読了:愛なき世界(単行本)[三浦しをん]

恋のライバルは草でした(マジ)。洋食屋の見習い・藤丸陽太は、植物学研究者をめざす本村紗英に恋をした。しかし本村は、三度の飯よりシロイヌナズナ(葉っぱ)の研究が好き。見た目が殺し屋のような教授、イモに惚れ込む老教授、サボテンを巨大化させる後輩男子など、愛おしい変わり者たちに支えられ、地道な研究に情熱を燃やす日々…人生のすべてを植物に捧げる本村に、藤丸は恋の光合成を起こせるのか!?道端の草も人間も、必死に生きている。世界の隅っこが輝きだす傑作長篇。

 タイトルは殺伐としているけれども、内容は優しい愛情にあふれた作品。東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻植物学関係の研究室の人々と、そこにふとしたきっかけで出入りするようになった、本郷通りの赤門前あたりをちょっと入ったところの洋食屋で働く青年との交流が描かれる。ま、もっとも主人公は藤丸青年というより、彼が好きになった博士課程大学院生の本村さん。彼女の研究生活を軸にしておよそ1年の出来事が描かれる。

 植物の研究って何してるの?という方は読んでみると面白いかも。本村さんは、アラビドプシス(シロイヌナズナ)を材料として、植物の葉が一定の大きさに制御されている仕組みを研究している。葉の大きさを制御している特定の遺伝子を4つ壊せば(<ちょっと科学的には不正確な表現だけれども)、制御が効かなくなって野生株よりも大きな葉が生じるのではないか?という仮定で研究を進めている。この4重変異株を作るのに彼女は苦労している。

wikipediaの「シロイヌナズナ」の項

 おそらく、科学や基礎研究になじみがない人にとっては、それの何が楽しいの?何の役に立つの?ってところなんだろうけれども、なぜそうなっているのかを知りたいという知的探求心(それはもう渇望と呼んでもよい)が基礎研究に携わる人の原動力なのだということが、読んでもらえばわかってもらえるかと。自然科学系の大学院生・研究者がどんな生活をしているのかを垣間見ることもできるので、そういう点でもおもしろいかと。

 登場人物がみな一風変わった変人の類なんだけれども、この小説ではとてもマイルドで優しい描かれ方をしている。基本的にみんないい人なのだ。実際の研究者はクセの強いもっと筋金入りの変人が多いと思う。概して植物を扱う研究者はのんびりとしたところはあるけれども、それでももっととんがった部分もあったよというのが、かつて生物学研究者の端くれとして研究室に所属していた自分の感想。まぁ新聞小説だからこのくらい優しい話でいいんだろうけど。

愛なき世界(単行本)[三浦しをん]
愛なき世界(愛なき世界)[三浦しをん]【電子書籍】

読了:ホモ・デウス 上・下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。『サピエンス全史』の著者が描く衝撃の未来。生物はただのアルゴリズムであり、コンピュータがあなたのすべてを把握する。生体工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。人類はどこへ向かうのか?

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラーになった前著「サピエンス全史」に続く、人類の行く末の考察。人類の行く末の考察といっても、本著の基本となっているのは歴史的なイデオロギー(宗教)の変遷と、未来の人類の行く末を決定づけるであろう現代科学(バイオテクノロジーとAI)。歴史書というよりも、学術風人類史エッセイ。前著「サピエンス全史」の最後は、人類は有機生命体を脱して電脳空間へと意識のみを移す進化を遂げる可能性があるというびっくりのSF着地だった。さて、今度はどうなるか。ちなみに「サピエンス全史」を読んだ時の感想文はこちら。

読了:サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]

 ユヴァル・ノア・ハラリって功成り名遂げた学者かと勝手に思っていたけれども、1976年生まれだというから、ラフより年下だったのね。歴史学者だけれども、進化生物学者的な科学的視点も多くあるところがおもしろい。

 現生人類(ホモ・サピエンス)はホモ・デウス(「デウス」は神の意)に進化するのか、2001年宇宙の旅のスターチャイルドみたいななにかに?(表紙の絵から連想)なんて読み始める前は勝手に思っていたけれども、違いました。

 現時点(21世紀初頭)で人類が克服したものとして「飢饉」「疫病」「戦争」が挙げられる。すっかり解決できたわけではないものの、対処可能な課題に変わったのだ。そして、これからの人類は「不死と至福と神性を目指して進む」のだろうという仮定のもとにストーリーは進む。

 さて、人類も動物であるのだが、なにが人類と他の動物を異なるものとしているのかという点から始まる。動物にも意思(事態の予測さえ可能)と思しきものを持つ種もいるのだ。ただ人類は、実在しないものである概念(神(宗教)、国家、貨幣価値、企業)、そしてそれを他者と共有し協力することが可能で(ん?なんかそういう本を最近読んだぞ?)、これが人類を特別な存在にしたのである。また時間空間を超えて伝える手段である書字さえ身に着けたのだ。

 原始的なアニミズムからやがて体系だった宗教というものを生み出した。人は「神」(あるいは神の意志を伝える権威をもった教皇や皇帝、王など)が命ずるからそれを自身の生きる指針とした時代が科学革命の時代まで続く。そして啓蒙主義の時代に入り、誰もが個別に持っている個人の意思というものが重視される人類至上主義の時代に変わる。「神は死ん」で、「私がそう思う(感じる、考える)からだ」ということを明言する時代になったのだ。そして20世紀に自由主義というものが主流になるのであるが、ここにおいて人類至上主義の極端な進化形である「ファシズム」と「共産主義」も生み出された(ただし既知のようにこれらは失敗している。なぜ失敗したかの考察もされているが、失敗したのに「進化」という点に注目)。

 現在、科学界を席巻している技術は生物学(本著では主に進化学と脳科学をさしているようだ)と人工知能(いわゆるAI)である。これらの研究により、私たちが「意識」と呼んでいるものの存在が科学的に研究されるようになってきた。人類至上主義、自由主義の根拠となっていた「自己」の「自由意志」というものの正体はなんなのか?最近の研究によると生物はアルゴリズムにより動いているに過ぎないのだと。そのアルゴリズムから生まれるのが「自己」という意識であって、つまりは「自己もまた想像上の物語」ということもいわれるようになった。生命現象(事実)としてそうなのであって倫理的にどうかということは問題ではないのである。

 こうして時代は人類至上主義から情報(データ)至上主義の時代へと移行を始めている。ネットワーク(インターネット)上に自分の情報をどんどんアップロードすることにより(もちろんプライバシーを提供することに同意することが前提だが)、自分よりも自分のことを知っていて、より適切に自分の人生の指針(結婚相手や仕事など)を判断して示してくれるアルゴリズム(システム)が登場するだろう(現にSNSの時代とはこういうものじゃないか?)。それで十分幸せな人生が送れるのであれば「プログラムが意識や主観的経験を持たないからといって気にする必要があるだろうか?」。システムにとっては、人類は情報の提供をするだけの存在であり、翻ってそういう人類に人生の指針を与えるというシステムの存在の意味はなんなのか?人類はそういうものを作り出すことを目指しているのか?

 こういう未来展望にひっかかる読者がいれば、これでいいのかどうか、ぜひ考えてほしい。それが本書の意義であるという締めくくりであった。

 ホモ・デウスとは結局何なのか。ラフがどうとらえたかというと、人類を人類たらしめた要素は未来においてシステム(本書でいうところのアルゴリズム)に代替されうる、このシステムこそがホモ・デウスではないのか(ホモ・サピエンス自らのアップデートではなさそうだよ。つまり人類の進化的後継ではない)。

 脳科学の研究を踏まえた「生物はアルゴリズムであり自己なんてものは幻想」という考察はちょっと強引な気がする。確かに脳の活動原理が電気信号と化学物質による情報伝達でありそれが複雑なネットワークを形成しているということはわかっている。でも、どういう情報(刺激)によって、何がどのように作用して出力(行動や意識)が生み出されるのかの仕組みはまったくわかっていないのだ(こういう刺激により脳のこの部分が活動しているからおそらくこの部分が関わっているだろうという程度のことは推測されている)。このわかっていない部分こそが著者の言うアルゴリズムじゃないの?それは全然明らかになっていないし、それを人類が理解できる言語化つまりロジックにするのは現段階では不可能。ここの展開を読んでいて思ったのは「シュレーディンガーの猫」っぽいなぁってこと。ミクロレベルの量子力学の話を、マクロの物理学に持ってくると、おかしな事態になるっていうたとえ話が「シュレーディンガーの猫」なんだけれども、これの脳科学版を読んでいる気もするのだ。レベルの違うことをアルゴリズムという語で強引に引き寄せて結んでしまい論展開が飛躍している。かつて一世を風靡した「生命機械論」を彷彿とさせる面もあるなぁ。

 まぁ、本著でもAIのシンギュラリティーはやってくるって前提で話が進んでいるんだけれども、ラフが思うに現状の科学の延長上にはシンギュラリティーはやってきそうにないよ。当分どころかずっとね。シンギュラリティーがやってくるとしたら、まったく異なるとんでもない発想の転換とイノベーションが必要だろうねぇ。

ホモ・デウス 上[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]
ホモ・デウス 下[ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之]

以下のような記事もありましたので(以前retweet済み)、紹介しておきます。

the summer solstice

 今日は夏至。北半球では一年で一番太陽が高いところを通る日(昼が長くなる)。昼間が長いと性欲が強くなるという説があり、夏至の日は北半球で人間の性欲が一番強くなる日になるのか。そうすると十月十日たった3月あたりの誕生日の人が多くなるはずなのだけれども、寡聞にして存じません。まぁ俗説でしょうね。

出産数(出生数)が多い月と少ない月は何月か・月別の出生率

 さて夏だ。「夏は来(き)ぬ」というよく知られた唱歌がある(といっても若い人たちは知らないかも)。歌の冒頭に「卯の花」とあるように卯月(陰暦の四月、現在の五月ころ)の歌だが、陰暦だと四月五月六月が夏なので、陰暦四月に「夏が来たよ!」ってよろこびを歌っている。夏至だと夏の盛りだから、今日この歌を取り上げるのはちょっと遅いか。

wikipediaの「夏は来ぬ」の項

 「夏が来たよ!」っていう歌なんだけれども、歌詞が(文語調)なので最後の「ぬ」を否定の意味にとってしまい「夏が来ない」と勘違いしてしまう人もいるだろう。上記wikipediaでも解説されているように、「来(き)ぬ」の部分を品詞分解(高校古典でやったよね)すると、カ行変格活用動詞「来(く)」の連用形に、完了の助動詞「ぬ」の終止形なので現代語だと意味が「来た」なのだ。

 ちなみにプラスアルファとして押さえておくならば、カ行変格活用動詞は「来(く)」の一語のみ(現代口語だと「来る」)。「来(く)」が連用形になっているのは、続く助動詞「ぬ」が連用形接続助動詞であるからで、また「夏は」の「は」は終止形を取る係助詞なので、最後の助動詞「ぬ」は終止形である。

 「来ぬ」を「来ない」という意味だと勘違いしてしまった人は、否定の助動詞「ず」の連体形の「ぬ」だと思ったからだろう。完了の助動詞「ぬ」の終止形と打消の助動詞「ず」の連体形はどちらも「ぬ」だがこの識別は試験(大学入試を含む)の定番。

 じゃ発展としてここからは試験には出ない古語作文。まず間違えてしまった人向けに打消の助動詞「ず」を使った「夏」が来るか来ないか問題は文語ではどうなるか。否定の助動詞「ず」は未然形接続助動詞なのでカ行変格活用動詞「来」の読みは「こ」になる。否定の助動詞「ず」が「ぬ」になるのは連体形なので、これで終わるならば係り結びの法則で連体形終止をとる係助詞があるはず。連体形終止をとる係助詞は強調の「ぞ」「なむ」に、疑問・反語の「や」「か」。

「夏来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏なむ来(こ)ぬ」((まさに)夏が来ない!)
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
「夏来(こ)ぬ」(夏は来ないのか?(いや来る))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

であろうか。

 ちなみに、元に戻って完了の助動詞「ぬ」を係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」と使うなら助動詞「ぬ」の連体形は「ぬる」。

「夏来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏なむ来(き)ぬる」((まさに)夏が来た!)
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
「夏来(き)ぬる」(夏は来ただろうか?(いや来ていない))
(疑問なのか反語なのかは前後の文脈による)

 もっともそういう風に文法で決まっているからこういう解釈や意味だとするのは現代人のための手立てであって、本来的には「夏は来ぬ」で昔の人は文法なんて関係なく十分に意味が取れていたのだ。そういういろんな言い回しを系統だててまとめてみた後付けの体系が文法。

 参考までに強調の係助詞「こそ」を使う場合は已然形で結ぶので、完了の「ぬ」、打消の「ず」は次のようになる。

「夏こそ来(き)ぬれ」((まさに)夏が来た!)
「夏こそ来(こ)ね」((まさに)夏が来ない!)

本文中で「古文」「古典」「文語」、「現代文」「口語」という言葉を結構適当に使っているので、気が向いたら後で整理しよう。また文語作文の正確性は未検証。


「夏は来ぬ」をネットで機械英訳させてみた。

Google 翻訳

Summer will not come

「来ないよ」って未来の否定になっている。

Weblio 翻訳

I do not come in the summer

主語が自分になってる。「私は夏には来ない(行かない)」って感じか。

文脈なしの文語調日本語なので正確に訳せるとは思わないけれども、どちらにせよAI的にはやっぱり「来(こ)ぬ」と読んで、意味は「来(こ)ない」なんだなぁ。

「夏が来た」にして英訳させると

  • Summer came.
  • The summer is in.
  • Summer has come.

このあたり。唱歌のタイトルとしての「夏は来ぬ」だと3番目あたりがいいかな。

ざんねんないきものとざんねんな進化認識

 「生物は生き延びるために進化する」という表現は生物学的にはおかしい。「生き延びる」というのが意思ではなく「生存」という事実のことを言っているとしてもだ。生物は「生存するために進化する」わけではないのである。「新たに生じた表現型が淘汰圧にさらされ結果として滅びなかったものが生き残った」(その時の環境でマイナス要因を抱えていたものがいなくなっただけで、有利なものだけが生き残るのではなく、有利でも不利でもないものも淘汰圧の影響を逃れているので生き残る)というのが結果としての「進化」である。

 最近「ざんねんないきもの事典」というタイトルの児童書が流行った。でも「ざんねん」とはあくまでも人間から見たら「なんでそうなってるの?」っていう興味を引くためのきっかけとしてその語がタイトルに使われているだけで、「ざんねん」といっても生物学的にその種が「失敗」だということを意味しているわけではない。少なくとも生き残っているわけだから(あるいはティラノサウルスだったら当時存在していたわけだから)、当時の環境による淘汰圧の大きなマイナス影響を受けずに生存できたってことは種としては生物的にはむしろ「成功」なんじゃないの?(形態学的に人間から見たら「ざんねん」だとしても)

wikipediaの「ざんねんないきもの事典」の項

 進化論の話で出てくる有名なたとえ、「眼鏡の鼻パッドを乗せやすいように、人類の鼻の形は進化した」っていうのは明らかにおかしいってわかるでしょ?語が抽象的になったとたんに、この手の誤解や珍論が進化論にはついて回る。

 だからといって、例えば文学作品(たとえばSF)で「生き延びるために進化する」という考えを据えて話を作るということには反対はしない。あえてそういう設定にすることでその作品に価値が生まれるのであればね。

読了:科学 vs. キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]

「天地創造」は6000年前、アダムはすべての人類の祖…「常識」は、いかに覆されたか?知の大転換のプロセスをスリリングに描く!

聖書(主に旧約聖書の創世記)に縛られた普遍史(聖書的時間)から科学的歴史へと歴史観が変わっていく様子を、ニュートンの時代(科学革命の時代)から概説する。ヨーロッパが囚われていた聖書の呪縛がいかに強力であったかがわかる。

まずはデカルト、ニュートンの時代(科学革命の時代とされるが)。それまでは世界(宇宙)は神によって作られ、神自らによってあまねく制御されていると考えられてきた。しかしここにおいて世界は神によって作られたが、その後万物は神によって作られた自然法則によってなる世界にリリースされたのだという考え方が登場した。自然法則を明らかにするということは神の作った法則を明らかにするという発想。ニュートンがまとめた運動の法則や万有引力(重力)も神の法則を明らかにしたもので、ニュートン自身は天地創造を疑っていなかった。なにしろ世界は天地創造から約6000年と考えられていたのだ。

次に分類学の祖リンネ。神が作りたもうた完全なる世界(創世記にあるようにすでに生物はすべて完成している)の生物を分類しようという試み。新世界の知見が広く知られるようになり、それをいかに分類するか。とりわけ人類の分類。ヒトに近いサルと、サルに近いヒト、世界各地に伝わる伝説の生き物、これらをどう分類していくのか。

続いて啓蒙主義の時代。ここにおいて聖書時間に支配された普遍史(聖書の記述に基づいた歴史)から人文科学としての世界史の成立。年代表記も創世紀元からキリスト紀元へ。天地創造の時期と人類の誕生の時期の分離。信憑性のありそうなエジプトや中国の古代史が聖書の記述では説明できないことが分かってきたのだ。聖書に対する追随的合理化から批判的合理化の始まり。

そして、19世紀に登場したダーウィンの進化論や地質年代の研究により、実は地球の歴史はもっと古かったのでは?どうしても絶対的な長い時間が必要になるのだ(少なくとも数億年)。しかし当時の権威とされるケルビン卿(熱力学第2法則をまとめたり、絶対温度の単位に名を遺す)により最大1億年(数千万年程度が妥当と)という枠に縛られる。

第2次大戦後になってようやく放射性同位体を使った正確な地質年代が求められたのである。地球の年齢は46億年と。

科学vs.キリスト教 世界史の転換(講談社現代新書)[岡崎 勝世]
科学vs.キリスト教 世界史の転換[岡崎勝世]【電子書籍】

読了:知ってるつもり 無知の科学[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]

インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。

上の紹介には「ノンフィクション」とあるけれども、どちらかというと認知科学者による「集団認知」に関する科学啓蒙書(ただしとても分かりやすく読みやすい)。認知科学に基づいた調査(バカみたいなメディアによる世論調査とは一線を画す)実験・研究を踏まえた内容。人はいかにものを知っているつもりになっているかを明らかにした調査報告や、なぜ人は物事を知っているつもりになってしまうかを人類の進化を交えて考察する前半。その結果現代人が直面している科学・政治・生き方においてどういう有様になっているかを紹介し、「集団認知」(コミュニティとして持つ知恵)をどういかしていけばいいのかを示唆する後半。

人類は自分だけの知識でなく、他人の知識をも共有し、それをシームレスに活用して集団生活(コミュニティ)できるように進化してきたとも言える。生きていくうえで必要な世界にある情報はあまりにも多すぎて個人レベルではどうにもならない。だから様々な分野の専門家をうまく頼り(ただし騙されないように)、またそのためには集団内に多様な人材をそろえておいたほうがいいよねって感じ。同質な人間ばかりが集まると集団浅慮ということも起こることがわかっているしね。とかいう話が具体的な調査や例で報告されるので読んでいて面白い(いわゆるイタい話がてんこ盛り)。

「個人の無知を知ったうえで集団としてうまく生きていく」と、そういうまとめで終わるんだけれども、実はあとがきでちょっとブレる。著者のうちの一人が、自分の2人の娘の話をするのだが、そこで一人の娘はそういうことを知っているような沈着冷静でキチンと物事を見据える傾向にあるが、もう一人の娘はそうではなく自由奔放活発で思ったままに行動すると。でどっちがいいのか?当然どっちもいいんだ。前者は本著で述べたようにもちろん好ましいのだが、後者は後者でこれこそが人らしい点でもあり、このことが人類を進歩させてきた原動力ともいえるのだとか言い出す。なんだ、じゃ結局どっちでもいいんじゃん(自分の無知に自覚的であろうと無自覚であろうと)とか思ってしまった(ここはラフの読みが甘いだけかもしれないが)。まぁそうはいっても内容はなかなか面白かったんだけれどもね。

知ってるつもり[スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック]
知ってるつもり 無知の科学[スティーブン スローマン/フィリップ ファーンバック]【電子書籍】

読了:文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ]

原題は「Why Is Sex Fun?」。日本語訳された時の邦題は「セックスはなぜ楽しいか」。文庫化されるにあったって今回の邦題に変更された。堂々と講義の副読本にも使えると後書きにあり。

刺激的なタイトルではあるけれども、ジャレド・ダイアモンドの人間の性にまつわる基本的にはまじめ、でも軽妙洒脱な科学エッセイ。内容は目次を追うと「なぜ男は授乳しないのか?」「セックスはなぜ楽しいか?」「男はなんの役に立つか?」「少なく産めば、たくさん育つ」「セックスアピールの真実」とヒトの性の不思議を進化論的にどういう説明ができるのかを試みていく。個人的には女性が閉経するのはなぜかというのがおもしろかった。人間の性の不思議を議論するために、ほかの生物ではどうなっているのかなど興味深い知見や仮説が盛りだくさん。

ジャレド・ダイアモンドの著書っておもしろいんだけれども、ちょっと読みにくい。内容はそれほどむつかしいことを言っていないのだが、前提の話や仮説の紹介が数ページにわたることもあって、今何のためにこの話をしていてどこに向かっているのかを見失ってしまいがちになる。それと厳密に読んでいくと「おや?」と思うところも多い。なんで違うカテゴリーのAとBを比較できるの?さっき疑問を呈した考えを今度は積極的に採用するの?とか思う。著者が指摘するように、ラフは分子生物学的思考をしがちなので、進化の考え方と相性が悪いのかもね。

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ]

学術用語の英語式発音

酸性やアルカリ性の指標である、「pH」を「ペーハー」って呼ぶことを高校のころ習わなかった?でも、大学の専門課程の実験なんか始めるころになると「ピーエイチ」と読むようになる(実際に教官からそう指導もされた)。自分の専攻していた分子生物学ではやっぱり英語が共通言語で(当然論文も原則英語)、ドイツ語由来の「ペーハー」という読みはしなくなるのだ。

大腸菌の学名は「Escherichia coli」なんだけれども、学名はラテン語由来なので「エシェリキア・コリ」と読む(ラテン語はローマ字読みでOK)。ま、長いので多くの場合「E. coli」と略して「イーコリ」と読む。授業とかでも「イーコリの場合は~」とか普通に言われる。これを英語圏の人(特にアメリカ人)だと「イーコーライ」と発音する。

読了:オイラーの公式がわかる (ブルーバックス) [ 原岡 喜重 ]

「オイラーの公式」って知ってる?指数関数と三角関数が虚数を使うことで関連付けられている式。なんでこんな等式が成り立つの?この式の意味は何?って思うものだよね。それを、高校生でもわかるように説明しているブルーバックス。微分の定義からeを底とする指数関数、sin, cosの三角関数を微分するとどうなるか。そして、それらの関数をテイラー展開するとどうなるか。そうすると、公式が見えてくるんだよね。こんなシンプルにわかっちゃっていいわけ?ってくらい感動もの。この「オイラーの公式」の使いどころは、sin, cosは互いに影響しあう関数だけれども、それを1つの指数関数として扱うことができる、つまり計算が簡単になるという点。「オイラーの公式」についてのひとしきりの証明と説明が終わった後に、実際の応用として、振り子、交流回路、電場と磁場(マックスウェル方程式)の計算を軽くやってのけるのだが、この時にオイラーの公式でいかに計算が楽になるのかが実感できる。(説明すれば高校生でも理解できる内容ではあるけれども、一般的には大学の教養課程の最初のころにやるような内容)

「博士の愛した数式」という映画化もされた小説があるけれども、あの中にも登場していたなぁ。オイラーの公式の変数にπを入れた時の等式が(下記wikipedia参照)。

オイラーの公式がわかる (ブルーバックス) [ 原岡 喜重 ]

wikipediaの「オイラーの公式」の項

wikipediaの「博士の愛した数式」の項

読了:1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 [ デイヴィッド・S・キダー ]

1日1ページ(実はページ数は1日2~3ページ)で、世界の教養に触れられるという雑学本だ。月曜日は歴史、火曜日は文学、水曜日は視覚芸術(美術とか建築とか)、木曜日は科学、金曜日は音楽、土曜日は哲学、日曜日は宗教というテーマ。広く浅く、主に歴史に沿って各分野の各論が紹介される。あとがきにあるように、これで興味を持ったら、さらに本を探していろいろ読んでみてくださいねというあくまでも教養入門本。なので記事内容は初心者にもやさしく読みやすい(とりわけ豆知識はほぼゴシップ)。ある程度知っている分野に関してはあきらかに物足りない。書かれているテーマはほぼ欧米の歴史に沿ったもの。なかでもアメリカに関係あるものは多い。歴史において「建国の父たち」や「南北戦争」の話題が複数回取り上げられる。音楽では「アーロン・コープランド」に2回分も割かれている(なのに「ガーシュイン」と「バーンスタイン」は合わせて1回分にまとめられていたりもするが)。

視覚芸術のカテゴリは多くの建築や絵画が出てくるんだけれども、いかんせん図がほぼない本なので、どの建築や絵について解説しているのかがわからない。google画像で絵のタイトルなんかで検索しながら読むのがよいかと。

個人的に面白かったのは「文学」と「哲学」。「文学」カテゴリでは著者名とかタイトルはよく知っているけれども、内容はまったく知らない本とか、あらすじを紹介してくれているのは面白い。「ユリシーズ」ってそういう話だったんだ。メルヴィルの「白鯨」、「誰もが知っているけれども実際に読んだことがある人は少ないだろう」には「うんうん」とうなずいてしまった。自分も登場人物は知っていても読んだことないもん。「哲学」カテゴリでは、よく見かける言葉だけれども哲学では世間一般的な意味では使われていない言葉に面食らう。今使っている言葉の定義からきちんとやっておかないと議論もへったくれもないということを垣間見、「だから哲学って誤解されるのでは?」と思うことしきり。

1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365 [ デイヴィッド・S・キダー ]