な科学的視点も多くあるところがおもしろい。

 現生人類(ホモ・サピエンス)はホモ・デウス(「デウス」は神の意)に進化するのか、2001年宇宙の旅のスターチャイルドみたいななにかに?(表紙の絵から連想)なんて読み始める前は勝手に思っていたけれども、違いました。

 現時点(21世紀初頭)で人類が克服したものとして「飢饉」「疫病」「戦争」が挙げられる。すっかり解決できたわけではないものの、対処可能な課題に変わったのだ。そして、これからの人類は「不死と至福と神性を目指して進む」のだろうという仮定のもとにストーリーは進む。

 さて、人類も動物であるのだが、なにが人類と他の動物を異なるものとしているのかという点から始まる。動物にも意思(事態の予測さえ可能)と思しきものを持つ種もいるのだ。ただ人類は、実在しないものである概念(神(宗教)、国家、貨幣価値、企業)、そしてそれを他者と共有し協力することが可能で(ん?なんかそういう本を最近読んだぞ?)、これが人類を特別な存在にしたのである。また時間空間を超えて伝える手段である書字さえ身に着けたのだ。

 原始的なアニミズムからやがて体系だった宗教というものを生み出した。人は「神」(あるいは神の意志を伝える権威をもった教皇や皇帝、王など)が命ずるからそれを自身の生きる指針とした時代が科学革命の時代まで続く。そして啓蒙主義の時代に入り、誰もが個別に持っている個人の意思というものが重視される人類至上主義の時代に変わる。「神は死ん」で、「私がそう思う(感じる、考える)からだ」ということを明言する時代になったのだ。そして20世紀に自由主義というものが主流になるのであるが、ここにおいて人類至上主義の極端な進化形である「ファシズム」と「共産主義」も生み出された(ただし既知のようにこれらは失敗している。なぜ失敗したかの考察もされているが、失敗したのに「進化」という点に注目)。

 現在、科学界を席巻している技術は生物学(本著では主に進化学と脳科学をさしているようだ)と人工知能(いわゆるAI)である。これらの研究により、私たちが「意識」と呼んでいるものの存在が科学的に研究されるようになってきた。人類至上主義、自由主義の根拠となっていた「自己」の「自由意志」というものの正体はなんなのか?最近の研究によると生物はアルゴリズムにより動いているに過ぎないのだと。そのアルゴリズムから生まれるのが「自己」という意識であって、つまりは「自己もまた想像上の物語」ということもいわれるようになった。生命現象(事実)としてそうなのであって倫理的にどうかということは問題ではないのである。

 こうして時代は人類至上主義から情報(データ)至上主義の時代へと移行を始めている。ネットワーク(インターネット)上に自分の情報をどんどんアップロードすることにより(もちろんプライバシーを提供することに同意することが前提だが)、自分よりも自分のことを知っていて、より適切に自分の人生の指針(結婚相手や仕事など)を判断して示してくれるアルゴリズム(システム)が登場するだろう(現にSNSの時代とはこういうものじゃないか?)。それで十分幸せな人生が送れるのであれば「プログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?」。システムにとっては、人類は情報の提供をするだけの存在であり、翻ってそういう人類に人生の指針を与えるというシステムの存在の意味はなんなのか?人類はそういうものを作り出すことを目指しているのか?

 こういう未来展望にひっかかる読者がいれば、これでいいのかどうか、ぜひ考えてほしい。それが本書の意義であるという締めくくりであった。

 ホモ・デウスとは結局何なのか。ラフがどうとらえたかというと、人類を人類たらしめた要素は未来においてシステム(本書でいうところのアルゴリズム)に代替されうる、このシステムこそがホモ・デウスではないのか(ホモ・サピエンス自らのアップデートではなさそうだよ。つまり人類の進化的後継ではない)。

 脳科学の研究を踏まえた「生物はアルゴリズムであり自己なんてものは幻想」という考察はちょっと強引な気がする。確かに脳の活動原理が電気信号と化学物質による情報伝達でありそれが複雑なネットワークを形成しているということはわかっている。でも、どういう情報(刺激)によって、何がどのように作用して出力(行動や意識)が生み出されるのかの仕組みはまったくわかっていないのだ(こういう刺激により脳のこの部分が活動しているからおそらくこの部分が関わっているだろうという程度のことは推測されている)。このわかっていない部分こそが著者の言うアルゴリズムじゃないの?それは全然明らかになっていないし、それを人類が理解できる言語化つまりロジックにするのは現段階では不可能。ここの展開を読んでいて思ったのは「シュレーディンガーの猫」っぽいなぁってこと。ミクロレベルの量子力学の話を、マクロの物理学に持ってくると、おかしな事態になるっていうたとえ話が「シュレーディンガーの猫」なんだけれども、これの脳科学版を読んでいる気もするのだ。レベルの違うことをアルゴリズムという語で強引に引き寄せて結んでしまい論展開が飛躍している。かつて一世を風靡した「生命機械論」を彷彿とさせる面もあるなぁ。

 まぁ、本著でもAIのシンギュラリティーはやってくるって前提で話が進んでいるんだけれども、ラフが思うに現状の科学の延長上にはシンギュラリティーはやってきそうにないよ。当分どころかずっとね。シンギュラリティーがやってくるとしたら、まったく異なるとんでもない発想の転換とイノベーションが必要だろうねぇ。

ホモ・デウス 上[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
ホモ・デウス 下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

以下のような記事もありましたので(以前retweet済み)、紹介しておきます。